閑話 秤のクルト
今日は朝からずっと移動でクタクタです。そのせいか、ちょっとデザートを食べ過ぎてしまいました。美味しかったです。
閑話 秤のクルト
夕暮れの砂海。
昼の荒々しい日差しは日が傾くにつれ、嘘のように穏やかになった。
北砂海道の西端にほど近いオアシスでは、年老いた男とその幼い少年が天幕を張りながら、その沈みゆく太陽を見ていた。
「おじいちゃん、見て! 砂がきらきら光ってるよ! まるで水みたい! きれいだね!」
ゆらゆらと揺れる白い光に喜ぶ孫に、老人は目を細めた。
「ああ、そうだな。明日はあの砂丘を越えて、次の村に向かうぞ。」
少年は目を輝かせてうなずいた。
「今日みたいに、いっぱいお客さんが来てくれるといいね!」
老人は笑顔で頷き、少年の頭に節くれだった手をそっと置いた。
天幕を立て終わった後、2人は火を起こし、夕食の準備に取り掛かった。
家畜の糞を乾燥させた燃料独特の甘い匂いが漂う。
小さな鍋の中で、タカキビと干し肉、そして今日手に入れた野菜を入れた粥がコトコトと静かな音を立てる。
「さあ、おあがり。」
老人が粥をよそった木椀を手渡すと、少年はそれを両手で包み込むように持ち、フーフーと息を吹きかけた。
白い湯気が、少年の顔を暖かく包む。
「おじいちゃん、隣に座ってもいい?」
「もちろんじゃとも。さあ、おいで。」
赤い頬を輝かせた少年が老人の寄り添うように座ると、老人は自分の外套で少年の背中を包みこんだ。
砂海の夜は、凍てつくように寒い。
しかし、焚き火の前で寄り添う2人に、その冷たい手が届くことはなかった。
登り始めた2つの月が、果てしない砂海を青く照らし出す。
巨大な青い月の後ろを追いかけてくるのは、白く光る小さな月。
穏やかで満ち足りた時間がゆっくりと流れていく。
食事を終え、香草茶を飲んでいると、少年が老人を見上げて言った。
「ねえ、おじいちゃん。またお話を聞かせてよ。」
「いいとも。そうじゃな。今夜は砂海の商人たちに伝わる話をしてやろう。」
少年の目が輝く。
生まれたばかりのときに両親を亡くした幼い彼にとって、唯一の肉親である祖父の語る昔話は、何よりの楽しみだったからだ。
老人は遠くを見つめるように、暗闇を見つめながら話し始めた。
「むかしむかしのことじゃ。砂海の果てに2つの大国があった。
西の大国は水に恵まれ、穀物が多く取れた。
東の大国は多くの人が集まり、世界中の珍しいものが集まっていた。
2つの大国は、砂海を渡る船でつながっておった。
これは、はるか昔の偉大な王が掘らせたという水の道があったからじゃ。
北の山脈から湧く水を地の底へ通し、砂の中にいくつものオアシスを生み出す地下水路じゃ。
人はオアシスをつなぐ砂の航路を、北砂海道と呼んだ。
北砂海道の村々には、多くの船が溢れ、2つの大国の人々は互いの国を行き来しながら、幸せに暮らしておった。」
動く気配を感じて老人がふと視線を下ろすと、そこには目をきらきらさせてこちらを覗き込む孫の顔があった。
彼はにこりと微笑むと、少年の肩からずり落ちた外套をそっと直し、再び話し始めた。
「だが、いつのことからか、両国は争いあうようになってしまった。
穀物や織物、珍しい品々で溢れ、笑顔で満たされていた北砂海道には、やがて兵士を乗せた船が行き交うようになった。
小さな争いは、すぐに大きな戦となった。
村は荒れ、道は消え、穀物も品々も、互いの国へ届かなくなった。
貧しい人々は食べるものもなくなり、魔獣に怯えて暮らさなくてはならなかった。」
少年が老人の服をギュッと掴む。
魔獣に両親を奪われた孫の頭を、老人はそっと撫でた。
「商人たちは戦に怯え、船を出すことも出来なくなった。
そのとき、ひとりの商人が現れた。
名をクルトという。
南砂海道で交易路を作り上げ、一代で大きな財をなしたという、偉大な商人じゃった。
クルトの手には、いつも小さな天秤が握られておった。
どんな嵐の日でも、クルトは決してこの天秤を離さなかったそうじゃ。
人は彼を、いつしか「秤のクルト」と呼ぶようになった。
クルトは自らの財を投げうち、船団を仕立てた。
そして、人々が止めるのも聞かず、争い合う2つの国の間を渡り始めた。」
「そんなことして、あぶなくないの?」
不安そうな少年の問いに、老人は大きく頷いて答えた。
「もちろん、危ないとも。じゃから、他の商人たちは船を出せなかった。じゃが、クルトには、彼を支える多くの仲間がおったのじゃ。」
少年の瞳がきらきらと輝き出す。
老人はまた、まっすぐに暗闇を見つめて話し始めた。
「クルトは、それまでの長い旅の間、多くの人々を救ってきた。
その人々が、今度は彼を支えてくれたのじゃ。
中でも彼の一番の支えとなったのは、取引の達人「鬼才」ライノス。
そして船団を導いたのは、風の機嫌を知る「風読みの猫人」マオ。
3人が率いる船団は、時に砂嵐に遭い、魔獣に襲われ、兵士に追われた。
しかし、仲間たちの活躍によってそれを巧みに避け、傷つきながらも危険な砂海を渡っていったのじゃ。
人々はクルトに尋ねた。
「なぜ危ない橋を渡るのですか」と。
するとクルトは天秤を揺らし、こう言ったという。
「人々を繋ぎ、傾きを均すのが自分の役目だからだ」と。
クルトの船団によって、停まっていた人々の生活が再び流れ始めた。
しかし、戦は長引き、苦しい生活はなかなか終わらなかった。
2つの国の王たちは誇りを守ろうとした。じゃが、それでは人の腹は満たせぬ。
やがて、王たちの耳にクルトの噂が入った。
2人の王はクルトに、異なる時、異なる地で、まったく同じことを言ったという。
「我が国の民だけに有利な取引を。でなければ、今すぐにお前を殺す」と。
しかし、クルトは静かに天秤を掲げ、王たちに同じ答えを返したそうじゃ。
「それはできません。
傾いた天秤を均すが如く、品々の不足を満たすのが、商人である私の役目。
ですが、人心を顧み、世の不足を満たすのは、王たるあなたの役目ではありませんか」とな。
2人の王は、どちらもクルトに何も言えなくなってしまったという。
その後、2人の王はクルトを通じて話し合い、戦を止めることを決めた。
そして北砂海道は、2つの国が互いに分け合うことになった。
剣を持つ者も、荷を運ぶ者も、誰もが自由に通れる道になったのじゃ。」
「すごいね! クルトは商人なのに、戦を止めちゃったんだ!」
少年の言葉に、老人は笑顔を向けて頷いた。
「ああ、そうじゃ。互いに奪えば、減るばかり。じゃが、不足を補え合えば、より増える。クルトはそう人々に呼びかけたのじゃな。」
「それからクルトはどうなったの?」
「クルトは戦が終わったのを見届けるとすぐに、仲間とともに南へと帰っていったそうじゃ。」
「そうなんだ。みんなはクルトを止めなかったの?」
「もちろん、止めたさ。じゃが、クルトは何も言わずに立ち去った。それから幾年も過ぎ、砂海は再び命を運ぶ道となった。これが、砂海の商人たちに伝わる『秤のクルト』の伝説じゃ。」
老人はそこで言葉を切った。
焚き火の爆ぜる静かな音だけが響く。
しばらくして、少年が祖父に尋ねた。
「おじいちゃん、クルトの天秤、今はどこにあるの?」
祖父はハッと胸をつかれ、少年を見下ろした。
こちらを見つめるその面影が、かつて同じ事を自分に尋ねた少年の父、幼い日の息子に重なった。
老人はゆっくりと星空を見上げた。
「さあな。西方都市に今も残る彼の子孫が持っておるとも、何処ともなく姿を消したクルトが持ち去ったとも言われておる。」
老人はそう言って、目を瞬いた後、笑顔を作って少年の目を真っ直ぐに見た。
そして、皺だらけの手でそっと孫の胸をつついた。
「わしはな。クルトの天秤はそこにあると思っておる。」
「ここに?」
少年は小さな手で自分の胸を押さえた。
「ああ。それは商人の心。物を届け、不足を満たし、人をつなぐ。その覚悟と心意気こそが、クルトの天秤そのもの。わしはそう思っておるんじゃよ。」
少年の顔が、ぱあっと明るくなった。
「じゃあさ! ぼくもいつか、立派な商人になれるかな? お父さんやおじいちゃんみたいな?」
「・・ああ、きっとなれるとも。クルトの天秤にかけて、わしが保証する。」
砂海の商人たちが、自らの誇りと矜持をかけるときの言い回しを使い、老人は少年に答えた。
少年はうれしそうに頷き、老人の肩にそっと寄りかかった。
砂海を渡る風が、静かに砂を運んでいく。
ゆらゆらと揺らぐ火影を老人はいつまでも見つめていた。
いつの間にか、隣からは穏やかな寝息が聞こえてきていた。
老人は孫を抱きかかえ、天幕の中の寝床にそっと寝かしつけた。
ふと目を上げると、暗い地平線の向こうに冴え冴えと輝く星が見えた。
誰かが道を開いたのではない。人が通ったから道になったのだ。
不意にそんな言葉が浮かんできた。
かつては自分と息子が共に歩いた道。
それをまた、この幼い孫が歩みだそうとしている。
少年の父はその妻とともに、道半ばで幼い息子を残して倒れた。
なぜ自分ではなかったのかと、これまで何度、神に問いたか分からない。
親を一度に亡くした子の不憫を、嘆く日々が続いていた。
しかし、残された子はかつて父が歩いた道の先を目指した。
クルトが残した砂海の商人の覚悟を胸に。
老人は立ち上がり、天幕を出て星の輝く北砂海道の彼方を見つめた。
歩みは続いていく。これからも。
そして、それがまた続く道になる。
老人の見つめる先。
星の照らすその道は、どこまでも長く長く、続いていた。
お読みいただき、ありがとうございました。




