捨てる神あれば拾う神二
6月17日に書き直しをしました。
「兄さん、こっちにおくれ」
「あいよ、毎度あり」
威勢の良い声で、喜市は早くからあさりを売り歩いていた。
大雨でも降らない限り、毎日こうしてこの季節、朝はあさりとしじみ、昼には冷や水売りとして精を出していた。
そうしていつもの様にお得意様を回った後一休みに人通りの少ない路地で懐から出した煙管を吹かしている時であった。伝馬町の煮売り屋のおかみさんがまだ閉まっている店からばたばたと通りへ出て
「ちょいとぼてふりさん」
と見覚えのある浅利の俸手振り仲間の伊介を呼び止めていた。
「浅利は残っちゃいないかい。全部買うからうっとくれ」
路地にまで聞こえる声で慌てたようにまくし立てるおかみさんの顔におどおどしながら、伊介はすぐさまぺこりと頭を下げる。
「すんませんおかみさん。今日は橋向こうでもううりきっちまったんでさあ。」
申し訳なさそうに苦笑いする伊介に、おかみさんはもはや泣きそうになって
「どうにか仕入れておくれな」
と懇願していたが、河岸の浅利などもう残っちゃいないことを承知な伊介は苦笑いを深めるだけだった。
喜市は悩んでいた。
これからまだ回ろうと思っていたいつもの長屋があるのに、ここで売ってしまっては後のお客に申し訳がたたないのだ。しかし元々の性分が世話焼きな喜市は知らん顔で通り過ぎるのも気が引けて煙管をくわえたまま耳を傾けていた。
「あ、喜市」
しかし、考える時間も持てぬまま運の悪いことに伊介に見つかってしまい、喜市はバツの悪さに今気づいたような振りをして慌てて煙管の灰を落として帯に挟み込んで駆け寄った。
「おかみさん、こいつも浅利売りだ」
伊介はそれだけ告げると喜市にしてやったりという笑みを浮かべて走って去ってしまった。その笑みとざるの揺れ方に、喜市は伊介も自分と同じようになじみ客の分の浅利を買われまいと逃げたことを悟った。
なじみに疎遠にされては俸手振りは商売にならないのだ。
「ぼてふりさん、浅利はあるかい。いくらだって買うさ」
泣き出しそうな顔をして、汗をかいているわりには妙に青ざめた顔のおかみさんを不憫に思い、喜市はしぶしぶ
「へえ、ひとかご」
と答えて二段重ねになっていた下のざるを丸ごと出しておかみさんに見せた。
本当はもう片方のざるの二段目にはもう一つ浅利の入ったざるがあったのだが、さすがにそれまで売ることは出来なかった。
それでもざるに盛られた浅利を見ると途端におかみさんの顔の緊張は解け
「じゃそれを全部おくれ。ああ、中まで運んでおくれな」
と、いうよりも早く喜市に背を向けて、脇の勝手口から店の中へ入ってしまった。
通りの中じゃちょっと立派な部類に入るその店に入ってみれば、醤油やみりんの匂いがじっとりと染み付いた台所で、親子だろうか、都市の離れた男が二人が一生懸命に佃煮を拵えている。
「御前様、浅利がありましたよ。ああよかった、今日はお得意様のお殿様から浅利の佃煮を頼まれていてね、ところが仕入れの小僧が怪我しちまって仕入れそこなったのさ。ああ本当に助かった」
まくし立てるようにしゃべるお上さんの後ろで、御前さん、と言われた男が額の汗を拭って肩をゆったりと落とした。
「そりゃあお役に立ててよかった」
喜市が浅利を流しの駕籠に移してやると、今度は若い男が手を休めることなく口を挟む。
「母ちゃん、もうお代は払ったのかい」
あ、と口を開いたおかみさんが急いで財布の紐を解き一分銀を二枚取り出して懐紙に包んだ。
「とっといとくれな」
思わず驚く喜市の手を掬い上げるとおかみさんはねじ込むようにその包みを握らせた。
「今日これがなかったら何があったか知れないよ。気の荒いお武家さんらしくうちの店が取り潰されたかもしれないさ」
旦那の窘めるような視線に気づいてか、おかみさんはそう言うと、今度は小さく
「いくらもらったかは内緒だよ」
と囁いて微笑んだ。
心のうちでは、こんな大金をもらうだなんて気が引けたが、ここでおかみさんと金の押し付け合いをするのも見苦しい話で、喜市はおとなしくその金を懐に入れると深くお辞儀をして店を後にした。
それにしても大金である。仕入れの金を引いてもゆうに半月以上は何もしないで過ごせるほどの金だった。
しかし、喜市は振り売りで働くのは苦でなかったし、何より自分を待つ得意客に迷惑をかけたくなかったのでそんな考えは微塵も浮かばず、早くに開いていた漬物やで粕漬けをいくつか買うと少ない浅利の侘びにと客につけ、残りはただ冬に向けてちょっといい綿入れでも拵えようかななどと思っていた。
そんな考え事で多少浮かれて不注意でもあったのだろう。浅利を売り切って長屋へ帰る途中で、大通りの突き当たりの角から物凄い勢いで小男が走って来るのに、喜市は気づかなかった。
担ぎ棒をしたままの喜市は、もう目の前に小男が迫ってようやく気付いて脇へと避けたが、間に合わずにぶつかってしまったのだ。
幸いなことに転びはしたものの怪我もせずただ空の籠二つを落としただけで済んだが、当の小男は立ち上がると直ぐに、謝りもせずに駆けて行った。