終章 グッド・バイ(1)
都内にある高級ホテルのロビーで大きな溜息をつく。布張りの高級そうなソファーは座り心地も追及されているはずなのに、今の私にとっては居心地の悪さしか感じない。それはきっと、身の丈にそぐわない華やかなこの空間のせい。仰ぎ見た吹き抜けの天井には大きなシャンデリアが吊るされており、驟雨の如く降り注ぐ煌めきがいつかのリビングと重なる。
ただ、ここはあの場所よりも賑やかだ。
他のソファーには私と同じようにスマホ片手に通話をしている女性や、難しい顔でノートパソコンを見つめるビジネスマンの姿。スーツケースを引きながらカウンターへと向かう親子やカップルも行き交う。
年の瀬も間近のせいか、世間全体が浮ついた雰囲気に包まれていた。
人々から発せられる騒めきが少しだけ煩わしい。何でお前みたいな人間がここにいるんだ、と非難めいた視線を感じる。黒縁眼鏡を掛け直して、顔を隠すように前髪を伸ばす。
なんだか、群集劇でも見ているような気分だった。
明るく華やかな舞台上とは対照的に、私がいる場所は薄暗く、周囲には空白の座席が連なるばかり。激しい雷雨や肌を焦がす炎を感じて一生懸命手を伸ばしても、薄幕一枚隔てた向こう側のセカイに届くことは決してない。
『――おい、羽琉』
あの日からだ。
あの日からずっと、私は業火に飲み込まれていく緋色の屋敷の前で立ち尽くしたまま――動けない。
『おい、藤崎先生ってば。聞いてんのかよ!』
恭介の声が鼓膜を震わした。その声量に耳元からスマホを遠ざける。
「聞こえてるよ。相変わらずうるさいんだよ、君は」
『だったら、行くってコトでいいんだな』
「行く? どこにだい?」
『なんだよ、全然聞いてねぇじゃん』
全くもってその通りだ。それ以上反論が出来ない。
『いいか。お前は今からそのホテルの最上階のレストランに行って、自分の名前をスタッフに伝えろ。そうすれば、後は勝手に案内してくれるように頼んであっから』
「はぁ? なんだよ、それ。君はまだ来れないってコトかい?」
『俺はそこにはいかねぇ』
「えぇ!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。恭介が可笑しそうに笑う。
『今夜はちゃんとシャレた格好してきたんだろうな?』
「してくるわけないだろ!」
待ち合わせの場所がどこであろうが、コイツと飲みに行くのにちゃんとした格好なんてする必要はない。それに私が外出用に持っているのはこのスーツだけだ。あの出来事の後すぐに新調したスーツは、しかし色形は全く同じもの。防寒対策で暗い色のコートを羽織った一年前の冬と全く変わらない格好だ。
『どうせいつもと同じ格好なんだろ。飽きないのかねぇ、全く』
呆れたように笑う気配は、しかしすぐに真面目な声音へと変わる。
『この前は大変なコトに巻き込んじまって、悪かった』
この前。
まだ、わずか数か月前の出来事。
燃え盛る屋敷を背に、さようならと微笑んだ白い細面が脳裏に蘇る。
『ずっと後悔ばっかしてんだ。俺はあの屋敷で誰も守れなかった。あん時ああしておけば、こうしておけば誰か一人でも助けられたんじゃねぇかって、今でもそんなコトばっか考えちまうんだよ』
「恭介……」
『それで気づいたんだ。きっと、お前も同じ気持ちなんじゃねぇかって。もしかしたら、俺なんかよりもずっとキツい思いをしてんじゃねぇか、ってさ』
誰も守れなかった、なんて言わないでほしい。恭介は確かに一人守り抜いた。だから今、私はこうしてここにいる。
「……私は恭介に感謝してるよ。ありがとう」
言いたいことはもっと色々あるのに、上手く言葉に出来なかった。いつだってそうだ。肝心な時に言葉は役に立たない。それでも、スマホ越しの張り詰めた空気が少しだけ緩んだ気がした。小さな笑い声。
『お前に慰められるなんて、やっぱり俺もまだまだだなぁ』
「なんだよ、それ。ホント慰めがいのないヤツだな、君は」
『あはは。まぁ今夜は俺からの詫びと礼だ。楽しんでくれや』
詳細を尋ねる間もなく通話が切られた。とりあえず、ここでアイツを待ち続ける意味はないらしい。最上階へと繋がるエレベーターへ向かう。
最上階のレストランは都心の夜景が一望できる洒落た空間だった。
真っ白なテーブルクロスの上には淡いランプが灯され、綺麗に着飾った人々が食事を楽しんでいる。クラシック調の音楽に交じって時折沸き起こる華やかな笑い声。光に反射してキラキラと輝くイヤリングにネックレス。すれ違う女性のふわりと翻るドレスの裾につられて振り返るが、溜息だけが口をつく。――ここは、私にはとても場違いだ。
先導していたスタッフが店内の一番奥まった場所で足を止めた。慇懃に一礼して扉を開ける。そこは一面ガラス張りの個室だった。煌めく夜景を背景に、真っ白いクロスが掛けられたテーブルがある。
そこにはすでに一人の女性が座っていた。
そうして黙っていれば、作りモノかと見紛うほど端整な横顔。青みがかったドレスから覗く肌の白さが目に眩しい。背後の扉が閉められたタイミングで、その薄灰色の双眸が私に向けられる。
「羽琉」
真っ赤な唇に笑みを乗せて、彼女は小さく息を吐く。
「お前はいっつもその格好だな。私ばかりがバカみたいだ」
「……別にいいだろ。ちゃんと洗ってはいるよ」
「そういう問題じゃない」
視線で促され、給仕が引いた椅子に腰を掛ける。
「今日は、なんで……?」
「まずは食事だ。腹が減ってるだろ?」
彼女の言葉を受け、前菜が給仕によって運ばれてくる。
「いただきます」
珍しく乾杯はなしに、彼女は胸の前で両手を合わせた。
相変わらずその食事姿はとても優雅だ。普段の粗雑な言動からは到底信じられないが、造作の良い容姿からは全く違和感がない。全てが完璧で、まるで舞台の一場面を見ているような光景だ。
「食べないのか、先生?」
「あまり食欲がないんだ」
「……そうか」
自身の料理を綺麗に食べ切って、彼女は傍らのワイングラスに手を伸ばす。しかし、そのグラスの中身は透明な液体だ。
「君こそ、今日はお酒を飲まないのかい?」
「健康の大切さに目覚めたんだ」
「ようやく?」
「誰かさんよりは早い。それに、こういう時に酒の力を借りるのは良くない事だと思ってさ」
紅を引いた真っ赤な唇をにっと持ち上げて見せてから、彼女はグラスの水を一気に飲み干した。すかさず空になったグラスに水を注ごうとする給仕を制し、その耳元に何かを囁く。給仕は慇懃に一礼をすると、テーブルのお皿を手に退室していった。
次の料理を持ってくるのかと思ったが、どうやら違うようだ。
突然二人きりになった室内は意外なほどの静けさに包まれる。壁一枚隔てた向こう側で、幾人もの人間が同じように食事をしているなんて信じられない。このガラス越しに広がる街並みでは、何十万人の人間の営みが日々繰り返されているなんて、もっと信じられない。――今、このセカイには私と彼女の二人きりだ。
「少し長い話になるから、先に腹ごしらえをしといたほうがいいと思ったんだけどな。食欲がないんじゃあしょうがないか」
「……話?」
「鈍いなぁ先生は。探偵が関係者を集めて話す事と言ったら、ただ一つだろう?」
薄灰色の双眸が真っ直ぐに私を見据える。
「謎解きだ」
耳の奥で、炎が爆ぜた。
夜の闇と溶けあって燃え続ける緋色の屋敷を見た、気がした。
「そもそも謎解きなんてものは犯人に罪を認めさせるためのハッタリだ。例え事件の経緯が曖昧で、幾つかの謎が残されていたとしても、すでに犯人が罪を認めているのなら後は警察の仕事だ。それに、今さら何を言ったって事実は変わらない。織作織之助も小早川柚木も、私達以外の誰も彼もがもうこのセカイにはいない。そうだろう?」
彼女は淡々と言葉を紡ぐ。
私に話しているようでいて、実は自分自身に言い聞かせているような、そんな口調だった。
「だが、思ったんだ。言葉として事実を明確にすることで、ようやくこの事件にピリオドを打つことが出来るんじゃないかって。それをせず、自分の気持ちを偽ったまま、この出来事を忘れた振りして生きていくとするなら、私達は一生、あの燃え盛る屋敷を見上げたまま立ち尽くすことしか出来ないんだろうってさ」
もしかしたら彼女もこの数か月間、後悔ばかりしてきたのだろうか。わずかな間だけ閉ざされた唇がふっと緩められる。
「それに、アイツのささやかな願いを叶えてやるのも一興かと思ってな」
「アイツって?」
「小早川柚木」
言葉を飲む私に柔らかく微笑みかけ、探偵様は椅子から立ち上がった。
「――さて」




