第三話 消失(1)
「もう一回だッ! せぇのっ!!」
エントランスホールまで辿り着いた時、階上で恭介の大声が響いた。階段を駆け上がっていく光君の背中が瞬く間に見えなくなる。
「羽琉さん、大丈夫ですか!?」
懐中電灯を手に追いかけてきた柚木さんと共に二階へ向かう。最後の一段を上りきった瞬間、雷鳴よりも大きな音と共に大きな人影が倒れ込むように部屋の中へ消えた。
「恭介!?」
おそらく体当たりをして書斎の扉を壊したのだろう。タブレットのライトを点灯させた篠塚が部屋の中へと入っていく。続けて光君、柚木さん――そして、私。
「うそ……」
誰かの呆然とした呟きに、全員が息を飲んだ。
複数の光源に照ら出された書斎内には誰の姿も見当たらない。大きな机と椅子だけが、舞台上でスポットライトを浴びる小道具の様に空々しく浮かび上がっている。
「わりぃ、ちょっと貸してくれ」
「うわッ俺のはダメ。光!」
「……うん」
恭介が光君のスマホで室内を照らし出す。
机と椅子の背後には、カーテンが引かれた窓と窓枠の高さまでの低い棚、その上には植木鉢や幾何学的な彫刻が置かれている。左右の壁には見覚えのある本棚が天井まで届く。隠れる場所なんてどこにもない。
最後に廊下の外を確認して、恭介は小さく息をついた。
「おい、羽琉」
「な、何だい!?」
急に名前を呼ばれて、返す声が裏返る。
「俺が部屋ん中を調べてる間、お前は廊下で見張っててくれ」
「見張るって……?」
「もしかしたら、さっきの映像は書斎からじゃねぇ可能性もあんだろ。別の部屋から織作織之助が出てくるかもしれねぇ。もし姿を見たら大声で俺を呼べ。絶対一人では追いかけんな。――おい、篠塚も頼む」
「いいよぉ」
「織作光と小早川さんは、そのまま室内を照らしててくれ」
「……うん」
「わかりました」
恭介は光君にスマホを返し、ポケットから取り出した自分のスマホライトを点灯させた。勢いよくカーテンが開けられると、室内にわだかまる暗闇がほんの少しだけ薄らぐ。
「羽琉、頼むぞ」
「……わかったよ」
もう一度促され、渋々部屋を出た。
先に廊下へ出ていた篠塚が右隣にある両開きの扉前で周囲を見回している。私の存在に気がついた篠塚がタブレットのライトを顔に向けてくる。眩しい。
「ここ、織作先生の寝室だよ。中に二人がいるかもしれないね」
反射的に閉ざした瞼を開けた時、眩いライトとともに篠塚の姿は消えていた。その姿を追うかどうか考え――結局、止める。寝室は気になったし、もしかしたら彼に襲われる可能性も考えて一緒に行動したほうがいいんじゃないかとも思った。しかし、それ以上にあんなヤツと二人きりで閉鎖的な空間に入る嫌悪感の方が勝った。
手探りでポケットからスマホを取り出し、スリープ状態から立ち上げる。
いつの間にか左上の表示は圏外になっていた。時刻の方は普段寝る時間にもなっていない。……この屋敷の時間の流れは、何だかおかしい。
ライトを点灯させ、周囲を見回す。
篠塚が入っていった寝室とは反対側、書斎を出て左側の突き当りにある部屋が気になった。ドアノブに手をかけ、ゆっくりと回しながら扉を押す。どうやら鍵はかかっていないようだ。室内には足を踏み入れず、隙間から顔だけを覗かせる。白色の光が照らし出すそこはベッドと本棚、机と椅子が置かれているだけの簡素な空間だった。外は大雨で蒸し暑いというのに、この部屋は湿気もなくひんやりしている気がする。ライトの陰影のせいか、部屋の隅で人影が蠢いた気がして身体が震えた。
もしかしたら、あのベッドの下に彼が息を潜めているかもしれない。
もしかしたら、あの机に置かれた大きめの木箱の中に細かく切断された織作新が詰め込まれているかもしれない……。
そう思い始めたらどんどん怖くなってきた。
私は音を立てないようにゆっくりと、しかし素早くその部屋の扉を閉めた。
「やっぱ、なんもねぇな」
そのタイミングで書斎から恭介が姿を現した。思わず小さな叫び声を上げてしまい、慌てて口を押える。幸いにも相手には気づかれなかったようだ。
「窓にはカギがかかってるし、室内で隠れられるトコは机の下ぐれぇだ。明らかな血痕や争った形跡もねぇ。――お前らの方は?」
「こっちも特には……」
「というか、暗すぎてよくわからないよ。もしさっきの映像が書斎からじゃないとしたら、どこに隠れててもおかしくないよねぇ」
彼の寝室から出てきた篠塚が答える。
「柚木の部屋には誰かいた?」
「……え?」
「そこの部屋、見たんでしょ?」
そこ、と。
篠塚がライトで照らし出したのは、たった今確認した部屋の扉だった。私は無言で首を横に振る。
「そっかぁ、じゃあ俺達の客室のほうに隠れてるのかな?」
「……あの、刑事さん」
薄闇の中から静かに問い掛けてくる声。
「他の場所も調べるのであれば、やはり明るいほうがいいですよね?」
「そりゃあ、もちろん明るいほうがありがてぇが……今も暗いってコトはブレーカー上げてもダメだったんだろ? やっぱ雷が落ちて停電しちまったのかねぇ」
「本来は停電しても非常用発電が作動するはずなんです。もしかしたら本体の電源が切られてしまっているのかも……。僕、外にある本体を見てきます!」
「ちょ、だから一人で行くなって!」
制止する恭介の横をすり抜けて走り出す小柄な姿。私の前を通りすぎる一瞬。その真っ黒な眼に射抜かれた、気がした。――一緒について来てください、と。
「じゃ、じゃあ私も――」
「俺が一緒についてくよ! 二人はここで調査を続けてて!」
足を踏み出すよりも早く、篠塚が柚木さんを追って身軽に階段を駆け下りていってしまう。
「ちょ、まって……ッ」
「お前はいくな! 俺とここで待機だ」
腕を強く引かれて、階段に足を踏み出した身体がつんのめる。
「離せって! アイツと柚木さんを二人っきりにするべきじゃないだろ!?」
「落ち着けよ。別の部屋から逃げるにしても、この雨だ。あの身体じゃ窓から外に出るのは一苦労だろうよ。まだ、織作織之助は屋敷の中に隠れてんだと思うんだ。とにかく今は、単独行動こそ避けるべきだ」
「そういうコトじゃなくて!」
この鈍感なお人好しはあの二人が外で彼に襲われないか心配しているみたいだけど、私は全く別の事を心配してるんだ!
「私も柚木さんを追いかけてくる!」
「ダメだ」
恭介は腕を離してくれない。
「電気がつくか、二人が戻ってくるまでは俺と一緒にいてくれや」
「いーやーだー!」
「……あ、の」
ふいに背中を向けていた書斎から声が聞こえて、驚く。
慌てて振り向けば、そこには光君が佇んでいた。手にしたスマホの青白い光が顎下からあたっているせいもあるのか、俯き加減のひょろりとした容姿と相まってオバケにも見える。リビングを飛び出した時の勇ましさは微塵も感じられない。
「あ、の……父さんは、もう兄さんを殺したんでしょうか……?」
たった一つの泡が静かに弾けるような、そんな寂しげな話し方をする子だなと思った。
「それとも、今もまだ、父さんは兄さんと一緒に、いるんでしょうか……?」
そうか。光君にとって織作新はお兄さんだし、彼は実の父親なんだ。身内同士のあんな映像を見せられたらショックを受けて当然だ。
「安心して、光君。お兄さんはきっと無事だ」
何とか安心させてあげたくて、恭介の手を振り払い光君に近づく。
「だって、書斎の中には争った跡も血痕もなかっただろ? きっとすぐに見つかるよ」
「……え、っと」
厚い前髪の奥に隠れた双眸には明らかな戸惑いの色。あまりにも安易な気休めに気を悪くしてしまっただろうか。発言の撤回を試みて口を開いた時、
「……べつに、見つからなくて、いいんです」
ぱちん、と泡が弾けた。
光君は私の横を通り抜け、階段を降りていこうとする。
「おっと、もうちょいここにいてくれや」
「……母さんのところに、戻ります」
階段の前に立ち塞がる恭介が、今度は光君の腕をつかむ。
「電気がつくまでは俺達と一緒にいてくれ。今一人になると、織作織之助に危害を加えられる可能性がある」
「……父さんに会えるなら、それでもいいです」
「おい、羽琉。お前もなんとか言ってやってくれ」
「え、とぉ……?」
その時、屋敷内の明かりが点灯した。
眩しさと安堵感に、身体の力が抜けた一瞬、
「きゃーーーーーー!!」
悲鳴が、聞こえた。




