捨てる神あれば拾う神八
それから三日三晩、喜市は嘔吐と下痢を繰り返してはいたが、甲斐甲斐しく尽くす侘助や清次郎のおかげで何とか命を存えていた。
岸本も治療には当たっていたものの、方々で広まるコロリのおかげで忙しく、喜市にはかかりきりになれなかったのだ。
「じい様は仮にも神様だろうが、清次郎殿と侘助は帰ったらどうだい。コロリの周りの奴はコロリになるらしいぞ」
かすれ声で弱弱しく言う喜市に、侘助は首を横に振って梅干水をすすめた。
正直あまじょっぱいその水の味には既に飽きていたが、侘助はそれを必死に勧めていた。
喜市の忠告など聞き入れもせずに心配そうに見守る清次郎に目で訴えてみても通じるわけはなく、貧乏神は貧乏神で暇つぶしを楽しんでいるかのようにただ慣れた手つきでおしめを作るだけである。
「清次郎殿、こんなに休んじゃあ御役御免になりゃしねえかね」
せめて人間の清次郎だけでも遠ざけておきたいと発した言葉であったが、清次郎からすれば弱りきってもなお、そんな心配する喜市がいじらしくて、ひたすらそばで「大丈夫だ」とただなだめるしか思いつかなかった。
二度ほど時の金を聞いただろうか。つかの間、嵐のうちの晴れ間のように不意に安静を得た喜市は、今までの疲れをどっと受けたように深い息をして眠りに着き、看病も一息をつく。
清次郎は心配で寄せていた眉をようやく緩めると、傍らで髭をひねりながら休んでいる貧乏神をちらりと見た。
貧乏神といえども、これは神様である。貧しいものが返って貧乏神に救われるという話を聞いたこともある。それならもしやこの神様も喜市を救えるのではないだろうか。
そう思いついた結論に僅かに目を輝かせると、清次郎は貧乏神に向き直って姿勢を正した。
「貧乏神殿。貴公は貧しき人には幸いをもたらすと話に聞く。どうか、喜市を救ってはくれまいか。それがかなうなら、できる限りの進物をさせていただきたい。大層なものは出来ぬかも知れぬが。」
そう言って頭を畳にこすりつける清次郎を、小首をひねりながら眺める貧乏神は小さくうなり声を上げる。
返らぬ答えに、清次郎が再び「頼み申す」と口にすると、貧乏神はようやくその口を開いた。
「今すぐにか」
しぶしぶという風に貧乏神は声をかけたが、清次郎は乗りかかるように声を荒げた。
「できるだけ早くお願いしたい。もう見ていられないのだ」
「しかし、この男は貧しいとは言いがたいがな」
髭をひねりながら益々首を傾げる貧乏神に、ついに痺れを切らした清次郎は
「足りないのなら何を持って言っていただいてもかまわん」
とその顔のみをばっと上げて貧乏神を睨むように見据えた。
清次郎の目には既に貧乏神の顔ではなく、最近良く目にするコロリで死んだ者の棺おけの列が映っていた。日本橋を大名行列のように通るその奇妙な群れの中に喜市をがいたらと思うと、体の心が凍るような気持ちだった。
「良かろう、おぬしの言ったとおりにしよう」
突き刺すようなその目線に観念したのか、大きく息を吐いた貧乏神は膝に手をつくとおもむろに「よいしょ」と声を上げて立ち上がった。
「入るぞ」
「おうおう、死に損ないが来おった」
戸を引いて顔を覗かせた喜市が来るなり、貧乏神はころころと笑って白湯をすすった。
侘助は菓子屋の松吉のもとへと出かけてしまったので、清次郎の部屋には貧乏神ただ一人である。
貧乏神の言い草に、喜市は僅かに口許を歪めたが、しかし恩人でもあることを思えば、ぐっとそれを飲み込み、どかりと畳に腰を下ろした。
「清次郎殿はどこへ」
「出かけたよ」
それを聞くと喜市は頭を傾け、少しばつが悪そうに首の後ろを掻いた。
何か口をもごもごとさせてはへの字に曲げ、を繰り返した後で漸く顔を向ける。
「じいさん、世話になったな、ありがとうよ」
喜市は一言そう口にして恥ずかしさを誤魔化すように笑うと、貧乏神はうんうんとうなづきながら髭をひねった。
「まあ、あのお侍にもきちんと礼をすることだな」
まさかと思う間もなく、喜市はやっぱりと肩を落とした。
あれほど苦しんだコロリがこのように瞬く間に直るなどと、自分の体ながらありえないことと思ってはいたのだ。
ましてや、どうやら自分からうつったらしい隣の仁蔵のコロリまで治るのは、どう考えてもおかしい。
「して、清次郎殿は何を」
「狩野殿、大変申し訳ないことであった」
見送りのお侍が深々と清次郎に頭を下げた。
ほんの少しため息をつきつつも、気は秋の空のように晴れ晴れとしていて、それを其のまま映した穏やかな顔で
「こちらこそ、お雇いただき大変勉強になり申した。かたじけない」
と言って頭を下げるものだから、講武所の人間も不思議そうな顔でそれを眺めた。
それもそのはずで、元々臨時雇いで入った講武所の師範であったが、上役の子が職にあぶれて入ってくるというので、清次郎がお役御免となったのであった。
喜市を治すといった貧乏神が代わりにと出した条件が、他の場所から幸いを戴くということだった。
わけもわからず二つ返事で承知したのだが、その後すぐに講武所からお呼びがかかったので、はあなるほどとわかったのだ。
しかし長屋暮らしに慣れた清次郎は、仕事など探せばいいと、気持ちを楽に構えられるようになっていたし、何より喜市の命のためならば、どんなことだろうと欠片もかまう気はなかった。
さて、また明日から内職だなあと、慶安(当時の雇用斡旋所)に向かおうかと思いながら刀の柄に手を置いてぶらぶらと歩いている時である。
通りの表具屋の軒先に、どこかで目にした顔に出くわした。
じっくり目を凝らしてみれば、先日駕籠を貸してくれた鈴木大蔵である。
「あ」
と声にした清次郎に大蔵も振り向くと、同じように「ああ」と声を上げて微笑んだ。
「先日はお世話をおかけいたしました。本当に助かり申した」
駆け寄った清次郎が姿勢を改めて礼をすると、鈴木は
「このような往来でいけませんよ」
と笑って清次郎の肩を引き上げ、表具屋の主人に
「奥をお貸しいただきたい」
と告げて、中に入ると清次郎を招きいれた。