第四話 消失(2)
「待て!」
状況把握に思考を奪われた隙をついて、光君が一目散に階段を駆け下りていく。その後を追って、私達もくぐもった悲鳴が響いた階下へと急ぐ。
「どっから聞こえた!?」
恭介はエントランスホールで立ち止まるけど、光君は階段脇の廊下をリビングへと脇目も振らず駆けていってしまった。私は迷わず玄関へ足を向ける。書斎前ですれ違った時に射抜かれた、漆黒の双眸が脳裏に蘇る。
「柚木さん!」
扉を開けるとすぐ、玄関ポーチに座り込む小柄な姿があった。全身びしょ濡れだ。両手を胸の前で握りしめて小さく震えている。
「大丈夫!? 何があったんだい!?」
恭介が脱いだジャケットを受け取って、震える華奢な肩にかけてあげる。同じように隣にしゃがみ込んで何度か声を掛けるけれど、柚木さん俯いたまま小さく首を横に振るばかりだ。
「おい、篠塚! いったい何があった!?」
頭上で恭介の怒鳴り声がした。視線を上げれば、屋敷の右手側から傘をさして悠々と歩いてくる篠塚の姿が見えた。
「織作先生に襲われたんだ」
玄関ポーチに辿りついた篠塚は驚くことを口にした。湿った髪をかき上げ、服に染み込んだ雨粒を払うような動作をする。しかし、柚木さんと比べてその身体はそれほど濡れてはいない。
「本当に突然だったよ。きっと、織作先生は俺たちが非常用発電機の電源を入れて安心した一瞬を狙ってたんだと思う。でも、俺がこのカサであのデブった腹を一突きしたら、あっさり森の中に逃げてったよ」
篠塚は手にした傘をフェイシングの様に突き出して、にこっと笑う。
「まぁ柚木の叫び声に驚いたってのもあるかもね。ホント、スゴく大きな叫び声で俺のほうが驚いちゃったよ。しかもカサまで放り投げて、俺を置いて一目散に逃げ出しちゃうんだもん。あれはちょっとショックだったなぁ」
柚木さんを見下ろす薄茶色の双眸が細められる。背中をさすっていた手に一瞬の震えを感じる。思わず篠塚を睨み上げれば、その軽薄そうな口元がわずかに歪んだ気がした。
「それ、本当に織作織之助だったのか!?」
しかし私が非難の声を上げるよりも早く、恭介が急いたように尋ねる。篠塚は鷹揚に頷いた。
「たぶんね。真っ黒な雨合羽みたいなのを着て、フードをしっかり被ってたけど顔は少し見えたんだ。あの体型と肉まんじゅうみたいな顔にはそうそうお目にかかれないよ」
「新は一緒じゃなかったのか?」
「うん、織作先生一人だけだったよ」
「逃げてったのはあっちのほうか?」
「建物の右側をまわったトコ。案内しようか?」
「……そう、だな」
きっと恭介は迷っている。
この雨の中、見知らぬ森に足を踏み入れる事がどれだけ危険かわかっていながらも、殺人を犯したかもしれない彼をこのまま放っておけないという警察としての使命感で揺れている。
「ダメです!」
恭介を制止したのは、柚木さんだった。
「森の中には織之助先生が仕掛けたワナが多くあります。あの人は仕掛けた場所が分かってるので引っかかるようなことはありませんが、知らない人は最悪死ぬ事もあります。絶対、森には入らないでください」
「今回のために織作先生が仕掛けたのか?」
「いいえ。元々は野生動物対策です。でも、最近は私有地だと知りながら勝手に山に入ってくる方が増えているので、その制裁だと仰っていました」
「……そっか」
柚木さんの言葉に頷きながらも、恭介はまだ険しい顔で森の方角を見ている。こういう時の恭介は何をしでかすかわからない。自身の危険をかえりみず、他人のために行動する気持ちはスゴいとは思うけど、奥さんも子供もいるんだから自分の事もちゃんと大事にしてほしい。
「恭介」
気持ちが伝わることを願って名前を呼ぶ。私を見下ろすその表情がふっと緩んだ。
「……ああ、わかった。全員で一旦リビングに戻るぞ。お前は小早川さんを頼む」
恭介はもう一度だけ森を見てから、自分自身を納得させるように小さく頷く。そして篠塚を促すと、屋敷内に足を向けた。
「柚木さん、立てる?」
「……大丈夫です」
柚木さんは私の支えをやんわりと制し、肩にかけたジャケットを押さえながら立ち上がる。どこか覚束ない足取りで恭介が押さえる玄関扉に向かう小柄な後ろ姿。それを見つめることしか出来ない自分が、情けない。
「ほら、羽琉ちゃんも早くおいでよォ。そんなところに突っ立ってると君も織作先生に襲われちゃうよ?」
恭介の背後から、篠塚がにやにやと手招きをする。強く睨みつけてやれば、おどけたように首をすくめて室内に顔を引っ込めた。
「……早く戻ろう」
何か言いたげな恭介には気がつかない振りで、私もそのまま玄関を通り抜けた。




