第一話 柚木
それほど栄えていない地方の中心地から、さらに車で二時間以上かかる山奥に織作邸は存在した。左右に連続する大きなカーブを耐えきった先に赤煉瓦の屋敷を見る。重苦しい雲のせいで、昼間にも関わらず薄暗い山道は時間感覚が希薄だ。タクシーの窓ガラス越しに見上げたその屋敷は、外界との関わりを拒絶する織作織之助そのもののように思えた。
「こんな場所に住んでるなんて相当な偏屈野郎だね。ワシには理解できんよ」
タクシー運転手の言葉に否定も肯定も出来ない私は、ただ曖昧に笑うしかない。
駅前にただ一台停車していたタクシーに乗り込んだ時、年配の運転手はあからさまに不審そうな顔をした。その人は私が告げた行き先を知らず、住所を入力したカーナビ画面は森を示す緑一色だったから、世を儚んでひっそりと人生を終えようとしている人間だと思われたのかもしれない。それでもタクシーが発進し、道中のなぐさみに言葉を交わすうち、互いが推理小説好きである事がわかると話は大いに盛り上がった。
「ありゃあ気違いだよ。紙の上だから許されてるようなもんだ。推理作家になれなけりゃ、今頃はきっと猟奇殺人犯で刑務所暮らしだと思うね」
運転手は彼をそう評した。なかなか率直な意見をいうご老人だ。私は彼の作品を全て手元に集め、それらを何度も読破していると告げたら、今度はどんな表情を浮かべるのだろう。
私が知っている「織作織之助」という推理作家について、もう少しだけ説明しておこう。
彼の作品は陰鬱で凄惨な事件を主題とした話が多い。
事件を解決する人間の視点より、罪を犯す人間の心理、犯行の過程に重きが置かれており、作中では事件に関連した残忍な描写も多々ある。公の場に姿を現さず、その存在が謎に包まれているため、新作が出版される度に彼の人間性については様々な憶測がなされてきた。しかし、ここ数年は『名探偵來栖レイラ』シリーズのような軽い文体の作品が立て続けに出版されており、従来のファンからは戸惑いの声が上がっているものの、若者を中心に売り上げを伸ばしているようだ。
「イヤな空だね」
屋敷の玄関前にタクシーをつけた運転手は、私が運賃を支払うのに手間取る間、フロントガラス越しの空をじっと見上げていた。
「今夜は雷雨だってさ。ここまでは一本道だから、土砂崩れでもしたらしばらくは帰れないよ。去年の今頃も大雨続きで別の山が崩れて、復旧までにだいぶかかったらしいから」
まぁ彼にとっては心躍る状況でしかないんだろうけど、と。
揶揄うような呆れるような口調で笑う運転手にお礼を告げてタクシーを降りる。遠ざかるエンジン音を背に改めて屋敷を見上げたが、この位置からでは首が痛くなるばかりで全体像が掴めない。ずり落ちてきた黒縁眼鏡をかけ直し、そのまま数歩後ずさる。
洋風造りの屋敷はずいぶんと大きかった。三階建てで奥行きもそれなりにありそうだ。ただ、手入れはあまり行き届いていない。元は綺麗な赤煉瓦だったと思われる外壁は雨風のせいでくすみ、ひび割れている。屋敷前の地面はならされているが、周囲には仄暗い木立が迫り、その境界線間際に停められた二台の車が今にも飲み込まれてしまいそうだ。
「――藤崎羽琉さん、ですか?」
とても涼やかな声に名前を呼ばれた。
「本日は織之助先生のため、こんな山奥にまでお越しいただきありがとうございます」
視界を邪魔する前髪を払って視線を向けた先、地面より数段高くなった玄関ポーチに華奢な人影が佇んでいた。
「こんにちは……えっと……」
「小早川柚木です。直接お会いするのは初めてですね、羽琉さん」
そう言って丁寧に腰を折る人物を、多少の驚きを持って見つめ返す。
確か、年齢は二十代後半だっただろうか。白い襟付きのシャツに黒いズボンという飾り気のない格好だ。大きい漆黒の双眸は満天の星空のような煌めきで、薄紅の頬を縁取るショートボブは闇を凝縮したかのような漆黒。私の厚ぼったい癖毛とは正反対に、時折強さを増す湿気交じりの風が柔らかなその髪を乱していく。私より小柄な体躯はしかし、その立ち振る舞いの優雅さから人目を惹き付ける存在感があった。それはきっと、この人が元舞台役者で、常に人目を意識した生活を送っていたからなのだろう。
そう、私はこの人を知っている。
直接の面識はなく、この人自身と言葉を交わしたことはない。ただ、彼とのやり取りの中で何度もその存在を読んだだけだ。だからこそ、今まで想像していた姿と目の前に佇む淑女然とした実存の差異に戸惑ってしまった。だって、彼は手紙の中で「小早川柚木」のことを「男性」として語っていたはずなのだから……。
「以前から、織之助先生は羽琉さんにとても会いたがっていました。もちろん僕もです。なので、今日はこうして直接お話する事が出来て本当に嬉しいです」
そう言って、穏やかに微笑む白い細面から目が離せない。
「えっと、小早川さんは……」
「柚木で構いません」
「え、と……?」
「僕は羽琉さんより年下です。敬語も使っていただかなくて構いませんよ」
「えぇっとぉ……」
唐突な提案に戸惑うも、目の前の人物は柔らかな笑みを浮かべたまま私の言葉を待っている。その真っ白な肌、薄紅の唇、煌く漆黒の双眸――なぜだろう。なんだか少し、胸が痛い。
「じゃ、じゃあ……柚木さんは今、織作先生と二人きりでこの屋敷に住んでるんだよね?」
「ええ。あの公演のすぐ後から一緒に住み始めたので、もう三年ほど経ちます」
――あの公演。
私はその単語だけ聞こえない振りをする。
「え、と……こんな山奥に住んでると不便じゃないかい? ほら、買い物も麓の街まで行かないといけないんだろ?」
「いいえ、不便はありません。知り合いの業者さんが一週間に一度、食べ物や生活用品を屋敷まで届けてくれます。こんな山奥ですがWI-FIもつながるんですよ? よほどの事がない限り、屋敷から出る必要はありません」
「そうなんだ……それはスゴいね」
違う。
聞きたいのはもっと別のことなのに、なんて切り出せばいいのかわからない。
「他にも何か、僕に聞きたい事がありますか?」
「……えぇっと」
心の内を見透かされたような問い掛けだった。私は逡巡し――結局、首を横に振る。
君は一体どちらなのか?
そんなこと、聞けるはずがない。
この人に対する私の疑問は、すなわち私に対するこの人の疑問だ。――ずっと昔から探しているのに……その疑問に対する答えをどうしても見つけられない。私は未だどちらつかずの中途半端な存在だ。
「ありがとう。もう大丈夫だ」
「……そうですか」
柚木さんの視線を遮るために指で前髪を伸ばして、黒縁眼鏡をさらに押し込む。真っ直ぐな双眸が翳った気がしたのは一瞬。
「ああ、そういえば。御友人のお二人はすでに到着されていますよ」
「友人?」
「ええ、刑事さんと探偵さんのお二人ですが……御友人ではありませんでしたか?」
あまりにも違う事柄に気を奪われていた。言葉の意味を掴み損ねた私はとても怪訝な表情をしてしまったのだろう。申し訳なさそうな柚木さんに対して、逆にこちらが申し訳なさを覚えて狼狽えてしまう。
「え、あーゴメン。気にしないで。刑事のほうとは昔からの友人なんだけど、探偵とは全然友人じゃないなぁなんて思っただけだから」
「では、羽琉さんと探偵さんはどういった御関係なんですか?」
「えぇ?!」
思わぬ質問だった。とっさに言葉が出てこない。真摯な光を宿した真っ黒な瞳が私をじっと見つめている。
「もしかして、僕と織之助先生のような関係ですか?」
「……君達の関係って?」
「恋人です」
まさか、と。
笑い飛ばそうとした口元が引きつる。
齢七十を越えた彼と私より年下の柚木さんがそうした関係であることに驚きはない。やり取りしていた手紙の中で彼自身もそう語っていた。ただ、男性である織作織之助を「恋人」だと明言する柚木さんは……やはりどちらなのだろう、と。そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。
そして私は……私にとって「彼女」とは――。
急速に思考を圧迫していく自問自答に強く頭を振って抵抗する。思いきり腹に力を込めて言葉を押し出す。
「私と彼女は全然そんなんじゃないから! ただの知り合いというか存在だけは知ってるというか赤の他人に毛が生えた程度の関係というか……とにかく、友人でも君達のような関係でもない事だけは確かだから!」
「そうなんですか? 私はてっきり羽琉さんは探偵さんのことが――」
雑音。
「違いますか? きっと羽琉さんは僕と同じです。だから、織之助先生も羽琉さんのことが――」
雑音雑音。
「ごめん、聞こえなかった」
「……え?」
「あ、えっと……最近ちょっと耳が遠くなってきちゃって……年には勝てないね、あはは」
何を必死に弁解しているんだろう……?
今の状況を俯瞰で見つめる自分が冷静なツッコミを入れるところに、鈴音めいた軽やかな笑い声が聞こえた。
「わかりました。探偵さんと羽琉さんは友人でも恋人でもない、と。覚えておきます」
口元に手を当てて笑う柚木さんはやけに楽しそうだ。なんだか含みのある声音が気にはなったけれど、言葉通りの意味に理解してもらえたと思っておこう。
「では、お屋敷にご案内します。他の招待客の方々も到着されていますので、皆様に羽琉さんの事を紹介いたしますね」
ふわりと柚木さんが微笑んだ。私は大人しく口をつぐんで、華奢な後姿に続く。
少し浮つくようなこの気持ちはきっと、これからますます悪くなりそうな天候に対する不謹慎な高揚感だ。別にそれ以上でもそれ以下でも、ない。
玄関扉が閉まる直前、背後で大きく揺れた木々のざわめきに雨粒の音を聞いた気がした。




