第六話 織作織之助
階上ではただ、探偵様が立ち尽くしていた。
「さて、どこに逃げ込んだんだろうなぁ」
階段を上がってすぐ目の前には一枚の扉。そして右側の突き当りに同じ扉がもう一枚。さらに右へ視線を向けると三階へと続く階段があった。身体を回転させ、そのまま逆側を確認する。重厚な観音開きの扉前を過ぎると廊下は突き当りを左へと曲がっていた。その先には今回客室として使われている部屋とバスルームがある、というのは探偵様の説明だ。篠塚と久子さん、光君、そしてまだ到着していないもう一人の客室が二階。三階もほぼ同じ間取りで、新と恭介、彼女と私の客室となっているそうだ。
「やめとけって。また織作久子がキレちまう」
柚木さんに呼び掛けようと息を吸い込めば、名前を口にする前に止められた。先ほどの久子さんの剣幕を思い出す。確かに、今はなるべく刺激しないおこう。
無言のまま、周囲を見回す。
階下から聞こえていた恭介と篠塚の声はすでに客間の中。
階段途中の大きな窓が音を立てて震える。厚いカーテンで閉ざされているため外の様子は窺えない。しかし、これまでの天気を考えれば随分と雨風が強くなってきているのだろう。点在するランプの灯りがぼんやりと私達を浮かび上がらせるばかりのこの場は、なんだか物悲しい雰囲気だ
――この屋敷のどこかに、彼がいる。
『たとえ身体が女でも、小早川柚木は男なんです。男として男である織之助先生を愛しています』
そう、言い切った透明な声が。
今もまだ、脳ミソを揺さぶり続けている。
「なぁ先生」
ふと、視線を感じた。
隣を見上げれば、薄曇りの双眸がじぃっと私を見つめていた。ゆっくりと動かされる形の良い唇。
「アイツのこと、どう思ってる?」
「アイツ?」
「織作織之助」
「……え?」
がたり、と。
物音。
目の前の扉から。
「なぁ教えてくれ。先生にとってアイツはどんな存在だ?」
急に、何を言い出すのだろう。
自分と同じ生命が宿っているのかと疑いたくなるほど端整な相貌には、何の感情も読み取れない。一生懸命口を開いても、言葉は喉に引っかかる。唇を噛んで少しだけ咳払いをする。
「別に、なんとも思ってないよ」
「ウソつき」
あっさり鼻で笑われた。
反論出来ず立ち尽くす私に、しかし彼女はそれ以上何も言わない。物音が聞こえてきた扉を乱暴に叩く。
「おい、織作織之助! いるんだろう? 出てこい!」
「ちょっ、大声出すなって君が自分で――」
『その通りだ。あまり無粋な真似はしないでくれ』
低く、くぐもった声。
緊張で身体が固まる。
初めて間近で聞く彼の声は扉越しのせいもあるのだろう、やけに聞き取りにくい。その物言いは誰かさんとよく似ていた。
「ここを開けてくれ。直接ツラを見て話がしたい」
カギがかかっていることを知りながら、彼女はドアノブを回して扉を何度も前後させる。
「小早川柚木も中にいるんだろう? もう織作新は屋敷にはいない。安心しろ」
『礼儀を弁えない相手に尽くす礼儀はない。まずは君の呼称を教えてくれ』
「来栖レイラだ」
『……なるほど。では、探偵君と呼ばせてもらおう』
「どうぞご随意に」
一瞬の沈黙は、きっと彼女が告げた名前のせい。
来栖レイラ――それは今現在彼が執筆中の推理小説に登場する探偵の名前だ。彼女自身の本名じゃない。
「これで礼儀とやらは尽くせたか?」
『そうだな。では、直接話をしよう』
扉越しの気配が緩やかに微笑んだ、気がした。
『だが、それは探偵君とではない。――藤崎羽琉君。君とだけだ』
思わず口を押えて、後ずさる。
視界の隅で不機嫌そうに顔をしかめる彼女が抗議の声を上げるが、その声は私には届かない。
『そこにいるんだろう? ずっと会いたかったんだ。早く入ってきてくれ』
扉越しにでもわかる。
私に向けられた感情の色が。
『ああ、探偵君は下がっていてくれよ。これは推理作家同士の秘密の話だ。こんな序盤での種明かしは君の望むところではないだろう?』
「……わかった」
『いいコだ。――柚木、開けてあげなさい』
室内に小さな物音が響いて、やがて静かになった。
かしゃり、と。
鍵が開かれるかすかな音。
「――どうぞ、羽琉さん」
柚木さんの身体一つ分だけ開けられた扉の向こうは薄闇だった。
この部屋は書斎、なのだろうか。
視界も悪く、見える範囲が限られていて室内の様子は判然としない。唯一、左側の壁一面に設置された本棚だけがぼやけた輪郭を私の眼前に晒している。
『どうした? 入っておいで』
低く囁かれる滑らかな声、が。
確かに、ハッキリと――聞こえた。
「さぁ羽琉さん、どうぞ」
私に向かって差し出される華奢な右手。
滑らかに澄んだ白い素肌、桜色の薄い唇、星空の煌めきを孕んだ漆黒の双眸。――なぜだろう。やっぱり、胸が痛い。
「……ごめん、柚木さん」
首を振って、さらに後ずさる。
「今はいいや」
私は彼の姿を知らない、彼も私の姿を知らない。
知っているのはただ、互いの頭の中で生み出した五十音の羅列のセカイだけだ。私はそこに自分の思考と彼の思考が重なり合う様を楽しんでいるだけ。ただ、それだけで充分なのに……。
「そう、ですか……」
白い細面が悲しみに沈む。
差し出した手はカラッポのまま。
柚木さんは自身の胸に引き戻したその手をぎゅっと握りしめた。
「お二人とも、もう少しだけその場でお待ちくださいね」
健気に微笑んでみせるその表情に胸の痛みが増す。
何か言わなければ、と。
意を決して口を開く時にはもう、彼へと続く扉は閉ざされていた。
「なぁ先生」
本当に、これで良かったのだろうか。
「先生ってば」
私の判断は正しかったのだろうか。
「おい、羽琉!」
強く腕を引かれた。
見上げた先で薄曇の双眸がじぃっと私を見下ろしている。なんだか、妙な既視感。
「どうして、織作織之助に会わなかったんだ?」
「……君には関係ない」
「私から小早川柚木の背後に人影が見えた。顔は判然としなかったから、おそらくこちらに背を向けて椅子にでも座っていたんだろう。お前には他に何か見えたか?」
「さぁね」
「頼むよ、先生。こうして探偵らしく手掛かりを探しているんだ。少しくらいヒントをくれよ」
「何に対するヒントだよ……」
傲岸不遜な探偵様に与えられる情報なんて、なにもない。
わざと大きく溜息をついてやり、掴まれた腕を振り払う。
「トラブルを防ぐためだとしても、手あたり次第に人様の腹を探るのは君たち探偵の悪いクセだよ」
「かもな。だが、どうしても消えないんだ」
「なにが?」
「ただ一瞬浮かんだ疑問が、ずっと思考を圧迫し続けているんだ」
それは思いがけない言葉だった。
どんなに明白な事実でも最後の最後まで断定を避け、曖昧な物言いで周囲を煙に巻く探偵様らしからぬ物言いだ。
「もちろん、全ては憶測にすぎない。だから探しているんだ。私の考えが間違っている、という確固たる手掛かりを……」
その表情は彼女がよく浮かべてみせる自信満々なものではない。迷子になって途方に暮れる幼子めいた瞳が戸惑いに揺れる。まるで痛みを堪えるかのように歪められる端整な相貌。
「これからこの屋敷で何が起こるのか、それは私にわからない。だが――これからこの屋敷で起こる全ての元凶はお前だよ、羽琉」
あまりにも。
あまりにも真剣な口調に何も言葉が出てこない。
「だって、お前こそが織作織之助の――」
雑音。
「お待たせしました」
その時、音もなく開かれた扉から柚木さんが現れた。
「織之助先生がコレを探偵さんに、と」
その胸に大事そうに抱えられていたのは――一冊の文庫本だ。
しかし、私と彼女のどちらもがその意味には言及できなかった。
唐突に、屋敷を震わす爆音。
「なに!?」
私達は顔を見合わせる間も惜しんで、すぐに階段を駆け降りた。




