第三話 愛憎
リビングは相変わらず華やかな煌めきに包まれていた。テーブルやソファーの配置も昨夜から全く変わっていない。
「ねぇ恭介、彼女の代わりに私が一緒に見張りをするよ」
恭介は出入口が見通せる暖炉前の肘掛椅子に座っていた。もう少し近づくと、暖炉の対面に置かれたソファーで手足を縛られたままの新が横たわっているのがわかった。その顔は険しさを残したまま閉眼しており、動く気配はない。しかし恭介もまた、声を掛けても反応がない。
「恭介?」
肘掛椅子の後ろから覗き込む。両腕を組んで俯くその顔は閉眼していた。銃弾がかすった左太腿にジャケットは巻かれてはいない。私と同じように動きやすい服に着替えているから、その時に自分で手当てをしたのだろう。
ふと、瞬間的な強い煌めきが視界を掠めた。
絨毯の上に目を凝らす。フォークだ。しかも肉の切れ端が刺さったまま。テーブルには私達と同じ料理が並べられており、半分以上食べられている。珈琲カップの中身は空っぽだった。――なんだか、嫌な予感がした。
「恭介、起きて!」
耳元で名前を呼び、大きく身体を揺する。何度か繰り返してようやく、恭介は微かな呻き声と共に緩慢な動作で顔を上げた。
「ああ、羽琉……か」
「大丈夫かい?」
「わりぃ……なんか、眠くて……」
話ながらも、その瞼は今にも閉ざされてしまいそうだ。
もう一度強く身体を揺さぶれば、恭介はどうにかといった風に口を動かす。
「……織作織之助は、もう、来たか……?」
「え?」
「さっき……小早川、さんが……アイツと……会わせて、くれるって……」
「どういう、こと?」
「……が、……だった、から」
「なに? もう一回言って!?」
どうやら恭介は眠気に逆らえないようだ。口は動かされるが、言葉が全く聞こえない。
その時、背後から呻き声が聞こえた。ソファーに横たわる新からだ。苦痛に顔を歪め、手足が縛られたままの巨体を捩らせる。まだその瞼は閉ざされたまま。意識を取り戻したわけではなさそうだ。どうかそのまま覚醒しませんように、と。淡い期待を胸に恭介の肩を掴んだまま息を殺して動向を窺う。しかし混濁した意識下でも、自分の思い通りに動けないことに違和感を覚えるものなのか。後ろ手に縛られた両手と両足の動きが、徐々に大きさを増していく。
「恭介!」
耳元で囁き、力一杯身体を揺らす。言葉にならない声が口から漏れるも、起きる気配がまるでない。正面に回り込み、がっしりとした両肩を掴んで揺さぶってみるが私の力ではあまり効果がないようだ。
「お願いだから起きてくれってばッ!!」
両肩を強く掴んだまま、斜め後ろに視線を向ける。
大きく身を捩らせていた巨体はいつの間にか動きを止め、身を丸めるような姿勢でソファーに収まっていた。苦しげな呻き声はもう聞こえない。再び意識を消失させたのだろうか。安堵したのも束の間だった。
その瞼が、ゆっくりと開かれた。
「……ッ!」
突発的にテーブル上のナイフを掴み取る。再び動き始めた巨漢に切っ先を突き付ける。
半分ほど開かれた双眸は焦点が曖昧で、まだ現状の把握が出来てはいない様子だ。ナイフの柄を強く、強く握り締める。手のひらに感じる冷たい感触に頭が妙に冴えわたる。早く、もう一度コイツを気絶させないと……ッ!
「やめなさい! 何をしているのッ!?」
ナイフを振り上げた私の手を止めたのは切羽詰まった金切り声だった。
リビングの扉付近に二つの人影が出現していた。視線が合ったと思った瞬間、着物姿の女性が猛然と駆け寄ってくる。その両手に握り締められたナニかがシャンデリアの煌きを弾いて私の目を眩ませる。もう一つの黒い人影が誰なのかわからない。
「貴方、新を殺すつもり!? 絶対にそんなコトはさせないわッ!」
「……殺す、つもりなんて……そ、んな……」
「早くそのまま下がって! 下がりなさいッ!」
久子さんの小さな手に握りしめられた包丁が首元に突きつけられる。恐怖を感じて言葉が上手く出てこない。右手から滑り落ちたナイフが床で鈍い音を立てる。突きつけられた鋭い切っ先が柄を握りしめる両手の強さを伝えて細かく震えている。鬼気迫るその表情に、言われるがまま後ずさることしか出来ない。
「新! 大丈夫!?」
私がリビングの後方まで下がったのを確認して、久子さんは新の足元にしゃがみ込んだ。ここからでは恭介が座る肘掛椅子の背が邪魔で久子さんが何をしているのかが分からない。気づかれないようにそっと様子を窺う。どうやら久子さんは、手にした包丁で新の両足を縛るロープを切ろうとしているようだ。
「……な、に……してんだ、てめぇ」
呻き声がはっきりとした言葉となった。私は慌てて新の視界に映らないようソファーの陰へ身を縮める。
「新!? ああ、良かったわ。気がついたのね!」
心底嬉しげな久子さんの声音に新の意識が完全に覚醒したことを知る。
「今、こんな縄切ってあげますわ。私達と一緒にこの屋敷から逃げるのよ!」
……一緒に、逃げる?
久子さんは何を言ってるのだろう。
新は殺人犯だ。今まで久子さん達も散々虐げられてきたはずなのに……。なのに、なんでそんなヤツをあんな必死に助けようとしているんだろう……?
身を低くしたまま肘掛椅子の陰から顔を覗かせる。刃物がロープを擦る音が――途切れた。久子さんが小さく息を吐く気配。
「さぁ行きましょう」
幼子を促すような優しげな声。今まで身を横たえていたソファーから新が上半身を起こす。頭を抑えて顔を歪める巨体を久子さんが背中から支える。新の充血した眼球が私に向けられた、気がした。急いで肘掛椅子の陰に身を縮こませる。
「アイツ、は……?」
「寝ているわ」
「寝てる……?」
新が見ていたのは私ではない。恭介だ。
沈黙は一瞬。
「包丁を貸せ」
冷たい声音に心臓が跳ね上がった。
「こんなヤツ殺してやる。今までのお返しだ。散々言いたい放題言ってくれたからなァ」
ダメだッ!
心の中では今すぐにでも飛び掛かる決意を固めるが、実際には足が震えてまともに立つことが出来ない。あの威圧感に晒されるのが怖くて、叫び声を上げることすらままならない。
「それは貴方がしなくてもいいことよ」
しかし、新を制止したのは久子さんだった。
「これ以上、貴方が手を汚す必要はないわ」
「あぁ? だったらテメェが俺の代わりに殺してくれるってかァ」
「いいえ。後の始末は全部、織之助さんがやってくれるわ。――ほら」
その言葉にもう一つの黒い人影を思い出す。
身を低くしたまま床を這い、扉付近の様子を窺う。華やかな煌きの下、まるで影絵のようにその場だけが暗かった。真っ黒な雨合羽を羽織るその人物はフードを目深に被っており、相貌が判然としない。
「――は、ははッ」
引き付けにも似た短い笑い声が響いた。
真っ黒な人物からかと思ったが、違う。
「ははッ! とんだ茶番だな……ッ!」
笑い声の主は新だった。手首は後ろ手に縛られたまま、包丁を手にした久子さんと共に覚束ない足取りで黒い人物に歩み寄っていく。
「結局、テメェらもあのくそジジイの手のひらの上ってワケかッ」
「……二人で、先に逃げていろ」
ぼそり、と。
黒い人物からくぐもった聞き取りにくい言葉が発せられた。新が再び痙攣のような笑い声を立てる。
「はッ! だったらテメェのお望み通り逃げてやろうじゃねぇか。いつか、本当にクソじじいをこの手で殺すためにな……ッ!」
僅かによろめく新の巨体と、背筋を伸ばして迷いなく足を運んでいく久子さんの姿がリビングから消えた。黒い人物は二人の姿を見送ることなく、室内に一歩足を踏み入れる。
「車のカギは……?」
「車はダメだ。歩いてくぞ」
遠ざかる二人の会話と足音とは反対に黒い人物が一歩、また一歩と恭介に近づいてくる。私はどうにか震える足を宥めて、その場から立ち上がった。
「光君、だよね?」
真っ黒な人間が立ち止まったのは一瞬。すぐに無言のまま歩き始める。
「恭介を殺すつもりなのか?」
「……違う」
くぐもった声音は昨夜の映像のものと似ているが、こうしてその姿を間近で見ると彼との体格の違いが明らかだ。目深に被ったフードから少しだけ見える輪郭は線が細い。
光君は肘掛椅子で眠り続ける恭介の前で立ち止まると、その身体に両腕を伸ばした。
「ダ、メ……恭介に、触るな……ッ!」
「動かないでッ!」
今までとは全く違う鋭い声音に、踏み出した足が反射的に止まる。でも駄目だ。今、恭介を守れるのは私しかいない。震える足を無理やり動かして光君に駆け寄り、その腕を掴む。間近に迫るその貌が強い感情に歪んだ。
「邪魔、しないでッ!」
その細い腕からは想像もつかない力強さで肩を押された。私はあっさりとバランスを崩して尻もちをつく。
「……父さんが、僕を必要としてくれてるんだ」
ぼそぼそ、と。
先ほどの鋭い声音が嘘みたいに口ごもりながら、光君は恭介の身体を探り続ける。床に打ち付けた臀部の痛みを堪えてようやく立ち上がれば、フードから覗く口元がにまりと笑んだ気がした。
「動かないでって、言ったでしょ……ッ!」
真っ直ぐに突きつけられた銃口を信じられない気持ちで見つめる。それは山中で新に突きつけられた拳銃だ。――ソレにはまだ、銃弾が一発だけ残っている。
「もう、僕たちは苦しむ必要なんてないんだ。父さんが僕たちを救ってくれるんだ」
銃口をこちらに向けたまま、光君が後ずさる。
「待、って……!」
「近づかないでッ!」
再びの鋭い声に足が止まる。光君との距離が確実に離れていく。私は縋る様に声を上げた。
「織作先生が君達を救ってくれるって、どういうコトだい?」
「アンタには関係ない!」
「そう、だけど……これだけでも教えてくれ。君は織作先生と直接会って話をしたのか?」
微かなバイブレーションが緊迫した空気を震わせたのは、その時。
銃口はそのままに、光君は後ろ手で雨合羽の中を探る。再び明るい光の下に現れた手にはスマホが握られていた。その画面にちらりと視線が落とされる。フードから覗く口元にとても嬉しそうな笑みが浮かんだ。
「やっぱり、父さんは、ちゃんと僕のコトを見ててくれてるんだ」
「光君……それは、織作先生から……?」
「撃たせないで!」
この隙に、と。
急いで距離を縮めれば、光君は声を荒げて拳銃を構え直す。
「僕が殺したいのはアンタじゃないッ!」
フードから覗く瞳が鈍く煌めいている。さっき間近で睨み上げられた久子さんのソレと全く同じなのが、何だか切なかった。
「絶対に邪魔、しないでッ!」
光君は私が追いかけてこないことを確信したのだろう。もう一度拒絶の声を上げると、そのまま背中を向けて足早にリビングから去っていった。
しばらくして。
遠く微かに銃声が聞こえたのは――きっと、気のせいだったはずだ。
静かな。
あまりにも静かなリビングだ。
何の物音もしない。雨音一つ聞こえない。
不意に膝の力が抜けた。そのまま座り込んで額を床に打ちつける。両手で頭を抱えて、口を大きく開くが叫び声すら出てこない。みぞおちがムカムカした。せめて吐けたらどんなに楽だろう。何度も額を床に打ちつけて空咳をするが、やっぱり何も出てこない。
「羽琉」
私の名前を呼ぶ、低い滑らかな声。
ゆっくりと顔を上げる。ついさっきまで光君が佇んでいた場所にとても、とても綺麗なヒトガタが存在していた。
「羽流、大丈夫か?」
「イヤ、だ……こない、で……!」
床にお尻をつけたまま、その人ならざる姿から遠ざかる。
だって、本当にアレは彼女なのだろうか?
そこかしこに潜む深い闇が、この屋敷に渦巻く彼の強い思念に反応してヒトのカタチを成しているだけなんじゃないだろうか。あの、新と対峙した時に私に殺せと囁いた彼の被り物のように、また私をどうしようもない感情の渦へと呑み込もうとしているんじゃないだろうか。――もう、何もかもが怖かった。
来るな、ともう一度拒絶すれば彼女はその場で足を止めた。
薄灰色の双眸が無言で私を見つめている。その表情から何の感情も読み取れないことが無性に私をイラつかせた。人がこんなにも怖くて心細い思いをしているというのに彼女は何も感じないのだろうか。なんで探偵というものは、こうも平然と事件が進行していくのを見ていられるのだろうか。
「……久子さんと光君が、新を連れて屋敷の外に逃げていったんだ」
「そうか」
「恭介が持ってた拳銃も、光君が奪っていったんだよ」
「そうか」
驚いた風もなく頷かれ、さらに苛立ちが募る。
「まさか、君はこうなることがわかっていたのか? わかっていた上で、止めることもせずただ寝たふりをしていたのか?」
「この屋敷で何が起こるかなんてわかるはずないだろ。だからこそ寝たふりをしたんだ。アイツが次にどんな行動を取るのか知りたかったからな」
「……アイツ、って?」
「小早川柚木」
「…………意味が、わからない」
「お前にだってもう、わかっているはずだ」
睨み上げた先で薄灰色の双眸が細められる。
「珈琲に睡眠薬を入れて私達を眠らせたのは、小早川柚木だ」
「……違う」
「織作光とスマホで連絡を取っていたのも、小早川柚木だ」
「違うッ!」
握りしめた拳で床を叩きつける。彼女が小さく首を傾げた。
「違う? なぜそう言い切れる」
「だって、光君はメッセージの相手を織作先生だと信じ切っていたんだ。柚木さんのはずがない!」
「先生も織作織之助と手紙のやり取りをしていたんだよな?――本当に、それは織作織之助だったのか?」
……そうだ。あれは私が勝手に「織作織之助」だと思う人物と手紙のやり取りをしていたに過ぎない。こちらがそうだと信じていれば、それは誰が何と言おうと「織作織之助」なのだ。
「小早川柚木は織作織之助として織作光にメッセージを送った。もしかしたら、屋敷に到着する前から何度かやり取りをしていたのかもしれない。私達が新を殺すことなく屋敷に連れ帰ってしまったことで織作久子にもメッセージを送ったんだ」
「……新を、殺してくれって?」
「さぁな」
彼女は小さく肩を竦める。
「結局、織作久子はどんなに暴力を振るわれようが息子を見捨てられなかったってコトだろ。織作光は……どうだろうな。もはや真相はわからないよ」
ついさっき、遠くに聞こえた銃声を思い出す。
そのまま、彼らはどこに向かうつもりなのだろう。彼らの望むセカイに、ちゃんと辿り着けるのだろうか。
「羽琉」
一歩、彼女が近づく。
「言っただろ? 私は、私のセカイを守りたいだけだ」
さらに一歩、彼女が近づく。
穏やかな、そのくせ痛くて泣きたいのを必死に我慢してでもいるような表情で。
「私はお前さえ生きていてくれれば、他の誰が殺されようが構わない」
すぐ間近に自分以外の体温を感じる。手を伸ばせば互いに触れ合える、そんな距離。
「あと少しだ。あともう少しで、私達は元の日常に戻れるんだ。だから応援が到着するまで、ここで大人しくしていよう」
「……イヤだ」
差し出された両腕を振り払って、立ち上がる。
「私は、柚木さんに話を聞いてくるよ」
「話を聞いて、その後はどうするつもりだ?」
彼女が静かな声で制止する。
「私が言ったことが全部真実だとわかった時、お前は一体どうするつもりだ?」
「……うるさい。意味わかんないコトばっか言わないで!」
腹の底でちりっと散った苛立ちの火花が、すでに高揚していた身体を瞬く間に包み込む。
「君が言った事が全部本当だったとして、織作先生は一体今までどこで何をしてるんだよ。自分は全く事件の矢面に立たず、柚木さんにばかり辛い思いをさせてるんだとしたら――私は、彼を許さない」
「羽琉!」
掴まれた腕を思いっきり振り払って、私はリビングから飛び出した。




