十章 父子
すっかり夜も更けたころ、少年はようやく自宅へとたどり着いた。急ぎ足で寺の門をくぐり、境内にある家へ向かう。
横開きであるガラス張りのドアからは、光が漏れていた。手をかけ、開く。二人の少女が、対照的な表情で玄関に立っていた。
「まさちゃん、お帰り!」
笑顔の有紗と、
「遅い!」
しかめっ面の水実だった。
「た、ただいま」
最寄り駅から走ってきた正義は、息もきれぎれにそう返した。
「大丈夫、まさちゃん? すごい疲れてるみたいだけど」
その様子に、有紗が笑みを崩し、一歩前に出て彼の顔を覗き込む。慌ててかぶりを振った。
「あっ、大丈夫、大丈夫。できるかぎり早く帰りたくて、走ってきたからさ。それでだよ」
口にしたのは、息を乱している原因だった。本当は、二人の無事な姿を見て安心し、遠出の疲れが身体に広がっていたのだが、変に心配させたくなかったので、言わなかった。この後に、あかりと戦いに行くのだ。正直に疲れてるなどと言ったら、不安を煽ってしまう。
「なんでまた、走ってきたりしたの?」
「早く、直に会いたかったんだ。電話越しに話はしたけど、霊に襲われたって聞いたら心配で」
「そっか。見ての通り、私なら無事だよ」
「うん、安心したよ。月原さんも見たところ大怪我はしてないみたいだし」
再び笑顔を浮かべた有紗に、正義は同じ表情を返した。水実の名字を出したとき、一瞬だけ有紗の笑みは凍ったのだが、それには気づかない。
「当たり前じゃない。あたしは、そんなヘマしないわ」
彼女の後ろから、水実が口を挟む。腰に手を当て、不満げに眉をひそめていた。
「そうだね。ありがとう、あっちゃんを守ってくれて」
そんな彼女に、正義は笑顔のままで、素直にお礼を言った。
「別に。あたしの仕事をしただけよ」
向けられた笑みから、目を逸らした。声が、少し高くなっていた。
「……照れなくてもいいのに」
有紗がそう言うと、
「照れてないわよ!」
水実は全力で否定した。正義はひるんだが、有紗には逆効果で、笑われてしまった。
「あー、もう! とにかく、さっさと上がってきなさい! 確認しておきたいことが山ほどあるんだから!」
右手で拳を握り、右足で床を踏み鳴らすと同時に、大きく振った。正義たちに背を向け、奥に歩いていく。
「あっ、ま、待って月原さん」
そんな彼女を、正義は呼び止めた。水実は足を止め、
「何よ?」
完全に不機嫌な声で、首だけをわずかに横に曲げた。
「先に、父さんに顔を見せておきたいんだ。和室で待ってて」
「……分かったわ」
特に文句を言うことなく、あっさりと承諾した。
「ありがとう」
正義はまた礼を言ったが、水実は何も答えず背を向け、歩いていった。
「……なんか、気に障ったのかな」
「さあ、どうだろうね」
首をひねると、有紗からはあいまいな言葉がきた。不自然さを感じながらも、そこは置いておくことにする。
「まあ、いいや。父さんのところに行ってくるから、あっちゃんも先に行ってて」
「うん。じゃあ、また後でね」
有紗がうなずいたのを見てから、彼は靴を脱いで父の部屋へ向かった。
正義の自宅は一階建てで、春雅の部屋は一番奥にある。玄関から真っ直ぐに廊下を進み、居間と客間の間を通っていく。すると、正面で廊下が左右に分かれているので、右に曲がる。逆方向には、風呂、トイレと、有紗たちが待機している茶室があった。曲がったあとは、物置と正義の自室を過ぎれば、春雅の部屋にたどり着く。
正義はいつもどおりの道順で、父の部屋の前に来ていた。扉を二度叩く。
「入りなさい、正義」
部屋の中から、深さのある少ししゃがれた声がした。優しさと厳しさが絶妙に混じっているような、そんな声。
促されたとおり、正義は扉を開けて中へ入った。畳のしかれた室内の奥側に、正座した父の姿があった。
「ただいま、父さん」
「お帰り、正義」
とりあえず、挨拶を交わす。これは、毎日していることだった。出かけてから家に帰ったら必ず『ただいま』を言いに来ること。幼い頃から春雅が約束事とし、正義が守ってきたことだった。
その決まりごとを終えたので、もう立ち去ってしまってよかった。水実も山ほど確認したいことがあると言っていたのだから、早く茶室に向かってしまっていいのである。しかし、正義は父の前に正座した。
「……なんとかなりそうですか」
先に口を開いたのは、春雅の方だった。強がりやごまかしからではなく、純粋な自信から正義はうなずく。
「うん。月原さんもいるし、大丈夫。ただ、有紗は父さんに頼むことになるかな」
「構いません。責任を持って守りましょう」
「ありがとう」
「礼の必要はありません。するにしても、自分のすべきことをしてからにしなさい」
「分かった。じゃあ、終わってからあらためて言うよ」
「……好きにしなさい」
めったに笑顔を見せない春雅が、微笑を浮かべる。とても優しげだった。
しかし、次の瞬間には固い表情に戻っていた。正義にまた問う。
「それで、お前は何に迷っているのですか?」
正義が息を呑んだ。目を見開く。実際は無音ではなかったが、そのとき春雅の部屋の音は死んだ。
静まり返った空間で、
「昔からお前は、何か抱えているものがあると、私と目を合わせようとしないでしょう。無意識だとは思いますが、必ず別の場所へ目線を向けています。今も、私が話を振るまで後ろの掛け軸を見ていましたよ」
二つの特性が混じり合った声が響く。ただ、その出どころは同じ感情だった。
「よかったら、話してみなさい」
話すように促す。しかし、正義は口を開かなかった。
「話したくありませんか」
「うん」
尋ねると、彼は首を縦に動かした。
「……そうですか」
再び、二人が存在するのみの空間になる。どちらも、立ち上がる気配はない。正義が父の言葉を待っていた。
「正義」
名前を呼ばれ、彼は身を縮めた。うつむいたままで、口を挟もうという気配は微塵もない。
「迷いは、誰もが持っています。当然、お前が持っていても責められることではありません」
春雅が、淡々としゃべり出した。
「ですが、見たところ、今のお前が抱えている迷いは、“どちらが正しい”かではなく、“自分の都合”のこと。お前の目に、邪さがありましたよ」
責めている口調ではない。かといって、気にしていないようでもない。訴えかけていた。
「お前が何を考えているのか、すべては分かりませんが、少なくともそんな目をするものには賛同できません」
わずかに、首を左右に振る。正義は、指摘されるたびわずかに身体を動かすものの、口は開かなかった。
「正義、お前は今、己の欲と何を天秤にかけているのですか」
今度は反応が大きかった。正義の全身が震えたのである。
「お前もよく分かっているはずです。己の欲のために、切ってはいけない何かを犠牲にしたら、必ず後悔すると」
そう言って春雅は、一旦口を閉じる。さっきとは逆に、正義がしゃべるのを待った。
「……分かってる」
ぽつりと、つぶやきが聞こえた。
「分かってるよ、ちゃんと」
弱々しい声だった。膝をあたりを、両手でぎゅっと握っている。
それを聞いて、春雅はほんの少し表情を緩めた。
「ええ、そうでしょうね。お前は、そういう子です。迷いこそしてしまえど、欲に呑まれたりはしないでしょう」
しかし、浮かんでしまった感情は、選ぶ選ばないに関わらず、簡単に沈められない。緩んだ顔が、引き締められる。
「ですが、お前は今、悪霊と対峙している。つけ込まれる可能性があります」
陰陽師である彼らにとって、邪な思いは隙になり得た。
「自分を強く保ちなさい。自身の闇に呑まれぬように。甘言に惑わされてはなりません」
息子を信じると決めた以上、直接の手出しはしない。他でもない、息子のために。ゆえに、春雅は語る。
「自分が正しいと信じることを、貫きなさい。正義」
それが、締めくくりだった。肩から力を抜く。
「あとは、お前を信じます。もう行きなさい。彼女らが、待っているのでしょう?」
「……うん。ありがとう、父さん」
父に促され、正義はうつむいたままながら、礼を言った。やがて立ち上がり、部屋を出て行った。
「……死んではなりませんよ」
一人だけになった空間で、つぶやいた。
「遅い!」
正義が茶室に入った途端、水実が畳を思い切り叩いて、勢いよく立ち上がった。相当機嫌を悪くしているようで、眉がつり上がっている。
「ごめんごめん。色々話しておくことがあってさ」
先ほどまで顔すら上げられていなかった少年は、何事もなかったかのように、苦笑いで頭をかいた。
「ったく、もう。緊張感が足りないのよ。死なせる気はさらさらないけど、よくもまあ、あのバカが命の危機なのに、そんな暢気でいられるわね」
水実はゆったりとした彼の動作に対し、今度は怒りではなく呆れた様子を見せた。あのバカというのは大幸のことである。そんな彼女の一連の反応を見て、そばに座っている有紗がフォローを入れた。
「まあまあ。家族の間のことだから、あたしたちには分からないことがいっぱいあるんだよ」
「家族ねえ……」
水実がその一語だけを、意味ありげに繰り返した。本当なら、素性がはっきりしていないので、他二人は問い詰めてもいいくらいなのだが、どちらもつっこまなかった。今はそれどころではないということや、今更訊く必要性を感じないなど、理由はいくつかあった。
「まあ、いいわ。それより、さっさと話し合いを始めるわよ。今夜で、あのいけ好かない悪霊女を成敗してやるわ」
あっさりと話題を変え、息巻いた。正義が、思わず言葉を漏らす。
「ずいぶんと、血の気が盛んだね」
「当たり前じゃない。死者は、どれだけあがいても死者なのよ。それなのに、あの女は生きている人間を引っ掻き回しすぎなの。とんでもなく気に入らない」
熱く語り、拳を握る。
「へえ……」
正義が、感心した声を出した。水実が睨みつける。
「何よ」
「いや、もっと個人的な理由かと思ったから、意外で」
やや気圧され気味ながらも、素直に答えた。有紗が口を挟む。
「そう? 水実ちゃんは優しい子だから、別に意外じゃないと思うよ」
陰陽師二名の視線が、有紗に向けられた。
「優しい、か……」
先に口を開いたのは、正義の方だった。まだ固まったままの水実へ目を向ける。
「な、何言ってんのよ」
それを受けて、ようやく彼女はようやく我に帰った。目を見開いて、声を上げる。若干ひっくり返っていた。
「確かにそうかも」
これまでの立ち回りを思い出す。彼女は、出会ったばかりの他人のために奔走してきていた。
「あんたまで乗っからないでよ!」
同意した正義に、矛先が変わる。怒声に、彼は縮こまった。
「なんで、そんなに嫌がるのさ。褒めてるのに」
それでも反論はする。
「それは、その……」
水実は答えようとして、言葉に詰まった。しばらく、沈黙が流れる。やがて、
「と、とにかく、あたしはあの女が気に入らないだけよ。優しいとか、そういうからかいはやめなさい!」
声を荒げて訴えた。表面の怒りしか受け取らない正義は、完全に参って、
「わ、分かったよ」
と、及び腰で答えた。
一方、水実を困らせた発言の主は、
「別にからかってないんだけどなあ」
意地悪く笑って、もう一押しした。
「あー、もう! いいから、さっさと作戦を話すわよ!」
水実はほとんどキレ気味に、畳を思いっきり踏んでから、頬を膨らませて腰を下ろした。早く本題に入りたいという意思表示だった。
しかし正義は、そんな彼女のサインを察せず、ぼんやりと立っていた。睨みが飛ぶ。
「あんたも早く座りなさい。あのバカを、死なせたくないんでしょ」
「あっ……」
声を上げたのは、なぜか水実だった。みるみるうちに、青ざめていく。
「えっ、うん……」
睨みに気圧され、それ以上に様子が急激に変わった幼なじみに驚きながらも、正義はとりあえず言われた通りに座った。
「……ごめん」
と、か細い声で、有紗が謝った。最初、正義は何への謝罪か分からず首をかしげたが、少し考えてすぐに答えへたどり着いた。甘い彼は、有紗へフォローを言おうとしたが、
「本当よ。無駄話に時間を使ってる場合じゃないの」
それより先に、キツい言葉が飛んだ。
「今、あたしのことなんてどうでもいい。話すべきことがあるんだから、変な邪魔はしないで」
厳しいが、的を得た言葉だった。
「本当にごめん……」
もう一度、謝った。
有紗が謝った理由は簡単だった。大幸の命が危険にさらされているにも関わらず、彼女は話の腰を追ってしまったのだ。さっき、家族という言葉に反応した水実も問い詰めなかったのと同じで、今はそれどころではないのだ。
「まあ、ぐちぐち言っても仕方ないわ。始めるわよ」
なので、それ以上の時間を有紗の糾弾に割くこともしなかった。
「そうだね。そうしようか」
正義も、うつむいたままの想い人を気にしつつも、水実に従った。慰めを入れられる空気でもない。
「じゃあ、まず、互いの手の内を確認しましょうか」
そして、本格的に話し合いが始まった。
互いにまったく知らない術式に驚いたり、敵の攻撃について整理したりしながら、話は進んだ。
「じゃ、そういうことでいいわね」
「うん、分かった。それでいこう」
最後にどう戦って行くかを決め、二人は話し合いを終えた。時刻はだいたい11時半。大幸の家までの距離と、水実の霊力の回復具合を考えると、もう家を出ていい頃合いだった。
「時間もちょうどいい感じね。行きましょうか」
水実も、壁にかかった丸い時計の針を見て、腰を上げた。
「そうだね」
正義も目をやり、それから立ち上がる。
だが、有紗だけは立ち上がらない。必要が、なかった。うつむいて、黙り込んでいる。
「あっちゃん、行ってくるね」
声をかけると、
「……うん。行ってらっしゃい」
弱々しい返事がきた。わずかに上げられた顔は、微笑していたものの、目に涙が溜まっていた。
「あっちゃん? どうしたのさ」
その表情を見て、正義は慌てた。いつも気丈な彼女がそんな顔を浮かべるのは、めったにないことだった。
「あっ、ごめん……。別になんでもないよ」
問われて、有紗は首を横に振った。それによって、溜まっていた涙のバランスが崩れたのか、両頬を滑り落ちる。
「なんでもないって、そんなわけ……」
「待ちなさい」
言う途中で、水実が右の手のひらを向けてきた。思わず、言葉を切る。それから、泣いている少女へ顔を向けた。
「……有紗。“信じなさい”」
口にしたのは、たった一言だった。意味を知らない正義は眉をひそめたが、有紗は大きくうなずいた。それを見て、水実は身を翻し、出入り口である襖へ向かった。取っ手に手をかけたところで振り返り、
「ほら、行くわよ」
正義に言ってから、茶室を出て行った。
「……“信じなさい”?」
問いかけのニュアンスを含めて、正義が彼女の言葉を繰り返した。
「気にしないで。これは、私の気持ちの問題だから」
「でも……」
「いいから」
食い下がる彼を、有紗は制した。
「まさちゃんは、無事にみんなで帰ってくればいいの。それで十分だから。ううん。そうしてもらわなきゃ、困るの」
濡れた瞳が、正義を捉える。思わず見とれてしまうほど、綺麗だった。
「約束して。誰も死なせない、自分も死なないって」
「えっ、あっ、うん……」
真っ直ぐに見据えられ、正義は気がおかしくなりそうだった。表情は目がいつもより開いているくらいの変化しかないが、返事がしどろもどろになる。
「……ちゃんと、守ってよね」
「あっちゃん……」
またうつむいた彼女の、悲痛さを感じさせる声に、正義も悲しげにまぶたを落とした。
それから、目を大きく開ける。力を込めて、彼女に言葉をかける。
「約束するよ。絶対に、誰も死なせないって」
「……うん」
反応して、顔を上げた彼女は、優しく笑った。
「行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
もう一度、さっきもしたやりとりをして、正義は茶室をあとにした。
廊下に出て、玄関に続いていく左側に目をやると、仏頂面の水実が壁に身体を預けて立っていた。出てきた正義に気づき、鋭い目を向ける。
「話は済んだ?」
「うん。待たせてごめん」
「まったくよ。早く行くって、何回言わせる気?」
これ見よがしに大きく肩をすくめ、彼女は壁から身体を起こした。玄関へと歩き出す。正義も、それについて行った。
玄関で、靴を履き替え、装備を確認し、水実が扉を開けた。薄闇に包まれている、小石の敷き詰められた境内が見えた。先に水実が出て、次に正義が敷居を中から外へ跨ぐ。
寺の門へ歩き出そうとした彼らの背に、
「待ちなさい、正義」
しゃがれた声がかけられた。振り向くと、扉の前に、何か服のようなものを手にした春雅の姿があった。
「ちょっとこっちに来なさい。月原さんも」
「えっ、うん」
「あっ、はい」
直斗に言われ、二人は離れかけていた玄関へ近づいた。
「これを持っていきなさい。月原さんはこっちを」
それぞれに、ほぼ白一色のものと、同じくほぼ黒一色のものが渡される。それが何かは、すぐに分かった。
「和服……」
それは和服であった。浴衣とは違い、上下が別々で、下は袴。正義に渡されたのは、父のものだった。
「それぞれ、陽気と陰気の力を増幅するような術式が施してあります。黒は何代か前のですが、特に問題はありません。向こうに着いたら、服の上から着るといいでしょう。足しにはなるはずです」
「父さん……」
「……しっかり片をつけてきなさい」
「うん、ありがとう」
正義が礼を口にしたのに乗っかり、
「あっ、ありがとうございます」
水実も頭を下げた。陰陽師の家柄であれば、いくつかこういう霊装、もしくはそれに準ずるものがあるはずだが、顔を上げた彼女は、珍しいものを見るように、まじまじと和服へ目をやっていた。
「そんなに珍しい?」
気になった正義が尋ねる。
「……まあね。うちの霊装より、いくらか効果は低そうだけれど、リスクがない、純粋な増幅効果のものは初めて見るわ」
「リスク……」
「そっ。あたしが使ってるのは初歩的なものが多いから、あんまりそういうのはないけど、陰気の力は何かしらのリスクを負うことが多いの。それなのに、これは一切ない。……不思議な術式だわ」
また、腕の中にある和服へ目を落とす。黒々としていながら、感じる霊力に棘はなかった。
「何代前か分かりませんが、先祖の研究の成果です。どうやら、陽気の力を利用して、陰気の力を強くする方法を探していたようですから。あなたのような協力者が身近にいたのでしょう」
春雅が解説を加える。正義は首をひねった。
「なんで、そんなこと分かるの?」
「蔵に残されていた書物に書いてあったのですよ。『陰の力を、どうにか代償なしに強化できないものだろうか』と。研究過程はほとんどが失われていて、もう一度作るのは無理ですが、完成したという表記と、霊装そのものが残っていたのです」
「蔵に……」
本堂の後ろに位置する蔵の方へ、目を向ける。正義からは見えないが、距離はだいたい想像できた。大きいながらも、全体的に古ぼけ、壁が黒ずんでいる建物の姿も浮かぶ。幼い頃、彼は何度も侵入を試みたが、一度も成功しなかった。危険もあるので、父が許さなかったのである。初めて入ったのは、中学三年生になってからだった。
それほど多くは入っていないので、詳しくは思い出せないが、父がわざわざ封印を施して管理している理由を一瞬で理解したことはよく覚えている。暗闇の中に、ものがバラバラに置いてあり、整理されているところもあれば、乱雑に積まれているところもあった。父によると、配置をいじるのは危険なので、あまり整理できないらしい。陰陽道には、風水学の要素もあるため、位置関係も重要なのだ。
そんな蔵の中にあった、陽気の家系でありながら作られた黒の和服が、今は水実の手中にあった。
まるで、彼女を待っていたかのように。
「さあ、時間がないのでしょう? 早く行きなさい」
「う、うん」
春雅に促され、正義はうなずいた。水実に目配せしてから、
「じゃあ、行ってくるよ」
父へ顔を向けた。
「ええ。行ってきなさい」
目が合う。どちらともなく、うなずき合った。水実は、それをそばで見ていたが、何も言わなかった。正義が背を向けたところで、春雅に一礼し、二人は門へと歩いて行った。
振り返ることはしなかった。どうせ、明日にはまた会えるから。
一時間ほど経ち、二人の若い陰陽師たちの姿は、小綺麗なアパートの前にあった。すでに、和服へと着替えいる。
正義のは白く、袖口や肩など、正面から見て服の端にあたる部分には、赤い糸が点線のように伸びていた。水実の方は、正義のものと同じ部分に糸が通されてはいたものの、少し色が薄いだけで、黒一色だった。
「すごい霊気だな。もう、隠そうとすらしてない。近くに霊力のある人がいたら、体調を崩すレベルだよ」
正義は、顔をしかめていた。禍々しい霊気が、アパートの一室から広がっていたのである。
「そうね。あたしも少ししんどいくらいだわ」
その隣で、水実も感じる霊気の悪質さに眉をひそめていた。視線は、出どころである二階の一番奥の部屋へ向けられている。
横目で、傍らの少年を見た。
「段取りは、頭に入ってるわね?」
「うん、大丈夫。いつでもいけるよ」
問われて、彼女を見返し、うなずく。
「いい返事だわ。ちょっとだけなら見直したげる。ちょっとだけね」
「ああ、そう……。ありがとう」
物をつまむときのように、人差し指と親指で程度を表した水実に、正義は苦笑いを浮かべた。肩の力が抜ける。
「さてと、そろそろ呼んでおきましょうか。出でよ、村叉!」
懐から依り代を出し、唾液をつけて式神の名を呼んだ。爆発音と白い煙と共に、小さな人外の者が姿を現す。
「ふう、やっと出番かい」
ハスキーな声で、使役者へ言葉がかけられた。
「ええ。締めの大立ち回りよ。一番の見せ場だから、気合い入れなさい」
「はっ、言われるまでもないねぇ」
水実が付け足しに対し、村叉は笑ってみせた。
「そっ。じゃあ、さっさと戦略を話すわ。時間がないから、手短に済ますわよ」
「あいよ」
それから水実が、村叉に正義との話し合いで決まったことを説明し出した。
それが終わるのを待つ間、正義は大幸の部屋の扉を見つめ続けた。頭を善悪両方の考えがよぎる。首を振って、彼にとって悪である選択肢を消去しようとたが、完全にはとりきれなかった。
「こんな感じよ」
「あいよ」
確認が終了したらしく、村叉がうなずいた。人間二人間の確認はすでに済んでいるので、準備は完了したことになる。
「じゃ、行くとしましょ」
若者たちの戦いが、始まる。




