第二話 決別
新をリビングへ運び終えた後、泥だらけでびしょ濡れの服を着替えるため、一度それぞれの客室へ戻った。寝る時はジャケットを脱いでそのまま寝ればいいや、と思っていた私は今着ている服と替えの下着しか持ってきていない。どうしたものかと考えながら客室の扉を開ける。しかし、綺麗に整えられたベッドには黒のズボンと灰色のパーカー、それに真っ白なバスタオルが整然と置かれていた。
柚木さんが用意してくれていたのだろうか。それとも、これを用意したのは織作織之助……?
ぐるりと室内を見回す。もちろん誰もいない。一人ぼっちの空間は実体の掴めないナニかが潜んでいそうで、少しだけ怖ろしい。
私は急いで着替えを済ませて、客室を後にした。
*
再び彼女とエントランスホールへ下りた時、ちょうど客間から出てきた七瀬さんと鉢合わせた。ふわりと珈琲の良い香り。その手にしたタンブラーからだ。
「あら、藤崎先生は今からお食事? アタシはもう終わってるから、先に部屋で休ませてもらうわ」
「おい」
ひらりと手を振る背中に声を掛けたのは探偵様だ。
「織作織之助の新作は手に入ったのか?」
「残念だけど途中までよ。でも、他に収穫があったから良しとするわ」
振り向かないままそう告げて、七瀬さんは足音高く階段を上がっていってしまった。
「あのノートパソコン、篠塚の部屋に置きっぱなしだったんだ。絶対、アイツ勝手に持っててるぜ。さっさと初期化でもしといてやればよかったなぁ」
彼女は苦々しく舌打ちをして、食堂の扉を開けた。
「お待ちしておりました。お食事の準備は出来ています。どうぞ、お召し上がりください」
テーブルを拭いていた柚木さんが顔を上げる。私は反射的に俯いた。
食堂の中央を陣取る長方形のテーブルには、左右四脚ずつ椅子が置かれ、調理場側の椅子に久子さんと光君が対面に座っていた。食事はすでに終わっているようだ。二人の前には珈琲の入ったカップだけが置かれている。久子さんの顔色は冴えない。目の前に座る光君を心配そうに窺っているが、対する光君は手にしたスマホに視線を落としたまま、心ここにあらずといった様子だ。
「光?」
私達が二人とは反対側の椅子に座ったタイミングで光君が立ち上がった。久子さんが戸惑うように名前を呼ぶが、その視線はやっぱりスマホに落とされたまま。
「……僕、決めたよ」
小さな、小さな呟き。
「光? 待ちなさい、光!?」
俯き加減で足早に食堂を出ていく後姿に久子さんが追いすがる。一方的な問い掛けに答える声はなく、二人の姿はそのままエントランスホールへ消えていった。
「光君、大丈夫でしょうか……?」
柚木さんの疑問にも、私は手元から視線を上げることが出来ない。
「えっと……そうしましたら、僕は刑事さんにお食事を持っていきます。どうぞ、お二人は先に食べていてください」
柚木さんはそう言い残して配膳室の方へ姿を消した。
「じゃあ、食べるか」
彼女が律儀に両手を合わせるのを機に、私もテーブルへ意識を向ける。
目の前には料理が盛り付けられたお皿が幾つも置かれている。パンに魚、野菜に果物。そして肉。もう何日も食事をしていない気がするくせに空腹は全く感じない。ランプの淡い光に照らし出されたソレらは蝋細工のようだ。手元に置かれたフォークを握る。その冷たさに背筋がぞくりとした。
これは遅い昼食なのだろうか。それとも早い夕食? もしかしたら、実は朝食なのかもしれない。
この屋敷は時間の流れがオカシイ。
天候の悪さもあって常に薄暗いせいもあるのだろう。停滞し、身体の奥底に淀む時間の残骸は意識までも鈍らせるようだ。
金属と陶器が触れ合う微かな音。
対面に座る彼女はとても上品に料理を口へ運んでいく。黒のスパッツに灰色のスエットというラフな格好の割に、その所作は高級レストランにでもいるかのような優雅さだ。ふいに薄灰色の双眸が瞬く。
「食べないのか、先生?」
「……いや、食べるよ」
不思議そうに首を傾げられたから、ちょっとだけ笑ってみせる。
ナイフで料理を切り分けてフォークで刺して口に運ぶ。その動作を繰り返して、ようやく半分ぐらいお皿が空になった。
「ああ、腹が一杯だ」
彼女が大きな欠伸をした。お皿は全て空っぽだ。食後にと用意されていたポットから珈琲をカップに注ぐ。一口飲んで、再び大きな欠伸。
「なんか、やけに眠いな……年かな?」
「かもね。私だって今日は疲れたよ」
「……ホント、散々な一日だったよなぁ」
彼女はさらに欠伸をすると、両腕を枕にテーブルの上に顔を埋めた。
「そんな眠いんだったら部屋で寝てきなよ。新の見張りは私が代わりにしてあげるから」
「だったら……先、生がベッドまで……連れてってくれよ……」
「イヤに決まってるだろ!」
「つれ、ない……なぁ……」
それっきり、彼女は静かになってしまった。銀灰色の緩く波打つ髪に埋もれた肩が、ゆっくりと上下するのをただ見つめる。
「――探偵さん、寝てしまわれたんですか?」
足音も気配もなく、エントランスホール側の扉から柚木さんが現れた。いや、もしかしたら気がつかなかっただけで、ずっとそこで私達を見ていたのかもしれない。
「きっと、昨日から色々あったのでお疲れなんでしょう」
柚木さんは彼女の隣に腰を下ろした。ポットを手に取り、空っぽのカップに珈琲を注ぐ。
「羽琉さんも、どうぞ」
目の前に珈琲が満たされたカップを差し出され、躊躇う。
常闇の双眸が私を凝視している。両手でカップを包み込んで持ち上げる。手のひらに感じる暖かさに瞬間眠気を誘われるが、鼻腔をくすぐる良い香りに少しだけ意識がはっきりとした。その香りを胸一杯に吸い込んでからソーサーにカップを戻す。そうして、今まで避けて続けた柚木さんの顔を真正面から見据える。
「どうして、あの時私にあんなことを言ったんだ?」
「あんなこと?」
「……私が一人ぼっちになっても、一生傍にいてくれるって」
「冗談に聞こえましたか? あれは紛れもない僕の本心です。――残念ながら、フられてしまいましたが」
柚木さんはなんだか楽し気だ。小さな笑い声が空気を震わせる。
「僕では駄目なんですか?」
「当たり前だろ。だって、君にはもう織作先生がいるじゃないか」
「もちろん。でも、だからこそです」
私を捉えて離さない常闇の双眸が細められる。
「たった一人ぼっちで生きていくには、このセカイは私達に優しくない――そうでしょう、藤崎羽琉先生?」
……私はどうしたって、私自身が生み出した五十音の羅列のセカイから逃れられないのだろうか。でも、確かに。それは今でも私にとっての真実だ。このセカイは私や柚木さんに優しくない。もしかしたら、彼や彼女にさえも優しくないのかもしれない。
「僕も一人ぼっちは寂しくて、怖いんです。織之助先生は羽琉さんをとても気に入っていました。だから、羽琉さんと一緒なら織之助先生も喜んでくれると思うんです」
漆黒のガラス玉は私を真っ直ぐに見つめてはいるが、そこに私は映っていない。熱に浮かされたような雰囲気に身体が震えた。
「柚木さんは、彼がどこにいるか知ってるんだね」
「はい。この屋敷の中にいます」
「今まで、ずっと君が匿っていたのか?」
「ええ、織之助先生は誰にも渡しません」
華奢な右手が胸の前でぎゅっと握りしめられる。瞼を閉ざして頭を垂れるその姿は祈りにも似た神聖さだ。やがてゆっくりと視線を上げたその貌は、やっぱりどこか夢見心地な微笑みで。
「ねぇ羽琉さん」
私に向かって真っ直ぐに差し出される、華奢な右手。
「このまま二人で逃げましょう」
「……どこに?」
「ここではない、違うセカイに」
それは一体どこなのだろう。私が望む、セカイなのだろうか。
何だか、良く出来たお芝居の筋書きでも演じている気分だった。全ては透明な幕一枚隔てた向こう側の出来事。現実味がひどく希薄だ。もしかしたらコレは微睡に沈む意識が見せる虚構なのかもしれない。緩やかに微笑む柚木さんの隣で、彼女はテーブルに突っ伏したまま規則正しい寝息を立てているばかりだ。差し伸べられた右手が静かに下ろされる。
「やっぱり、羽琉さんは僕より探偵さんのことが――」
雑音。
「違う!」
そうじゃない。
全然そういうわけじゃないのに。
「だったら、どうして僕では駄目なんですか?」
「だって柚木さんは女性だろ。織作織之助と一緒になることは出来ても、私と一緒になることは出来ないんだ!」
ああ、違う。そうでもない。言いたいことは全然そうじゃないのに。言葉が見つからない。想いが伝わらない。
「僕は男です。探偵さんとは違います」
「違くないよ!」
何だか苛々していた。何に対して? 誰に対して? わからない。ただ、ものすごく苛々して――ものすごく、泣きたかった。
「君は彼女と同じだ。どこからどう見ても『女性』そのものだ。だから私は……ッ!」
だから私はこんなにも苦しいんだ。
私も柚木さんと同じように断定出来ればいいのに。「小早川柚木」が自分自身を「男性」であると定義付けるように、「藤崎羽琉」という人間をこのセカイの枠組で明確に定義付けられればいいのに。そうすれば、ずっと、ずっと私を悩まし続ける疑問にも答えを見つけることが出来るはずなのに……。
きっと、私は柚木さんを妬んでいる。
私が求めてやまない答えを手にしている柚木さんが羨ましくて、憎くて堪らない。
「そうですね。そうかもしれません。――でも、やっぱり僕は男なんです」
決然とした声音と、
「僕は男として、男性である織作織之助を好きになったんです」
常闇の双眸が私のココロを絡めとる。
「羽琉さんはどうですか?」
自分の呼吸の音が、煩い。
桜色の唇が動かされるのを見つめることしか出来ない。
「羽琉さんにとって彼女はどのような存在ですか?」
「……わからないよ」
「嘘つき」
いつか聞いた言葉に喉元が引き攣る。淑女然とした表情がもどかしそうに顰められた。
「羽琉さんはズルいです」
「……ズルい?」
「だってそうでしょう? いつだって貴方は貴方自身の視点からしかこのセカイを語らない。貴方に向けられた視線も、言葉も、感情も。貴方はまるで最初からなかったかのように、知らない振りをすることが出来る」
「……意味が、わからないよ」
「本当にズルいです。結局は傷つきたくないだけじゃないですか。曖昧なままその場をやり過ごして、自分を偽り続けることになんの意味があるんですか?」
私を捉えて離さない常闇の双眸が鋭さを増す。
「羽琉さんは彼女のことが――」
雑音。
「羽琉さんは――として彼女のことが――」
雑音雑音。
「――は――て――が――!」
雑音雑音雑音。
「わからないって言ってるだろッ!」
両耳を塞いで大声を上げる。
言葉にしてしまったら、文字にしてしまったら。
定義付けられてしまう、確固たるものになってしまう。
ソレを強く望んでいるはずなのに、ソレが白日の下に晒されることを私はずっと恐れている。
だから聞かない振りをする、知らない振りをする、見えていない振りをする、覚えてない振りをする。――だって、そうしないと、私は……。
「時間切れです」
ふいに、バイブレーションの音が肌を震わせた。
緊迫した雰囲気を崩す無粋な振動が、二度三度と連続する。
「申し訳ありませんでした、羽琉さん。余計な事ばかり言ってしまって」
再び差し伸べられた右手が求める先は私ではない。目の前のカップが掴まれ、冷めきった珈琲が一気に飲み干される。
「早く、貴方自身の答えが見つかるといいですね」
柚木さんは小さく欠伸をすると、彼女と同じようにテーブルに突っ伏してしまった。
室内は不気味な静けさだった。
昨夜とは全く違う。雨音一つ、窓ガラスの軋み一つ聞こえない。
バイブレーションの音に思わず飛び上がる。
振動を頼りに視線を巡らせば、柚木さんのポケットからスマホが覗いていた。沈黙したそれに向かって手を伸ばし――止める。僅かに横を向き、腕枕で眠る白い細面はとても穏やかだ。
「……こっちこそゴメンね、柚木さん」
私は足音を忍ばせて、恭介がいるはずのリビングへと向かうために立ち上がった。




