序章 いざない
私にとって「彼女」とは、一体どういう存在なのだろう。
ふと浮かんだ疑問が、いつの日からか思考の大半を占めるようになっていた。
「――おい、羽琉」
それは日常のちょっとした空白。
たとえば、学生時代の友人との通話中に訪れた一瞬の沈黙すら奪い、五感を鈍らせる。
「おい、藤崎先生ってば。聞いてんのかよ!」
焦れた男の声が鼓膜を震わせた。その声量に耳元からスマホを遠ざける。
「ちゃんと聞こえてるよ。煩いぐらいだ」
「んじゃあ、行くってコトでいいんだな」
「恭介だってちゃんと聞いてないじゃないか。さっきから私は行かないって言ってるだろう?」
「あ~わりぃ。なぁんか急に電波が悪くなったみてぇでよく聞こえねぇや」
見え透いたウソとあっけらかんとした笑い声に返せるものはため息しかない。
そもそもコイツ――神居恭介の話は突然すぎる。だって、開口一番こうだ。
『来週、織作織之助の誕生日パーティーがあるんだ。どうせヒマだろ? 一緒に行こうぜ』
意味が、わからない。
織作織之助は有名な推理作家だ。
公表されている生年月日上では現在七十を越えているはずだが、極度の人嫌いのため直接面識がある人間は限られており、彼の人となりや私生活について関係者の間では様々な憶測が囁かれている。「様々な憶測」については詳細を省くが、まぁ私だって推理作家の端くれだ。だから意味がわからないのは彼の事じゃない。一番の疑問は、小説家ではなく出版社の関係者ですらない恭介がなぜ、その誕生日パーティーとやらに関わりがあるのかという事。――実は、その疑問に対する推論はある。だからこそもっと別の、いくら考えても答えの出ない厄介な疑問が脳内で膨張して、私の思考を圧迫し始めたんだ。
断りの言葉を探して視線を落とせば、先日開封したまま扱いにあぐねている手紙を机上に見る。真っ白な紙の上には、もう随分と見慣れた几帳面な文字が並ぶ。末尾には差出人――「織作織之助」のサイン。
「なぁ頼むよ、藤崎先生」
さっきから恭介の声音は揶揄を隠しきれていない。だいたい、昔からコイツが敬称付けで私を呼ぶ時はロクなことがない。
「最近、スランプ気味なんだろ? 部屋にこもってばっかより、美味しいもんでも食って、ハメ外したほうがアイディアも浮かぶってもんじゃねぇ?」
「建前はいいよ。本音は?」
「本音? 言ってるイミがよくわかんねぇなぁ」
私は最初からわかっていた。コイツの口から本当のコトをしゃべらせようとするのは、時間のムダだって。わざと大きなため息をついてやる。
「警察組織に属する君が、推理作家の大先生が個人的に開くパーティーに関わる理由は限られる。おそらく、パーティーが開催されるにあたって何らかのトラブルが懸念されて、織作先生本人かパーティーに出席する関係者から警察に相談があったんだ。だから君達は、トラブルを防ぐための警備と、懸念のタネを調査するために織作先生の屋敷へ行く事になった。そんなところだろう?」
「おぉ~! さすがは推理作家の藤崎羽琉大先生! 凡人の考えはすべてお見通しってか?」
あからさまなお世辞を口に、恭介はとても楽しそうに笑う。
「どっかの誰かさんより、お前のほうがよっぽど『探偵』みてぇだなぁ」
「煩い」
その代名詞は、私にとってお世辞にすらなりえない。
「……それで、来るのかい?」
「あぁ?」
「とぼけないでくれ。どうせ来るんだろ?」
「誰がだよ?」
「……彼女」
「ははっ」
思わず、といった風に恭介が吹き出した。続けて大きな笑い声が弾ける。
「……電話、切ろうかな」
「ああ、待て待て。もうちょい話を聞いてくれや」
「だったら、ちゃんと事の経緯を説明してくれ」
「わぁかったわぁかった」
笑いが滲む声音のまま、恭介は言葉を続ける。
「警察のお偉いさんに、織作織之助と知り合いがいるみてぇでな。先々月ぐれぇに本人から電話で相談を受けたんだと。誕生日パーティーで何かが起こるかもしれないから、優秀な誰かを寄越してくれってな。明確な根拠はねぇが、大先生からの直々の相談とあっちゃ無下に断れねぇわな。そのお偉いさんとウチの上司が仲良しで、まぁ色々あって、優秀な警察官である俺に話が回ってきたってワケだ」
「色々って……それをちゃんと説明してくれよ」
「べつに、お前が知りたいのは事の詳細じゃねぇだろ?」
スマホ越しの意地悪い笑みが目に浮かぶ。
「お前の推理どおり、今回も例の探偵殿がご一緒してくださるそうだ」
思わず飲み込んだ唾の音がやけに大きく聞こえた。慌てて咳払いをして、口を開く。
「つまり、私を誘う本当の目的はソレだね」
「それ?」
「彼女のお守り役」
「ご名答」
私の気持ちなんかお構いなしに、能天気な声はあっさりと肯定する。
「アイツはウチの大切なアドバイザー様だからな。丁重にもてなししてやらねぇといけねぇんだわ」
「だったら、君が『丁重なおもてなし』をしてやれよ」
「冗談」
スマホの向こうで肩をすくめる気配。
「全く迷惑なハナシだよなぁ。『我々とは異なる視点を取り入れて、事件の早期解決を目指すため』だか何だか知らねぇが、仮にも一般人を同行させるなんてな」
「でも、彼女は元々警察官だったんだろ?」
「お、よく知ってんな。アイツが自分で言ったのか?」
「君が自分で言ったんだよ」
「そうだっけか?」
ケタケタ、と。
なんの悪びれもなく恭介は笑う。
「まぁ厳密には警察学校を卒業しただけだ。実際には一年も働いちゃいねぇ。ただ、織作織之助から相談を受けたお偉いさんもウチの上司も、学生時代のアイツのコトは知ってんだ。だからこそ万が一にも大先生に失礼がないようにって、俺がまた一緒に行かされるハメになったワケだ」
「ご愁傷様」
「うるせぇ。俺はアイツのお守りなんて真っ平だ。だいたい、アイツが警官じゃねぇ時点でもう同期とか関係ねぇはずだろ? 他のヤツに押し付けようとしたが、全員アイツの名前聞いただけでビビっちまってお話にもなりゃしねぇ」
「ビビる? 彼女に?」
「アイツ、ずいぶん学生時代にハデなコトしてっからな。俺らの世代じゃ伝説だぜ。あることないコト、色んなウワサが飛び交ってんだよ」
「……ふぅん」
時々恭介の話に出てくる昔の彼女を私は知らない。見事高卒で公務員試験に合格した彼女と恭介は警察学校の同期で、成績最下位の恭介とは違って彼女は優秀な成績で卒業したけれど、警察官として本格的に現場に出ることはなかったらしい。――それ以上は、よく知らない。
「もっと詳細知りてぇか?」
……コイツは人の心の中を読めるんじゃないかと、そう思う時がたまにある。
「別にいいよ。興味ないし」
「興味ない、ねぇ?」
平静を装ったはずの言葉はあっさり鼻で笑われる。
「ホント、難儀な性格してるよなぁ。もっと素直になりゃいいのに」
「煩い!」
私が彼女と出会ったのは一年ほど前の事だ。恭介に無理やり連れていかれたある場所で、私は彼女と初めて出会った。そして、その時から彼女はすでに『探偵』だった。だからそれ以前の話には興味がない。別に知る必要もない。ただ、それだけだ。
「あのさ、恭介」
「ん~?」
「……いや、やっぱりいいや」
「はぁ?」
今も思考を圧迫し続ける疑問の答えは、私自身で見つけなければ……。
ため息をついて、話の矛先を変える。
「そもそも、なんで私に彼女のお守り役なんて頼むんだい? 他にも適任はいるだろう?」
「なんでって……」
一瞬の沈黙のち、耳元であっけらかんとした笑い声が弾けた。
「あはは! そんなの決まってんだろ? だってアイツはお前のことが――」
ぷつり、と。
唐突に通話が途切れた。
鼓膜を震わすわずかな雑音は、しかしすぐにハッキリとした恭介の声に戻る。
「んじゃあ、決定だな」
「ちょ、何が決定なんだい?」
「あぁ? 今『やっぱり行こうかな』って言ったじゃねぇか」
「いや、そんなこと言ってないし」
「言っただろ?」
「言ってないってば!」
「いい加減諦めろって、藤崎先生。往生際が悪いぜ」
諦めが悪いのはどっちだ!
喉元まで込み上げてきた言葉は、声にはならず何度目かのため息だけが口をつく。――きっと、最初から言葉での反論は無意味で、通話を強制終了するしかこの話をないことにするのは難しいのだろう。しかし、今までに何度もあったそのチャンスを無意識にでも見逃している時点で、私には甘んじてこの誘いを受けるしか選択肢がないのだ。
「……現地集合にしよう。何時までに、どこへ行けばいいのかだけ教えてくれ」
「サンキュ、羽琉。頼りにしてるぜ」
とても上機嫌な言葉を最後に、恭介との通話は終了した。一定の間隔で鳴り続ける電子音を聞きながら、もう一度机上の手紙に視線を落とす。
「行く気なんて、なかったのにな……」
とあるきっかけで三年ほど前から始まった織作織之助と私との文字のみでの交流は、誰にも知られることなく月に一回程度のやり取りが続いていた。手紙の内容は小説や映画の感想だったり、互いに思い付いたトリックの考察だったり……まぁそんな他愛もないものだ。
しかし、珍しく前回から間隔を空けずに届いたこの手紙は、私を織作邸へと誘うだけのシンプルな内容だった。そこにはトラブルや警察、ましてや探偵の存在など微塵も感じられない。今までも何度か「直接会って話がしたい」と屋敷へ招待されていたが、私は毎回断り続けていた。今回だって多少悩みはしても、最終的には断りのハガキ一枚でも返信して、いつも通りの日常に戻ったはずだ。それが一体どうしたことだろう。たった十数分の電話で、私は彼の誕生日パーティーの登場人物となることを自ら選択してしまった。もしかしたら、全ては彼の思惑通りなのかもしれない……。
まさか、と。
私は突飛な考えを振り払う。
これは数少ない友人からの直々の頼みだ。なるべく力になってやりたい。承諾した理由なんてただそれだけ。そう、それだけだ。
ふいに手紙を揺らした風に、懐かしい香りを嗅いだ気がした。
思わず振り向いても、一人暮らしの部屋に自分以外の誰かがいるはずはない。つけっぱなしのテレビ画面でニュースキャスターが天気予報を告げる。どうやらつい最近梅雨が明けたばかりだというのに、もう台風が襲来する時期を迎えるらしい。季節が判然としない蒸し暑さに窓を全開にすれば、眼前には薄曇りの空に沈む街並み。頬をなでる湿気まじりの風に、遠く雷鳴が聞こえた気がした。




