第九話 推理作家
探偵様はたった一人きりの客間で、それはそれは楽しそうにワイングラスを傾けていた。そうやってお酒に夢中になっていてくれたことは不幸中の幸いだ。七瀬さんの前でこんな酔っ払いが口を開いていたら、さらに騒ぎが大きくなっていただろう。
「なぁ小早川柚木」
先ほどまで久子さんと光君が座っていた大きなソファーで仰向けになる彼女が、行儀も悪く腹の上でグラスを揺らしている。
「そろそろ篠塚が持ってきた酒もなくなるぞ。さっきお前が持ってた酒はどこにやったんだ?」
「さっき……? ああ、アレは織之助先生のところに置いてきてしまいました」
「アイツものんべえなのか?」
「ええ、ものスゴく。これ以上はダメだと言っても、僕に隠れて飲もうとするんです。なので、地下の貯蔵庫にはカギをかけていたんですよ」
「なるほど」
ますますどこかの誰かさんみたいだ。彼という人物は。
「おい、いい加減にてめぇは酒飲むのを止めやがれ」
さすがに彼女の体たらくを見かねた恭介が眉間に皺を寄せる。旧知の間柄というせいもあるのだろう。その言葉は新や篠塚に対するそれよりも容赦がない。
「ほら、俺ともう一度織作先生のトコに話聞きにいくぞ!」
「ヤだ」
「あぁ? てめぇ仮にも探偵だろ? さっさと事件の調査をしろ!」
「事件なんてまだ起こってないだろ」
「これから起こるかもしれねぇ事件を未然に防ごうって気はねぇのか?」
「それは警察の仕事。探偵の仕事は起こった事件の後始末だ」
「屁理屈言うな。黙って働け」
「相変わらず人使いが荒いなぁ」
文句を言いながらも、彼女はソファーから上半身を起こす。大きく開いた両膝の上に肘をつくと、組んだ両手に顎を当てて私達を見上げた。
「なぁ神居。これからこの屋敷で起ころうとしている『事件』ってのは何だと思う?」
「織作先生が招待状を送ったヤツらに対して、何かしらの制裁を加えようとしてんじゃねぇのか?」
「確かに、アイツらに招待状を送り付けたのは織作織之助だ。だが、警察に相談をしてきたのもまた織作織之助だ。それについてはどう考える?」
「……もったいぶってねぇで、さっさとてめぇの考えを話せ」
二人の感情はいつだって反比例だ。恭介の不機嫌な表情に対して、彼女はとても上機嫌に唇を歪める。
「舞台上に役者を集めるためだ」
「はぁ?」
「推理小説ではお馴染みの登場人物だろ?――探偵は私、刑事はお前。招待客は被害者兼容疑者だ」
「……つまり?」
「つまり?」
「俺にもわかるように言いやがれ」
「ああ、なるほど」
彼女はとても、とても愉快そうな笑い声を上げる。
「ここは織作織之助が考えた推理小説の中なんだ。事件は起こるべき時に起こるし、謎は解かれるべき時に解かれる」
「……だから、調査をしてもムダだってか? 根拠のねぇ言葉でケムに巻こうたってそうはいかねぇぞ。てめぇはただ単にかったるいマネしたくねぇだけだろ」
「さぁどうだろうなぁ。だが探偵としての役割を与えられた私は、酒を飲みながらお前らを傍観するコトしか出来ないよ」
彼女は恭介に向かってにっと笑いかけると、テーブルに残されたワインボトルに手を伸ばす。
「……それ以上飲むつもりなら、ワインボトルでその用無し頭カチ割んぞ」
「そんな怖い顔するなよ、神居。せっかくの男前が台無しだ」
「軽口叩くな。真面目に考えろ」
「真面目に、ねぇ?」
ワインボトルからは手を離さず、彼女は小さく肩をすくめる。
「考えるだけならいくらでも出来る。たとえば――そもそもなぜ、織作織之助は誕生日パーティーなんて開こうと思ったんだろうな」
「なんでって……毎年やってるんじゃねぇのか?」
「そうなのか、小早川柚木?」
「ええ。三年前までは、毎年各関係者を集めて大々的に誕生日パーティーを開いていたそうです」
「つまり、お前がこの屋敷に来てからは誕生日パーティーなんて開かれていないってコトだろ?」
「……そうですね。元々の持病が悪化したせいもあって、嫌いだった人付き合いがさらに億劫になってしまったと織之助先生は仰っていました」
「ふぅん」
自分から話を振ったわりには気のない風に頷き、彼女は別のワインボトルを手に取る。まだ、それにも中身が入っているのだろうか……?
「小早川柚木がこの屋敷に来てから、織作織之助は織作久子と離婚しようとし、七瀬瞳との関係を断ち切るために推理作家であることすら辞めようとしていた。おそらく誕生日パーティーを開かなくなったのも、他人との関わりを断つためだろう」
扉越しに私達の話が聞こえていたようだ。彼女はさらにもう一本、今度は床に転がるウイスキーのボトルを手に取って腕に抱え込んだ。
「それが今年はなぜ、今まで遠ざけてきた人間達を屋敷に呼び寄せたんだろうなぁ」
「申し訳ありませんが僕からは何とも……。全ては織之助先生の考えです。僕には一切詳しい事を話してはくれません」
「だとしたら、織作織之助自身から話を聞けないかぎり全ては憶測に過ぎない」
彼女がソファーから立ち上がった。
多量に摂取し続けたアルコールのせいでその身体が大きくよろめく。しかし、思わず伸ばした私の手はカラッポのまま空を掴んだだけ。
「――ああ、そうだ」
酔っ払い特有のぼぅっとした目が私を捉える。
「先生と織作織之助が手紙のやり取りするようになったきっかけは、それか?」
息が止まるかと思った。
未だ柚木さんが大事そうに抱く文庫本がその存在感を増して五感を刺激する。
「なぁ先生、教えてくれよ。その小説はお前達にとってそんなに大切なものなのか?」
身体中で鼓動が鳴り響く。目がチカチカして、舌がうまく回らない。
「それは……」
「ええ、そうです」
「柚木さん!?」
なんとか彼女を拒絶しようと口を開くが、言葉を言い切る前に柚木さんが頷いてしまう。
「これは僕が主演を務めた舞台の原作です。羽琉さんが書いた小説を織之助先生がとても気に入って、当時僕が所属していた劇団で舞台化したんです」
「推理小説を舞台化、ねぇ。早々に打ち切られたってことはよっぽど残虐な内容だったんだな」
「コレは恋愛小説ですよ。ね、羽琉さん?」
「もう柚木さんってばぁ!」
出来ることなら何も聞こえない振りで耳を塞いで、今すぐこの場から逃げ出したい。でも、そんなコトをしたら私がいないところで何を言われるのか気が気じゃなかった。せめてもの抵抗で彼女を背に、無理やり二人の間に身体を割り込ませて会話を中断させる。
「柚木さん、もうダメ! これ以上この話はしないでくれ!」
「なんでですか?」
首を傾げる白い細面が、少しだけもどかしそうに顰められたのは気のせいだろうか。
「なんで、探偵さんには知られたくないんですか?」
「だって彼女には関係ないだろ!」
「……一番関係があるのに?」
ぽつりと呟かれた言葉が鼓動を速める。視界を狭める。この場にはまるで私と柚木さんしかいないような――。
「僕が織之助先生と出会えたのは、このお話のおかげなんです」
とても綺麗に微笑む、貌。
私はただ、桜色の唇が動かされる様を黙って見つめることしかできない。
「僕達は互いにこのお話を何度も読みました。途中で幾つも救われる道があるのに、それを求めず頑なに破滅へと堕ちていく主人公達の気持ちが僕達にはとてもよくわかります」
私は推理作家だ。
しかし、ただ一度。
たった一度だけ恋愛小説を書いたことがある。
初の商業出版作としてその小説を世に出したのが約五年前。そして、あれは三年ほど前になるのか。ほとんど世間に名の知られていない小さな劇団で、その恋愛小説を原作とした舞台が公開された。柚木さんはその劇団の主要役者の一人で、その舞台でも主人公の一人を演じた――らしい。私は小説の舞台化を承諾しただけ。それ以外は一切関わっていない。観に行ってすらいない。だから客足が伸びず、約二週間で公演が打ち切りになったと聞いた時も何の感慨も湧かなかった。内容が内容だ。劇団側も最初から収入を見込んでの公演ではなかっただろう。私の恋愛小説を気に入り、その劇団での舞台化を強く切望したのが彼だったと知ったのは、本人から送られてきた手紙の中でのこと。
「――セカイは、二人だけでいい」
あまりにも透明な声音に身体が震えた。
「きっと、このセカイは私達に優しくない。だったら私達もこんなセカイなんていらない――そう言って、紅く燃え盛る炎に消えていく二人の姿を、今でもハッキリと思い描くことが出来ます」
柚木さんが口にしたのは小説の末尾の場面。
周囲から傷つけられ、お互いがお互いを守るために罪を重ね過ぎた二人はついに自らこの世界と決別する。求めたのは救いではない。ただ二人きりで、どこまでもどこまでも堕ちていくことを望んで。――それはいつか、私が迎えるかもしれない一つの終幕。私自身の物語だ。
「あの舞台で主人公の一人を演じて、僕は強く感じたんです。――ああ、きっとこのお話を書いた人は僕自身なんだって」
その漆黒のガラス玉は今、一体誰を映しているのだろう。
「僕も、こんなセカイに救いなんていりません」
柚木さんが小さく息を吐く。
それをきっかけに、私と周囲を隔てていた薄い幕が破かれた。
「ぜひ探偵さんも読んでみてください。コレ、お渡ししておきますね?」
「ありがとなぁ小早川柚木」
「だからダメなんだってば!」
彼女の手に渡るすんでに、文庫本を取り上げることに成功した。取り返されないように急いでカバンの中に隠す。彼女は不満そうに唇を尖らせるが、意外にもそれ以上は何も言ってこなかった。ただ何度か小さく頷くと、そのまま私の脇をすり抜けていく。ふらふら、ふらふらと。その足元は覚束ない。酒のボトルで塞がった両手の代わりに上半身を使って扉を開けた時にたたらを踏むが、すぐに体勢を立て直してエントランスホールへ姿を消した。
「ついてかなくていいのか?」
すぐ後ろで小さく笑う気配。
「あんな酔っ払ってちゃあ、階段から転げ落っちまうかもしんねぇぞ」
「な、なんで私が?! いいオトナなんだから何が起きようと自業自得だ!」
「本当は心配なくせに」
「ウルサイ! だったら君が一緒に部屋までついてってやればいいだろ!」
「冗談。妻子持ちの野郎が仮にも女の部屋なんかいけるか」
「だ、だったら私だって……」
「お前は世間様に叩かれるような問題はなんもねぇだろ?」
……本当に、何もないのだろうか。
「つーかお前はこの後どうすんだ? アイツの部屋に行く気がねぇんだったら、俺と一緒に織作先生のトコいくか?」
「いや、それも遠慮しておくよ」
話題が変わってほっとする。
「もしよかったら、私にもパーティーの準備を手伝わせてほしいんだ」
柚木さんが驚いたように目を瞬かせた。
「お気遣いありがとうございます。ですが、昨日の内にほとんどの料理は仕込み終わっているんです。あとは会場の用意とテーブルに料理を並べるくらいですから、僕一人でも大丈夫ですよ。羽琉さんもお部屋でゆっくりとお寛ぎください」
「で、でも……。さっき七瀬さんに車から荷物を降ろすようにも頼まれてたし、ここの掃除だってしなきゃだろう? 一人でも手が多い方がいいんじゃないかなぁって」
「小早川さんよぉ、珍しくコイツが粘ってんだ。なんでもいいから手伝わしてやってくれや」
さっきから恭介には笑われてばかりだ。
「一通り屋敷ん中見回ったら、俺もなんか手伝うぜ」
「でも……」
「遠慮すんなって。俺ら学生ん時から雑用は得意なんだよ。なぁ羽琉?」
「……なんか急に思い出した。授業で使うプリントのコピーとそれをひたすらホッチキスで止め続けたこの記憶ってなんだっけ?」
「俺が課題忘れて、お前の丸写しした罰」
「あぁぁぁなぜか私まで巻き込まれた理不尽なヤツだ!」
「連帯責任って素晴らしいよなぁ」
「怖ろしいよ!」
くすくすと柚木さんが笑う。その柔らかな表情になぜだかほっとする。
「でしたら、お言葉に甘えさせていただきます。お二人ともよろしくお願いしますね」
「おう、任せろ」
「うん」
窓ガラスを叩く雨粒は確実に激しさを増していた。遠く聞こえた雷鳴は気のせいではないだろう。徐々に、しかし確実に迫りくる嵐の予感。脳ミソを侵食していく不穏な思考を振り払い、私は柚木さんに続いて客間を後にした。
第一章 織作邸に集う人々(完)




