捨てる神あれば拾う神 終
「喜市、具合はどうだい」
いつものように帰ってきた清次郎は戸を引くなり開口一番喜市の体を案じると、顔色のよさを見てとったのかにこにこと微笑んで大小を置き、どっかりと畳の上に腰を据えた。
「おかげですっかり調子がいいよ。清次郎殿がうまいもん持ってきてくれたからな」
そうだろうそうだろう、と笑う清次郎の帰りがいつもよりも早いことに、喜市はふと不安を覚えた。
清次郎のことである、自分が徳を分けたことの諸々など恐らく口にするはずもないが、もしやもうどこかに運の尽きが来たのではないだろうか。心配ではあるものの、しかし気を遣ってくれている清次郎にそれを口にするのもはばかられ、喜市は誤魔化すように煙管に火を入れた。
「そういえば、講武所のお役目を外されてなあ」
何事でもないように清次郎がいきなり口に出すもので、喜市は吸い込んだ煙でむせてしまい、清次郎は驚き慌てて喜市の背中をさすり、貧乏神はころころと笑った。
「そうかい、だけど俺もじきに仕事に出られるからな、何かあったらいっとくんな」
せめてもの礼にと、喜市は咳き込んだせいで涙のにじんだ目を手でぬぐい口にすれば、清次郎は少し自慢げな笑みを浮かべてかぶりを横に振った。
「有難い申し出だが、先ほど口入屋に寄ったら運良く用心棒の御用があってね。
何でも急に依頼があったそうでね。他にも少し当てがないこともないよ」
それを聞いて、何だ徳は清次郎の元に戻ったのかと承知した喜市は胸を撫で下ろした。
見れば貧乏神までが得意げな顔で一人慌てた喜市を見るものだから、恩があるもののどうにも憎たらしくて、涙をぬぐった手で覆って清次郎からは見えないように、貧乏神をきっと睨んだ。
「何ぞ喜市は恩知らずじゃのう」
けたけたと笑う貧乏神にたとえば皮肉を並べたところで、暖簾に腕押しだろうことは明白で喜市は頭を掻いてあきらめたように笑った。
「いやいや、俺こそいつも喜市には世話になっているからな、むしろこっちのご恩返しだよ。気にしないでくれな。」
清次郎がそう言い終えると同時に、遠くで鐘がなる。
「お、今はなんどきだろうか」
捨て鐘を突き終える前に、貧乏神は思いついたように口に出した。
「七つだな」
喜市が言い終えると同時に、貧乏神は
「いかんいかん」
とすぐさま立ち上がって衣服を整えて草履を足に引っ掛けた。
「どうした爺さん」
捨て鐘が終わり、七つの鐘がなり始める。
貧乏神ははめ直されたがいまだ立て付けの悪い戸を引くと、その呼びかけに答えもせずに、まだ明るい空を見上げては何かを探していた。
何事かと喜市も草履を引っ掛けてその隣に並んで空を見上げれば、何てことはない、ただ雲がニ、三流れているだけである。
わけがわからず、貧乏神の顔を眺めて首を傾げると、貧乏神はひげをひねりながら清次郎を振り返った。
「世話になったな」
とにこりと笑うと振り返りざまに「お前もな」と喜市にも声をかけた。
「いや、こちらこそ大変世話になり申した。もしやお帰りになるのですか」
清次郎の問いかけに軽く頷くと、喜市にはあかんべえを差し向けて「ほいっ」という掛け声とともに飛び跳ねた。
そして目にも止まらぬ一瞬のうちに何が起こったのか、地面に着いた貧乏神の出で立ちは先ほどのぼろきれの様な着物とは打って変わって、金糸の織り込まれた立派な着物になっており、縮れて絡んだひげは豊かで真っ白なものになっていた。
浦島太郎を見てしまったが如くあっけにとられる喜市と清次郎に、貧乏神は着物の袖口をつかんで自慢げに見せ付けると
「どうだい、立派だろう」
と、今度は立派な筆先のようになっているひげをゆっくりと梳いた。
「貧乏神じゃなかったのかい、爺さん」
目を丸くしたまま何も口に出せない清次郎の代わりに、喜市が口を開いた。
「ほ、言わなかったかいな。持ち回りなんだよ、貧乏神は。わしは今日の七つでお役御免なんだよ。ようやく福天に戻れるってもんさ。」
気づけば、七つの鐘はとっくに鳴り止んでいた。
いまだに驚いて、ほうほうと頷くだけで精一杯の清次郎と、とうとう言葉をなくした喜市を交互に眺めると、貧乏神であったその福天は高らかにかかかと笑い
「だから御主の徳はすぐ来るはずだったと申しただろう」
と、隣にいた喜市に耳打ちをした。
「それではご両人、わしはこれから仕事があるゆえ、いとまいたす。世話になったな」
そうして片手を懐にしのばせ帳面を取り出すと、いつの間にか手にしていた筆の先をちろりとなめて、何かを書き足していた。
「お上ももうろくしたな、最近徳量の書き間違いが多くてのう、きちんと申しておくな」
福天は書き終えた筆先で、清次郎の傍らに置いてあった行李を指し示すと
「では、これにて」
と外に出て、ニ三歩歩いたかと思うと、煙の空気に溶ける様に立ち消えてしまった。
しばらくの沈黙を経て、最初に声を出したのは清次郎だった。
「いやあ、まさか福の神になろうとはねえ」
「まったくだ。てめえのけつをてめえで拭いてるだけじゃないか」
まだ、夢の中のような気分の二人の間には、さっきまで福天が白湯を飲んでいた湯飲みが湯気を立てていて、さっきまでそこに確かに福天がいたことを物語っていた。
喜市は半ば呆然としながらも戸口から出していた体を引っ込めると、畳に上がって腰を下ろしたが、そこであることに気づいた。
「清次郎殿、みろやい」
慌てて湯飲みを持ち上げてこちらに差し出すのを覗き込めば、なるほど温かい茶の中に真珠と思しき螺鈿の色を跳ね返す白い玉が三つ沈んでいる。
「なんと」
と驚いて、湯飲みを手に驚く清次郎をよそに、さっき福天が筆で指した行李を思い出した喜市は、清次郎の袖を引っ張って、それを指差した。
一瞬首を傾げた清次郎は、あ、と声を出して気づくと、恐る恐るその行李を開けた。
するとそこには、一分金(一両の1/4)がぎっしりと詰まっていて、中には一両小判もちらほら見え隠れしている。
本当にこれが現であるのかと疑いたくなるような光景だった。
「はあ、こりゃすげえや。」
見たこともない量の金を目に、喜市は再び言葉をなくした。
これほどの金があれば、年を越せるどころか一年近く余裕で暮らせるほどの金だった。
驚いたまま覗き込んだ姿勢を正すと、喜市の目の端には腕を組んで、困っているのであろう清次郎が目に入った。
喜市には、おそらく清次郎にも、この金が福天の礼なのだと分かってはいたが、さすがにあまりにも度の過ぎたものであるので、こと真面目な清次郎が悩まないはずもなかった。
しかし、今まで食う米にもしばしば困るほどの生活をしてきた清次郎には、願ってもないものであるはずである。
「一体どうしたものか」
「清次郎殿の好きにしたらいいさ。そうさなあ、小さな道場の一つでもこさえたらどうだい。せっかくの御免状だろ。それにいい刀も買えるな」
喜市は自分のことのように張り切って提案したが、清次郎は腕組みをしてうーんとうなるばかりで賛同しなかった。そのもどかしさに痺れを切らしかけた喜市は、続けざまに口にする。
「どうせ返すこともできねえの金だよ。礼だって言うんだ、景気良く清次郎殿好きなように使ってやるほうがいいじゃねえか」
少し強くなったその口調に動かされたように、清次郎はその顔を上げると脇にあった麻袋を広げ、金を数えながら詰めていく。
突然のげんきんな行動に、喜市は少々驚いたが、しかしながらも何も言わずにそれを手伝い始める。ふと見れば、清次郎の目は生き生きとしていて、それがあまりにも意外に思えた喜市は、その様子に見入ってしまった。
「どうした」
視線に気づいた清次郎が投げかけた声にひくりと僅かに肩を上げる。
「いやね、何かほしいもんでもあったのかい」
物欲に乏しい清次郎が、いきなりそんな様子になったものだから、喜市は気になってしまった。
「いや、欲しい物はないんだがね、コロリで医者にかかれぬ奴が何人か要るらしいのだ。
岸本殿がただで世話を見ているのだが、それも限界があるらしくてな。
丁度よかった。これで新しい服なんぞも買ってやれるし、栄養のあるものも食えよう。
向かいの長屋のお駒も父上がなくなられて振り売りの元賃がないと申していたしな。」
忙しそうに金を数えては小袋に詰める清次郎の笑顔に、喜市は安心と、僅かな自分の心もちの恥ずかしさを感じた。
そうだった、思ってみればがつがつと欲を掻くような男ではなかった。
一にも二にも、人の大事が自らの大事とするような男である。
しかしながら何の警戒もなく受け取る辺り、それはそれで清次郎殿らしいと、喜市は呆れるやら嬉しいやら複雑な気分であった。
なるほどこのような男だからこそ、福天も富を授けたのだろう。
しかしそう思えば喜市は、清次郎のほうがよっぽど福天に思えて仕方がなかった。
「明日にでも、侘助にも新しい着物をこさえてやろうな」
最近ことに遊びに行くことの多い侘助の着物は、もう藍色も抜けきってくたびれ始めていた。冬物の袷を着るにはまだ暑さもあって、寒くなるまでは、とぼろをこらえて着ていたのだ。どんな着物を買ってやろうと思い浮かべれば、清次郎の口許は自然と緩んだ。
お読みくださいまして有難う御座いました。
お話は次の話「吉原指南」へ続きます。
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