第五話 存在
三人から少し遅れて辿りついたリビングは、華やかな明るさを取り戻していた。しかし、シャンデリアの煌めきに高揚感を覚えることはもうない。扉を入ってすぐの絨毯がお皿の破片と食物の残骸で汚れていた。しゃがみこんで素手で拾い始める柚木さんを恭介が慌てて止める。篠塚は二人にちらりとも視線を落とさず、扉近くの壁に腕を組んで寄りかかった。
「ああ、やっと戻ってきた!」
元々篠塚が座っていたスツールに腰掛けていた探偵様が真っ先に声を上げる。綺麗に結い上げられていた髪は下ろされ、なぜかその表情はとても疲れ切っていた。
「なんかあったのか?」
「クソババアどもがうるさかった!」
彼女は暖炉前のソファーに腰かける久子さんと七瀬さんを顎で指し示す。久子さんのすぐ隣には光君の姿があった。無事だったことに安心する反面、こんな時でもスマホをいじり続ける姿に少し呆れてしまう。先ほどは圏外表示だったが、WI-FIはもう復旧したのだろうか。
「織作織之助を探しに行くってヤツと、織作光を追いかけるってヤツがきゃんきゃん吠えあって宥めるのが大変だったんだ。後はお前がどうにかしろ」
「おう、てめぇがここに残ってくれて助かった。この後も頼りにしてるぜ、探偵様」
「……頭でも打ったか?」
「珍しく褒めてやったんだ。喜べ」
心底気味が悪そうな視線を向けられ、恭介は小さく肩をすくめる。そのまま奥のソファーに歩いていく彼女を止めはせず、その場で室内にいる全員を見回した。
「織作織之助と織作新は書斎にはいなかった。ただ、小早川さんと篠塚が、非常用発電機を確認しに屋敷の外へ出た時、織作織之助と思われる人物に襲われてる。さっきの発言からしても、アイツがアンタらに危害を加えようとしていることは明らかだ。まだ拳銃を持ってる可能性も高い。いつどこから現れるのかわからねぇ以上、一人でいることは危険だ。今晩は全員このリビングで過ごしてもらいたい」
「ねぇ刑事さん。新は死んだの?」
全く怖がる様子もなく七瀬さんが尋ねる。
「わからねぇ。ただ、書斎には血痕や争った跡は見つからなかった」
「そう。――それは、残念」
「瞳さん!? なんて不謹慎なことを言うの!」
久子さんが七瀬さんに噛みつく。
「夫が息子を殺そうとしたのよ? 私や光の気持ちも考えて発言してちょうだい!」
「だったら、なおさら残念じゃない? 自分たちで新を殺さなきゃいけなくなる前に、早く織之助が殺しくれる様に祈ってないと――ねぇ、光?」
七瀬さんの言葉に、ぴくりと光君の身体が震えた。
「久子おば様、織之助がアタシ達全員に宛てた招待状のコトはお忘れ? 貴方たち親子の関係はこの場にいる全員にバレバレなのよ。――貴方にも光にも、新や織之助を殺したい動機はある。もちろん私にも、貴方達や織之助に死んでほしい動機がある」
「なんてことを……ッ!」
久子さんが勢いよくソファーから立ち上がった。
「こんな女と同じ空間で一晩過ごすだなんて耐えられないわ! 私達は自分の部屋に戻らせてもらいます! 行くわよ、光!」
「待ってください」
久子さんの行く手に恭介が立ち塞がる。しかし、私よりも小柄な久子さんは全く怯むことなく、新にも似た巨漢を怯むことなく睨み上げる。
「貴方の指図に従っていれば、殺されないなんて保証はないのではなくて? 現に織之助さんと新は見つからず、洋平と柚木も襲われたのでしょう? 貴方一人が躍起になったところで無駄でしてよ。自分達の身は自分達で守りますわ!」
その表情には鬼気迫るものがあった。リビングから去っていく二人を制止することも振り返ることもせず、恭介は小さくため息をつく。
「それじゃあ、アタシも部屋に戻るわ」
二人の姿が消えてから七瀬さんも立ち上がった。
「ああ、アタシは久子おば様と違って刑事さんの能力を疑ってるわけじゃないのよ? ただ、織之助も言ってたでしょう?――結局は殺すか、殺されるかよ」
七瀬さんは真っ赤な唇をにっと持ち上げてみせると、甲高い足音を残してリビングを去っていった。
「俺も部屋に戻るよ。じゃあまた後でねぇ、柚木ぃ」
続けて篠塚も、これまたあっさりとリビングから出ていった。
「……ねぇ恭介、大丈夫?」
誰もいなくなったソファーを無言で見つめるばかりの後ろ姿に、そっと声を掛ける。しかし振り向いたその表情は、いつも通りの飄々としたものだった。
「ああ、大丈夫だ。お前に心配されるなんて俺もまだまだだな」
「……心配しがいのないヤツだなぁ、君は」
「いつだって心配すんのは俺の役目だ」
ふふんっと笑って、恭介は隣で佇む柚木さんへ視線を落とす。
「待たせちまってわりぃ。早く着替えてこないとカゼ引いちまうよな」
「いえ、大丈夫です。あと、シャワーを浴びてもいいですか?」
「ああ、構わないぜ」
「あ、そしたら私が柚木さんと一緒についてこうか?」
「なんでだよ?」
「僕はどちらでも構いませんが……」
自分の中で気をきかせたはずの提案は、しかし二人同時にきょとんと首を傾げられて戸惑ってしまう。――どうやら、私はどうしても柚木さんを「女性」として見てしまっている。結局、私も新や篠塚と同じだ。外見から得られる情報を最優先に、その人を定義づけてしまっている。どうしても先入観から抜け出すことが出来ない。
二人から向けられる視線に気まずさと後ろめたさを感じて、大袈裟に首を横に振る。
「ごめん、今のはなんでもない!」
「まぁ気持ちはありがてぇが、お前が一緒に行ったところでなんかあっても対処できないだろ? 小早川さんと共倒れだ。それより、お前はアイツをどうにかしてくれ」
「どうにかって……」
恭介が視線を向けた先には、奥の壁際のソファーで横になる彼女の姿。寝てしまったのか、その瞼は緩やかに閉ざされている。
「方法は任せる。織作織之助と織作新の居場所を突き止めさせろ」
「ムチャ言わないでくれ」
「お前なら出来るって。頼りにしてるぜ、藤崎先生」
恭介と柚木さんがリビングから出ていった。今まで気にならなかった雨音が妙に耳につく。――今、この広い空間に私は彼女と二人きりだ。
足音を殺してソファーへ近づく。
窮屈そうに身を丸めて横たわるその姿を、見下ろす。
屋敷に到着した時よりもはるかに激しい雨音が互いの隙間を埋めていく。その合間を縫って、本当に微かな寝息。ゆっくりと上下する身体に、これが作りモノではなく生命が宿っている人間であることを再認識する。レースの隙間から覗く胸元の白さが、スカートの裾から覗くふくらはぎの白さが――やけに眩しい。
背後に視線を向ける。
そこには空っぽのソファーや椅子があるばかりで誰もいない。床にぺたりと腰を下ろせば、端正な相貌と視線の高さが同じになる。
長い睫毛、すっと通った鼻梁、陶器のような滑らかな肌。少しだけ開いた形の良いの唇から小さな吐息が漏れる。私とは全てが違う。別に羨ましいわけでも、こうなりたいも思わない。ただ、なんだか少し泣きたい。
色素に乏しい滑らかな頬にかかる髪を、ゆっくりと払ってやる。わずかに触れ合う素肌。その体温を手放すのが惜しくて、もう少しだけと頬を撫でたのがいけなかった。
「羽琉」
閉ざされていた瞼が、ゆっくりと開かれた。
至極至近距離でしなやかな手のひらが、私の手の甲に重ねられた。
「……やっとお目覚めかい? 今こそ探偵様の出番だ」
「人使いが荒いのは先生も同じか。まずはこの状況に驚いてくれよ」
「ヤだ。寝たふりしてるのなんて最初からわかってるし」
「つまらないなぁ」
低い笑い声が鼓膜を震わす。
「一体、私に何をしろっていうんだ?」
「彼と新の居場所を教えてくれ」
「ヤだ」
ぎしり、と。
彼女が重心を手前に移したせいでソファーが軋む。とても端正な相貌がさらに間近に迫る。鼻をくすぐる甘ったるい香り。荒れた空模様と同じ双眸には揶揄の光が覗く。
「神居の話だと織作織之助は森の中へ逃げたんだろう? あの映像と書斎の状況を見る限り、新の生死は不明だ。ただ、未だに私達の前に姿を現さないという事は自力で動ける状況にはないか、自らの意思で隠れているかだ。今の段階ではそれ以上は何とも言えない」
「……織作先生は森の中になんて、逃げてないよ」
自分でも思いがけず強い口調になった。彼女は疑問を示してゆっくりと瞬く。
「あれは篠塚が嘘をついてるんだ。きっと二人きりになったあの時、篠塚が柚木さんを襲ったんだ。思いがけず悲鳴を上げられて柚木さんが逃げてしまったから、咄嗟に織作先生に襲われたと私達に嘘をついたんだよ」
「だったらなぜ、小早川柚木も篠塚に同調する?」
「それは……わからない。もしかしたら、柚木さんは篠塚に脅されてるのかも……」
「ずいぶんと肩入れするんだな、アイツに」
「アイツ?」
「小早川柚木」
覚えのあるやり取りに、一瞬言葉につまる。
「肩入れしてるわけじゃない。ただ、私は篠塚が今回の事件に関わってるんじゃないかと思っただけだ」
「証拠はないだろう? もしかしたら、事件に関わっているのは小早川柚木のほうかもしれない」
「それこそ証拠なんてない!」
「さぁどうだろうな。この屋敷では誰が、誰を殺そうとしてもおかしくない。織作織之助だって加害者にも被害者にもなりうるんだ。そうだろう、藤崎先生?」
ああ、その表情はキライだ。
何もかも知ったように、形の良い唇の端を持ち上げて見せるお得意の表情。――すごく、すごくムカつく。
「なんにしろ、個人的な感情は真実を見る目を曇らせるだけだ。気をつけた方がいい」
「……君に、言われたくはないよ」
「私が、誰に、個人的な感情を持ってるって?」
手の甲に添えられた彼女の手によって、指先が自分の意思とは関係なく滑らかな頬を撫でる。絡めとられた視線の先で真っ赤な唇が動かされる。
「なぁ、先生にとって織作織之助はどういう存在なんだ? 織作織之助の気持ちが理解出来るからこそ、先生はこの屋敷に呼ばれたんだろう?」
「……意味わかんないこと、言わないで」
「お前は最初からわかってるんじゃないのか。自分がこの屋敷に呼ばれた理由も、これから果たすべき役割も」
意味ありげな言葉に続く沈黙は、ただ探偵を自称する人間の自己満足に過ぎない。私の言っていることがわかるか? お前たち凡人にはわからないだろう、という優越感を得るためだけの数秒のなんと無駄なことか。
「私は何も知らない。君に話すことなんて何もない」
意外にもあっさりと。
本当にあっさりと、軽く手を振り払っただけで自分以外の体温が離れていく。それでも互いに手を伸ばせば触れ合える距離で、彼女は驚いた様子もなく僅か目を細めて見せただけで。
「痛くもない腹を探って、人を不快にさせることが探偵様の役割なのか? 自己顕示欲や承認欲求を満たしたいがために他人の不幸を利用するのはやめてくれ。私は君のオモチャになんかなってやらないよ。君の存在意義なんて絶対認めてやるもんか!」
「気に障ったなら謝るよ。悪かった」
乱れた髪をかき上げて、彼女は緩慢にソファーから身を起こす。
感情のまま声を荒げたところで、彼女がなんとも思わないのなんてわかりきっていて、それがさらに私を苛立たせる。その柔らかな頬を思いっきり引っ叩けば、少しは驚いたような表情でも浮かべてくれるのだろうか……なんて。出来もしないことを本気で思う。
「なぁ先生」
彼女が立ち上がる。
私を見下ろすその表情はとても穏やかだ。
「実を言うとさ、私はどうでもいいんだよ。この屋敷で誰が殺されようが、その犯人が誰であろうが」
「……探偵様ともあろう人間が随分と酷い物言いだね」
「むしろ私とお前以外全員死ねばいいとは思わないか。だってそうすれば、私達はこの屋敷で誰にも邪魔されず永遠に二人っきりでいられるんだ。――まるで織作織之助と小早川柚木みたいにな」
「意味が、わからないよ」
「なぁ羽琉。私はお前のことが――」
突然、耳鳴りのような音がした。
もしかしたらそれは雷鳴だったのかもしれない。しかし、彼女はその音に気づかない。
「なぁ先生ってば」
「……なに? 聞こえないよ」
「そう、か」
溜息。
そして、小さな笑い声。
「早く、お前自身の答えが見つかるといいな」
私の言葉では彼女の心に引っ掻き傷すらつけることができないのに、どうして彼女の言動はこうも容易く私の心をざわつかせるんだろう。
「おやすみ、藤崎先生」
彼女の気配が遠ざかっていき、随分と長い間そのまま座り込んでいた。なんだかとてつもなく変な感覚だった。自分の意識と身体が遠く離れていくような、そんな感覚。放心状態で床に座り込む私を俯瞰で見つめるもう一人の私がいる。
「羽琉、さん……?」
とても涼やかな声が私の名前を呼んだ。
石鹸の清潔な香りがふわりと鼻孔をくすぐる。ゆっくりと視線を上げれば、頭にバスタオルを巻いた白い細面が見下ろしていた。
「大丈夫ですか、羽琉さん?」
「……柚木、さん?」
前屈みで私を覗き込んでくるその首元に意識が奪われる。正面からでは見えにくい耳の後ろの首筋に何かが見える。――あれは赤い、痣?
「柚木さん!」
思わず立ち上がって、その華奢な肩を揺さぶる。
「外で織作先生に襲われたなんて嘘だろう? 本当に襲ってきたのは篠塚のほうなんじゃないのか? 何で柚木さんは篠塚を庇うんだ! もしかして、君は彼より篠塚のことが――」
「羽琉さん!」
思いがけない強さで名前を呼ばれて、口を閉ざす。一瞬の沈黙。こちらを見据える漆黒の双眸がふっと和らいだ。
「僕は男として、男である織作織之助を愛しています」
それは、いつか聞いた言葉。
「羽琉さんにとって彼はどういう存在ですか?」
「……なんでそんなこと、急に?」
「羽琉さんにとって彼女はどういう存在ですか?」
「だから、わからないんだってば……」
「彼と彼女、最後に羽琉さんが選ぶのはどちらですか?」
「わからないって言ってるだろ!」
「嘘つき」
静かな声音に身体が震えた。
「――ねぇ、柚木さん」
喘ぐように言葉を押し出す。
なんだかものすごく、泣きたかった。
私を見つめるその表情はとても、とても穏やかだ。――まるで、先ほどの彼女と同じ様に。
「織作先生が人を殺したかもしれないっていうのに、なんで君はそんなに平然としていられるんだ?」
この人なら知っているだろうか。
ずっと、ずっと私が求めてやまない答えを。
「柚木さんにとって、織作織之助は一体どういう存在なんだい?」
不意を突かれたように軽く目を見開いた柚木さんは、しかしすぐに穏やかな笑みを取り戻す。
「あの人は、僕のセカイの全てです」
その言葉が。
その表情やその言葉やその眼差しが、今でも眩いストロボの如く脳裏に焼きついて離れない。
「僕も今夜は自分の部屋で寝ようと思います」
伝えるべき言葉を探しているうちに、柚木さんはその場で踵を返してしまう。
「おやすみなさい、羽琉さん」
こうして。
私は広い、広いこの空間に一人ぼっちになってしまった。セカイから取り残されたかのような大袈裟な空虚感にそのまま床に座り込み、両手で顔を覆う。
誰かが戻って来るまで待っていようと思った。しかし、誰もがもう二度と戻ってくることなんてないような気もしていた。そのまま身を横たえる。膝を抱え込んで瞼を閉じれば、床に押し当てた耳から伝わる雨音が心地よく眠りへといざなう。
緩やかに堕ちていく意識の中で私を呼ぶ優しい声が聞こえたのは――きっと、気のせいだったのだろう。
第二章 幕開け(完)




