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スカーレットの終幕  作者: 緋楽あけ
第四章 どうか、この手をとって
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第四話 幕引き

 必死に廊下を駆け抜けて、エントランスホールに辿り着く。


柚木(ゆずき)さん!」


 食堂の扉に体当たりして室内に転がり込む。しかし、そこには誰もいない。淡く揺れるランプの光に食べかけの料理が浮かび上がるばかりだ。


「柚木さん!」


 名前を叫びながら配膳室を通って調理場へと向かう。蛍光灯が照らすそこは、ほんの数時間前に訪れた時とはまるで雰囲気が違かった。なんだか現実味がなくて、全てがお芝居のために作り上げられた舞台装置のようだ。地下貯蔵庫へ続く扉は開け放たれており、裸電球が点けっぱなしだった。そこにも誰もいない。

 同じ通路を辿って今度は客室にも行ったが、電気だけが煌々と灯されているばかりで柚木さんの姿はない。募る焦燥に乱れる呼吸を押さえ、大客室の扉を開けてエントランスホールへと戻る。その時、階上で床の軋む音が聞こえた。弾かれるように視線を上げれば、予想していなかった人物が階段を降りて来るところだった。


「あら、藤崎(ふじさき)先生」


 音高くピンヒールを打ち付け、最後の一段を降りきった七瀬(ななせ)さんは両手に大きな荷物を抱えていた。


「血相変えてどうしたの? 今から(あらた)でも追いかけにいくつもり?」

 その言葉に驚く。

「な、んで……なんで、新が逃げたことを知ってるんですか?」

「柚木に聞いたのよ」

「ッ!?」

 たった今、七瀬さんが降りてきた階段を見上げる。

「柚木さんはまだ上に!?」

「さぁ? 言いたいコトだけ言って、さっさと出てちゃったから知らないわ。自分の部屋にでもいるんじゃない?」

 そう言って七瀬さんは玄関へと足を向ける。

「どこに行くんですか?」

「どこって……帰るに決まってるじゃない」

「駄目だ!」


 思わず大声が出た。振り向いた七瀬さんは、少しだけ驚いたような表情で首を傾げる。


「なんで?」

「だ、って……まだ織作先生はどこにいるかわからないし、(あらた)だって逃げたままだ。警察が来るまで私達といた方が安全です!」

「アタシのこと心配してくれるの? 藤崎先生は優しいわね」


 ふいに七瀬さんの視線が私の背後に向けられた。真っ赤な唇がにまりと持ち上げられる。


「藤崎先生だけなら一緒に車に乗せてってあげるけど、どうする?」

「私達は置き去りってことか? ヒドいヤツだなぁ」

「百歩譲って、刑事さんも連れてってあげるわ。でも貴方はダメ。一人ぼっちのまま、この屋敷で過ごせばいいのよ」


 階段脇の廊下から姿を現したのは彼女だった。少し遅れて恭介の姿を見る。


「大丈夫かい、恭介?」


 私の問いかけに険しい表情で微かに頷いただけ。睡眠薬が抜け切っていないのかもしれない。しかし、それ以上に(あらた)を逃してしまった事実が堪えているのかもしれなかった。


「一応言っておくが、私も先生の意見には賛成だ」

 彼女が七瀬さんに言う。

「今、屋敷の外に出るのはオススメしない」

「あら、意外ね。貴方もアタシのことを心配してくれるの? でもアタシも暇じゃないのよね。この後も色々仕事が詰まってるし、早く帰りたいのよ」

「お前の仕事は織作織之助から新作の原稿をもらうコトだろ。それはもういいのか?」

「ココでの仕事はもう終わり。色々良いものが手に入ったし、これでしばらくは楽しく暮らせそうよ」

「私達がいない間に、パソコン以外に何を盗ったんだ?」

「あら、人聞きの悪い。これは遺産の前取りよ。いなくなった人たちが貰うはずだった分も含めてね。別に構わないでしょ? だって、今こうしてココにいるのはアタシだけなんだもの」


 荷物を肩に掛け直し、七瀬さんは玄関に手をかける。


「ダメ! 外に出たら殺される!」

「織之助に? あはは! 姿さえ見せてくれれば返り討ちにしてやるわ」


 ひらりと手を振って、玄関扉が開け放たれた。


「バイバイ、藤崎先生」


 扉の隙間に身を滑り込ませたその姿が夜の闇に消えた。甲高いヒールの音はすぐに聞こえなくなる。しばらくして、車のドアが乱暴に閉められる音。


 そして、次の瞬間。

 屋敷を震わせる轟音が響き渡った。


「な、に……?」


 エンジン音とは明らかに異なる爆音に足が竦んだ。

 その場で立ち尽くすことしかできない私の横を彼女が駆け抜けていく。

 続いて足早に恭介も通り過ぎるが、やはりまだ薬が抜けきっていないようだ。私の隣で大きくよろめいた巨体に肩を貸して、一緒に玄関へと向かう。


 彼女の手によって開け放たれた扉の向こうは――緋色に染め上げられたセカイだった。


 先ほどの轟音の原因――屋敷から一番離れた場所に停められていた車が夜の闇さえ追いやって煌々と燃え盛っていた。炎上を続けるスポーツカーの中で真っ黒なナニかが(うごめ)いた気がした。


「なな、せさん……ッ!?」

「バカ、近づくな!」


 無意識に足を踏み出した身体を押し止めたのは、私の肩を支えに立つ恭介だ。

 それと同時に響き渡る、再びの爆発音。

 黒煙を纏った炎がスポーツカーの隣に停められていたジープに達し、瞬く間にその車体を飲み込んでいく。炎と屋敷までの距離はあと車一台分しかない。小雨ともいえない微かな雨粒は消火の役に立たない。車の間近に迫る森の下生えが、木立の幹が、空を覆う葉が次々と緋色に侵されていく。


「早く逃げるぞ!」


 彼女に先導され、恭介の身体を支えながら暴れ回る炎から遠ざかる。しかしその途中で、私はあまりにも重大な事実に気がついて呆然とした。


「まだ柚木さんが屋敷の中にいるッ!」


 隣の巨体から手、を放し、元いた場所に引き返す。

 紅蓮の炎は三度(みたび)の爆発と共に、最後の一台を飲み込んでその勢いを増していた。でも、まだ屋敷までには距離がある。玄関までなら、なおさらだ。今から助けに行けばまだ間に合う……ッ!


「羽琉!」


 腕を強く掴まれ、駆け出した勢いそのままに身体がつんのめった。私を止めたのは――やっぱり彼女だ。


「羽琉、行くな。もう間に合わない」

「離してッ! 私は柚木さんを死なせたくないッ!」

「無駄だ。きっとアイツは死んでも構わないと思ってる」

「デタラメ言わないでッ! 君に柚木さんの何がわかるって言うんだッ!」


 いつもそうだ。

 いつも、いつも探偵様が邪魔をする。


 緋色に煌めく炎を見据えて腕を大きく振り払う。しかし、どんなに強く振り払ってもその手は離れない。逆に強い力で身体を引き寄せられ、背後から抱きしめられた。


「頼むよ、羽琉」


 首筋に柔らかな髪の感触。鼓膜を震わす低い声が震えているように聞こえるのは、絶対に気のせいだ。


「アイツにお前は渡さない」

「……アイツって?」


 その疑問に対する答えはなかった。

 彼女が無言のまま顔を上げる気配。私もすぐ、それに気が付いた。


「柚木、さん……?」


 開け放ったままの玄関扉から姿を現したのは、紛れもなく小早川柚木(こばやかわゆずき)その人だった。


 襟付きのシャツと黒いパンツスタイルは初めて出逢った時のまま、漆黒のショートボブが熱気交じりの夜風に柔らかく揺れる。ただ、胸に抱かれた木箱だけが違和感だった。見覚えがある木箱だ。そう、それはまるで人間の頭部が納められそうな大きさの木箱。視覚的な炎の熱さも相まった蒸し暑い空気の中で、首筋に氷でも押し当てられたかのような寒気を感じる。

 柚木さんは地面より数段高いポーチで立ち止まると、ゆったりとした所作で周囲を見回した。背筋を真っ直ぐ伸ばして佇む小柄な姿は、これから舞台挨拶をする主演役者そのものだ。緋色に煌めく炎を孕んで常闇の双眸が笑みの形に細められる。柚木さんは私達に向かって優雅に腰を折った。


「この度は織作織之助(おりさくおりのすけ)の誕生日パーティーにお越しいただき、誠にありがとうございます。皆様、楽しんでいただけているでしょうか?」


 本当に、これは現実なのだろうか。

 柚木さんの台詞めいた、その言葉。

 炎に包まれた車も赤々と照らし出された木々も夜空も屋敷も――なにもかもが良く出来た舞台上の演出に思える。


 背後の気配がすぐ隣に移動した。

 仰ぎ見た先で彼女の瞳もまた、柚木さん同様に緋色の煌めきを孕んで不思議な色合いを帯びていた。


「脚本は織作織之助。主演は小早川柚木ってワケか。中々興味深い話ではあったが、出来がいいとは言い難いな」


 鼻で笑ってみせるその声音に先ほどの震えはもうない。対する柚木さんも唇に小さな笑みを乗せる。


「賛否両論は覚悟の上です。でも、出来不出来を断じるにはまだ早いですよ。だって、ここからがこのお話の見せ場。探偵さんの出番なんですから」

「一体、私に何をしろっていうんだ」

「探偵さんのお仕事は事件の後始末なんでしょう? どうぞ、この舞台に華麗なる幕引きをお願いします」

「……お前達の尻拭いをしろってか。勘弁してくれ」

 彼女はわざとらしく大きな溜息をつく。

「だったら、まずは出演料代わりに教えてもらおうか。――織作織之助は今、どこにいるんだ?」

「ココです」


 小さな爆発音が連続して起こった。


「コレが、織作織之助です」


 柚木さんが胸に抱えていた木箱を掲げる。……ああ、思い出した。アレは昨夜柚木さんの部屋を覗いた時、机の上に置かれていた木箱だ。


「織作織之助はこの屋敷で息を引き取りました。半月ほど前のことです」


 柚木さんは木箱を胸に抱え直して、私達を見据える。


「病死でした。看取ったのは往診の先生と僕だけ。もちろん死亡診断書も書いていただき、こうしてちゃんと火葬もしました。ただ、その事実は誰にも伝えていません。全て僕一人でお見送りをしました」語尾が僅かに震えていた。

「一年ほど前から持病が悪化して、体調も崩しがちだったんです。出会った頃から『もう自分は長くは生きられない』と仰ってはいました。だからこそ、残された時間を二人きりで生きていこうって……そう、約束したんですけどね」

 柔らかく微笑む細面が泣き出しそうに歪んだのは、きっと気のせいじゃない。

「僕達はただ静かに、穏やかに暮らしたかっただけなのに……周囲の人達がそれを許してはくれませんでした。織之助先生は随分と皆様との関係に苦心していました。しかし、なかなか折り合いのつかない部分が多かったようです。僕のせいで、あの人には要らぬ心労を掛けてしまいました。その精神的ストレスが病状の悪化を早めてしまったのではないかと、今でも後悔しています」


 どこかで、聞いたような話だ。

 二人は、二人きりのセカイで生きていたいだけなのに、周囲がそれを許してはくれなくて、お互いがお互いを守るために罪を重ねていく――そんな、ありふれた話。


「ただ、織之助先生と過ごした日々はとても楽しかったんです。たとえ周囲にどう言われようと、僕は本当に幸せでした」


 華奢な右手が胸に抱いた木箱を優しく撫でる。両手でぎゅっと木箱を抱きしめて口づけを落とす。

 柚木さんはしばらく身じろぎ一つしなかった。しかし、やがて大きく息をつくと顔を上げる。


「織之助先生の考えた計画は上手くいったと思いますか? 僕にはよくわかりません。ただ、結果的にここに残っているのは貴方達だけです」

「お前は上手くやったよ。さすがは舞台役者だ。お前自身は直接手を下すことなく、演技一つでそれぞれに制裁を下したんだ」

「いつから気がついていたんですか? 織之助先生が亡くなっている事に」

「別にいつからだっていいだろ。事実に変わりはない」

「謎解きをしてくれないんですね。僕、織之助先生の小説で『名探偵來栖(くるす)レイラ』シリーズだけは全部読んでいたんです。あの探偵さんみたいに、華麗な謎解きをしてもらえるのを楽しみにしていたのに」

「……この状況で、そんな悠長なコトしていられるか」


 底に焦りの混じった彼女の声。柚木さんは僅か背後に視線を向ける。

 一台のスポーツカーから発生した炎は今、木々の葉を伝い、勢いを増して大客室側の壁を焦がし始めた。炎の広がりが早い。一刻も早く逃げないと炎と煙に巻き込まれてしまう。それなのに、燃え盛る炎を見つめるその顔に恐怖はない。むしろどこか楽しげだ。


(あらた)さんが仕掛けた火薬の量は意外と多かったんですね。本当は車が爆発するのはもう少し前の予定だったのですが……こんなに燃えるのだったら、このタイミングでちょうど良かったのかもしれません」


 ようやく聞こえる程度の呟きに、彼女が舌打ちをする。


「途中経過はどうあれ、お前は目的を達成した。もういいだろ? 私達はこれで帰らせてもらう」

「駄目です」


 それは、今まで聞いた中で一番強い口調だった。彼女を見つめる双眸が鋭さを増す。


「昼間お話した事を忘れたとは言わせません。――僕達の邪魔を、しないでください」


 二人の間に訪れた沈黙の意味が、やっぱり私にはわからない。


「羽琉さん」


 ふっと表情を緩めて、柚木さんが私の名前を呼ぶ。その双眸に今しがたの鋭さはない。


「何事も、お話のようには上手くいかないものですね」


 少し困ったように微笑むその表情は、初めて出逢った時の穏やかなそれだ。


「ずっと、織之助先生はご自身の体調よりも僕の事を心配していました。自分が死んだ後、僕が一人で生きていけるのかをとても心配していました。だからあの人は自分が死ぬ前に、僕に危害を加える可能性のある人間を殺そうと計画したんです」


 柚木さんは木箱を強く抱きしめながら、とても穏やかな口調で話を続ける。


「織之助先生は全て自分一人で実行するつもりだったんです。でもあの人、隠しゴトが下手なんですよ。僕が何度も問い質して、ようやく今回の誕生日パーティーでの計画を話してくれました。――『いくら人を殺したって、どうせ自分も死ぬのだから、この際全員道連れだ』と。そう言って、笑っていました。何だかとても楽しそうでした」


 緋色の煌めきを孕んで揺らめく瞳は、しかし私を映しているわけではない。遠く彼方の愛しい人に向けられたソレはどこか夢見心地で、その存在自体がもう、このセカイの人間ではないような――そんな気がした。


「あの計画は僕のために考えてくれたものでした。でもきっと、織之助先生自身のための計画でもあったはずです。生涯最後の計画を、僕はどうしても成就させてあげたかった……いえ、あの人のせいにするのはいけませんね。織之助先生は僕が計画を引き継ぐことに反対したんですから。遺産も屋敷も全て僕の好きにしていいから、彼らに邪魔されないどこか遠くで幸せに暮らしてほしいって――そんなこと、出来るわけがないのに……ッ」


 それは徐々に自分自身に語り掛けるような、独白めいた口調に変わっていく。


「きっと目的が必要だったんです。あの人がいなくなったあと、没頭できる何かがなければ、たった一人、こんなセカイで生き続けることなんて出来なかった」


 独白は沈黙へと変わり、今まで意識していなかった炎の爆ぜる音が妙に耳につく。


「羽琉さん」


 ふいにはっきりと、とても涼やかな声が私の名前を読んだ。真っ直ぐに差し出される、華奢な右手。


「羽琉さんも、僕と一緒にいきましょう」

「……どこに?」

「織之助先生は最期まで羽琉さんに会いたがっていました。僕も羽琉さんとなら怖くありません。――一緒に、織之助先生に会いにいきましょう」


 その声音はとても甘美な響きを持って鼓膜を揺らす。緋色の屋敷を背に佇む白い細面はとても、とても穏やかだ。


「羽琉さん」


 くらり、と。

 炎が揺れる。セカイが揺れる。


 あの話の終幕も、こんな緋色に沈むセカイで二人が手を取り合って微笑み合うんだったっけ。お互いさえいれば、どんなセカイでも怖くはない。そう言って燃え盛る業火に身を投げるのだ。


 結局、私も柚木さんと同じだ。

 私達の違いはただ一つ。


 たった一つの存在の違いで、私達の立ち位置は容易に逆転していたはずだ。今、燃え盛る屋敷の前に立っているあの小柄な人間は「私自身」なのかもしれない。


「……羽琉」


 名前を呼ぶ低く滑らかな声、が。

 緋色のセカイに沈むココロを強く揺さぶった。


「羽琉」


 指先に触れる自分以外の体温。

 縋るように握りしめられたその手を離したくない、と。強くそう思った。


「柚木さん!」


 今にも激しい炎に飲み込まれてしまいそうな華奢な姿に向かって、同じように精一杯手を伸ばす。


「ねぇ柚木さん! 私も一人は寂しいよ! だから、だからね。私が一緒にいてあげる!――一緒に、このセカイで生きていこう!!」


 私に差し伸べられていた右手が微かに震えた。緋色の煌めきを孕んで燃える双眸が大きく見開かれる。


「羽琉さん……」


 柚木さんはとても優しく微笑んだ。それはあまりにも、無垢で透明な微笑みだった。


「羽琉さん。僕達は貴方のことが――好きでした」


 炎を纏う葉っぱを引き連れて、一際太い木の枝が轟音を立てて地面に崩れ落ちる。


「さようなら、羽琉さん」


 柚木さんが緋色の屋敷に消えていく。その胸に木箱を抱いたまま。彼と共に。


「柚、木さん……? 柚木さん!? ダメだ! いかないでッ!!」

「羽琉!」

「イヤだッ! 柚木さんッ! 柚木さんッ!!」


 追い縋ろうと前のめりになる身体を背後から抱きすくめられた。必死に身体を捩らせる。だって、まだ屋敷全体には炎が回っていない。今から行けば、まだ、助けられる。


「羽琉! 逃げるぞ!」


 ポーチの屋根が音を立てて崩れ落ちた。いや、まだだ。まだ炎の発生源とは逆側のリビングの窓から入れば助けられる――。


「羽琉ッ!」


 頬に鋭い衝撃が走った。

 夢現に揺らいでいた意識が、至極至近距離で真剣な光を宿した双眸に焦点を結ぶ。


「お前がいくなら、私もいく。――どうする?」


 彼女の背後で紅蓮の炎がリビング側の壁を勢いよく這い上っていくのを見る。熱い、焦げ臭い。言葉が喉に引っかかる。両頬を包み込む柔らかな手の感触。低い滑らかな声が、もう一度私の名前を呼ぶ。軽く咳き込んで、口を開く。


「逃げよう」


 どうか、どうか柚木さんが彼と共に優しいセカイに辿り着けますように……。



 その後のことはよく覚えていない。



 炎に包まれた緋色の屋敷から少しでも遠ざかるために、ひたすら山道を下りて行く。


「……ヘリの音がする」


 先頭きって歩いていた恭介が立ち止まったのは、一体どのくらいの時間が経った後だろう。

 頭上を仰ぎ見れば木々の隙間から覗く空が僅か白んできていた。今まで気にもしなかった鳥の囀りが聞こえる。雨はすっかり止んでいた。湿気交じりの風が汗ばんだ肌に心地いい。もしかしたら、今日は久しぶりに良い天気になるのかもしれない。


 上空に見え隠れするに飛行物体に気づいてもらうため、二人が慌ただしく動き出す。私はプロペラ音に耳を澄ませながら、ただ暁の空を見上げて立ち尽くしていた。




 第四章 どうか、この手をとって(完)



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