捨てる神あれば拾う神九
そのころ長屋では
「なあに、ちくと徳をわけてもろうただけさ」
とすっかり慣れた手つきで棚の上に仕舞ってあったかりんとうの包みを取り出すと、貧乏神はそれをぽりぽりとかじりながら喜市に話し始めていた。
「徳とな」
喜市が身を乗り出して聞くと、貧乏神はうなずいて喜市に白湯を入れ差し出した。
「どいつもこいつも貧乏神を厄介がるがな、元はといえば福天が蒔きすぎた福徳を回収する持ち回りなんだよ。
疫病神と違って、元からある徳を持っていっちまうだなんて本来はわしらはできないさ。
ありがられてるが、お気楽な福天には手を焼いてるんだよ。」
そういうと貧乏神はかかかと笑い、音を立てて白湯をすすった。
「人の尻拭いで恨まれんのか。爺さんも大変だなあ」
本題も忘れて、貧乏神の本当の役割に感心して目を丸くしてうなずくと、同じように白湯をすする。しかしふと、引っかかるものを感じて椀を置くと再び貧乏神に問いかけた。
「それじゃあ、清次郎殿は福を余分にもらってたのかい?」
「いや、福天にちっと話を付けて、授けるはずだった福を御主とついでにお隣さんにも回しただけだよ。
差し引きであまったり足りなかったりしなきゃあばれないもんさ。」
なるほどそうかと思うものの、清次郎の徳をとったとなれば何が起こるかと心配で、喜市は表情を曇らせる。
喜市がそれを口に出すより先に、貧乏神はもう一つかかかと笑って話し出した。
「なあに、本当のところはな、あれからもう何日か待てば御主の徳も授けられて、コロリなんぞすっかり治る予定だったのだよ。
しかしまああのお侍があんまり必死なもんでなあ。一刻も早く安らかにしてやってほしいというものでな。」
清次郎はもちろん、喜市がすぐに治るだなどとわからなかったからこそに願ったのだろうが、しかしながらその心遣いが身に染みて、同時に何とも申し訳のない気持ちでいっぱいだった。
そして、たった数日苦しみを我慢できなかった自分のせいで、清次郎に何が起こるのだろうと不安で仕方なかった。
元から運のないあの男から、これ以上徳を取ってしまったら一体どうなってしまうのだろうと、まるで自分の身を案じる思いだった。
「清次郎殿に厄災が訪れることはないのか?」
不安げに聞く喜市に、貧乏神は呆れたように息を吐くと髭をひねりながら答えた。
「御主の徳の余分はちゃあんと代わりにあのお侍に行くようにしておいたよ。
まあ、ちくと時期はずれるがな。まあ、そんなに大した事はおこらんだろうよ」
貧乏神の言葉にほっとすると、思い出したように汗がどっと噴き出して、今日の暑さがひどいものだった事を忘れていたことに気づいた。
「しかし、さすが講武所で指南なさるだけのことはある。あの駕籠に追いつこうとは。
あれは馴染みの駕籠でね、とても早いので助かるのですよ。」
表具屋の奥の座敷で、熱い茶をすすりながらも涼しげな顔をした大蔵は感心して口にする。
大蔵は表具屋の得意先であるらしく、菓子や茶などを厚く持て成してくれた。
「いやいや、貴公の申された通り大変はしたなくお恥ずかしいことです。
ですがね、講武所の方は本日お役御免になり申した」
「何と」
大蔵は不意に大きな声を上げたことに、清次郎は少し驚いたが、直ぐに笑顔でうなづいた。
「元々臨時の穴埋めでしたのでね、適任が居りますれば要らぬお役目だったのです」
大層なことを穏やかに話す清次郎を、驚いたままの大蔵はほんの少しだけ眉を上げてしげしげと見つめた。
その視線に気づいた清次郎は、もしや着物のどこかにほころびでもあるのかと、自分の肩や袖口をちらちらと見てみたが何もなく、見当がつかないまま視線を大蔵に返した。
視線がかち合った後、大蔵から出たのは全く関係ない言葉であった。
「狩野殿、失礼だがどちらの流派を遣われるのでしょう。稽古はどちらまでお進みで。
今は、お暇中でいらっしゃるのですね」
突然矢継ぎ早に浴びせかけられた質問に、少々驚きつつも清次郎は穏やかな顔のままで遠慮気味に答えた。
「わけあって、家督は弟が継ぎまして、今は用心棒なんぞをやりながら長屋暮らしをしております。講武所に縁がありましたのもたまたまでして。元は白河藩におりまして、そちらで神道無念流の免許を戴きました。」
清次郎が言い終えると、大蔵は大きくうなずいてその口の端を嬉しそうに上げた。
今までの落ち着き払った微笑とは打って変わって、その初々しい熱を秘めた若者らしい顔をみて、初めて清次郎は大蔵が自分よりもしや年少なのではないかと気がついた。
落ち着いた所作のせいで気にならなかったが、よくよく見れば涼しげな目元は美少年という風情を残していた。
「実は、講武所の知人に貴方のことを伺いましてね、何でも練武館直々のご推薦だとか」
「それもご縁がありましただけで」
「いやいや、四大道場に数えられるほどの道場が、そう簡単に推薦で送られますまい。
狩野殿はかなりの手だれとお見受けするが、いかがだろう」
矢継ぎ早にこう言われてしまっては、伊庭の推薦という看板の手前もあって清次郎も返す言葉が無く、首をさすりながらどう答えればいいものかと思案していた。
しかし、大蔵のほうはそんなためらいなどをおそらく気づいているようでもなく、その目を生き生きとさせて話を続ける。
「これは差し出がましい申し出かも知れないのですが、どうだろう、私どもの道場に入門されては。道場は北進一刀流の伊東道場と申しますが、私も元は神道流でしてね。
貴殿が講武所勤めであったとあれば、みな喜んで客分として迎えましょう。」
思ってもいなかった申し出に清次郎はうろたえたものの、大蔵のほうは相変わらずなので、清次郎はほとほと弱ってしまったが、しかしながら飯の種になりそうなその申し出は魅力的であった。
清次郎の僅かな迷いを見切ったのか、隙なく繰り出される大蔵の穏やかながらも熱心な勧誘は清次郎を困らせたが、そんなわけで清次郎も仕舞いには
「なれば伊東先生と御塾頭の御料簡をもってしてもなお、他流の私がお役に立てることがありますれば、是非にお伺いしたい。その際はお手合わせをご用意いただけましょうか。」
などと口にするようになっていた。
大蔵の若さを見れば、彼一人の決断で清次郎を突然推薦しては問題があろうと、まずは道場主と塾頭に話を通すようにしておきたかったのだ。
それに、もし塾頭すら認めぬとあればさすがの大蔵も惹いてくれるだろうとも思った。
大蔵はそんな心積もりなど露知らずに快く
「もちろん、そう致します」
と言ってその涼やかな目を細めると
「楽しみですね」
と口にした。