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【短編】平成元年のキャッチボール

作者: 和泉龍一郎


 口に入れた米が、ぼたぼたと落ちた。俺はそれをつまんで捨てた。指についたべたつきは、ティッシュで拭いても取れなかった。


 こぼした張本人は薄笑いを浮かべて、リビングの斜め上を見ていた。そこには何もない。けど親父には何かが見えてるんだろう。


「ほら、口開けろ」

 俺はまたスプーンでおかゆをすくうと、口へ運んだ。


 親父は、今度は吐き出さなかった。


      ●


 いつまでこんな生活が続くんだろう。

 いつまで俺は、親父の面倒を見なきゃいけないんだろう。

 こんな、まともに飯も食えない、ろくに会話もできない親父を。


 おふくろがいてくれたら、と思うが、死んだ人間を当てになんかできない。俺は仏壇を見て舌打ちをする。


 親父のせいで俺は会社を辞めて、東京からこっちに戻って来なきゃいけなくなった。親父が死ぬまで介護し続けなきゃいけなくなった。


 会社を辞めなきゃ今ごろ大きな仕事をまかされて、出世していたかもしれないのに。


 いや、もしもの話はやめよう。

 考えれば考えるほど辛くなるだけだから。


      ●


 何となくつけたテレビで、野球中継をやっていた。


 野球なんて久しぶりに見た。選手の名前を見てみるが、知らない人たちばかりだった。俺が知っている選手はもう一人もいないらしい。


 ベッドで寝ている親父を視界に入れながら、試合を見る。

 でもどっちが勝とうがどうでもいいと思った。


 どっちが勝とうが、俺の人生には何の影響もない。


 野球の試合で一喜一憂するなんてバカなんじゃないか? と球場で騒いでるやつらを見て思う。


 ああ嫌だ。

 思い出してしまう。


 昔を。子どもの頃を。

 あの頃を。


      ●


「そうか、タカシはプロ野球選手になりたいのか」

 山なりのボールをキャッチする。


 俺は投げ返す。ボールは親父のグラブに吸い込まれ、乾いた音を公園に響かせた。

「まあ、うん」


 空は淡いオレンジ色に染まっていて、どこかでカラスが鳴いていた。

 将来の夢は何だと訊かれ一応答えたものの、急にそれが恥ずかしく思えてきて、口ごもってしまった。


 プロ野球選手? 俺が? 万年ベンチにすら入れないこの俺が?

 なれるわけがない。


「そうか」


 また山なりの、へろへろのボールが返ってくる。必死に投げてこれのようだった。こんな送球じゃアウト一つ取ることもできないだろう。


 親の老いというものを、俺はこのとき初めて感じた。


 無言でボールを投げ合う。


 珍しくキャッチボールに誘われたはいいが、普段からあまり話すほうじゃないから、何を話せばいいかわからなかった。


 俺はボールを投げながら、もう中学で野球は辞めて、高校からは何か別のことをしようかな、なんて思っていた。でも小学生の頃から頑張ってきた野球をここで諦めてもいいのかな、とも思っていた。


 どっちを選んでも、きっと後悔するだろうという予感があった。


「タカシの好きなようにすればいい」


 いきなりそんなことを言われ、俺はボールを後ろに逸らした。慌てて取りに行く。息が少し上がっていた。


「やってみればいいじゃないか。駄目かどうかは、やってみなきゃわからないんだから。それでなれたら凄いことだし、なれなくてもタカシはタカシだ。父さんの自慢の息子だ」


 ボールを投げる。

 けど強めに投げてしまったので、今度は親父がボールを逸らした。ボールは公園の端っこまで転がった。親父は小走りで取りに行った。俺はその小さな背中を眺めながら「ありがとう」と言った。


      ●


 でも結局、野球は中学で辞めてしまった。やっぱり俺に野球は続けられなかった。その後も色々やってみたけど長続きしなかった。


 何事も中途半端。

 それが俺という人間だ。


 俺はどこまでも、どこにでもいる普通の人間だった。

 俺はどこにも行けない人間なのだ。


 チャンネルを変えようと、リモコンに手を伸ばす。野球なんて見てるから嫌なことを思い出してしまったのだ。


「タカシ」


 そのとき親父が言った。


 親父が、こっちを見ていた。もうほとんど体が動かないのに。


「キャッチボール、やろうか」

 そしてかすれた声で、そう言った。俺はチャンネルをそのままにした。


「ああ」

 またいつか、やろうな、キャッチボール。


 小気味いい破裂音がした。実況が叫んだ。ボールが勢いよく飛んでいき、スタンドに突き刺さった。大きな歓声が生まれた。俺は鍋にかけた火を弱めるため、立ち上がって、台所に向かった。


〈了〉

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