人魚に口づけを。
赤いオープンカーが沈みかける夕日を背負いながら
海岸線を走り抜けていく。助手席に座る太一は、運転席のサキに視線を向けた。
「どこに行くんだ?」
「私のお気に入りの海よ。」
車はやがて、人気のない小さな浜辺に到着した。辺りには人影もなく、波の音だけが静かに響いている。サキが先に車を降り、裸足で波打ち際に向かう。太一も続いた。
「ね、太一くん。海に入ろっか。」
「え……こんな寒い時期に?無理だよ。」
「大丈夫、私となら寒くないわ。」
「いや、俺カナヅチだから。」
サキは微笑んで太一を見つめる。
「知っているわ。」
そう言うと、サキは自分の首元から貝のネックレスを外し、太一に手渡した。
ネックレスはあたりが暗くなるのとは正反対に輝き始めていた。
「これを持っていて。もう時間がないの。一つ秘密を教えてあげる。」
太一は黙って彼女を見つめた。
「私、陽が落ちたら人間じゃなくなるの。だから、海に潜らないと死んでしまうのよ。」
その言葉に太一の心臓が大きく跳ねた。サキは続けて言った。
「さあ、一緒に来て。」
サキは服を脱ぎ始めた。その足元が徐々に七色に輝き、鱗が浮かび上がってくる。素足が美しい魚のように変わっていく様子に、太一は目を奪われた。辺りはすっかり暗くなり、波の音だけが耳を支配する。
「サキ……本当に、君は……?」
サキはシャツを脱ぎ終えると、振り返って太一に手を差し出した。その体は月明かりの下でまるで宝石のように輝いている。
「私を信じて。手を握って。」
太一は恐る恐るサキの手を取った。その瞬間、彼の体はまるで魔法にかかったように冷たさを感じなくなった。波打ち際で触れた海水も、不思議と温かく感じる。
「サキ……」
「大丈夫。絶対に手を離さないで。」
サキの声は優しく、そしてどこか切なかった。彼女の手は次第に七色の鱗で覆われ、キラキラと光を放っている。サキは太一の手を引き、ゆっくりと海へと歩き始めた。
やがて二人は首元まで海水に浸かり、サキは太一の手を強く握りしめた。
「怖いよ、サキ。」
「大丈夫。私がいるから。」
その言葉に押されるようにして、太一は水中へと身を沈めた。
水の中は真っ暗だった。しかし、サキの体から放たれる七色の光が海の闇を照らしている。彼女の手に導かれ、太一はどんどん深く潜っていく。わずかな月の光が差し込む中、突然、太一の頭の中にサキの声が響いた。
「太一、あたしにキスをして。」
驚きながらも太一はサキの方を向く。彼女は完全に人魚の姿になっていた。金色の髪が水中でゆらめき、青い瞳は深い海のように美しい。迷いのないその瞳を見つめ、太一は思わずサキに唇を寄せた。
その瞬間、世界が止まったように感じた。サキの唇は柔らかく温かく、太一の全身を包み込むようだった。二人は深く抱き合い、長いキスを交わした。
太一は胸が幸せで満たされ、目の前のサキにただ見とれていた。彼女の瞳に吸い込まれるような感覚に陥る。
「サキちゃん……」
そう呟いた瞬間、太一の体が何か変化していることに気づいた。体がどんどん小さくなり、気がつけば少年の姿になっていた。そして目の前のサキもまた、少女の姿へと変わっていた。
その時、太一は思い出した。
子供の頃、海で遊んでいて溺れたことがあった。そのとき海の底深くから現れた小さな人魚――それがサキだったのだ。彼女は太一を助け、そして一緒に海で遊んだ。それなのに、太一はその奇跡をいつの間にか忘れてしまっていた。現実の忙しさに追われ、あの時の記憶を封じ込めていたのだ。
「サキちゃん……ごめん。俺、ずっと……」
サキは静かに微笑み、涙を一粒こぼした。それは泡となり、水中で消えていく。
「いいのよ……思い出してくれて、本当に嬉しい。」
彼女は太一の顔に手を添え、優しく言った。
「愛してる、太一くん。」
「僕もだよ、サキちゃん。」
二人は抱き合い、深い海の中で溶け合うようにキスを交わした。太一の胸は今まで感じたことのない温かさと幸福感で満ちていた。
気がつくと、太一は浜辺に倒れていた。夜明け前の冷たい風が頬を撫でる。
「サキ……?サキちゃん……?」
よろよろと立ち上がり、辺りを見渡すが、サキの姿はどこにもない。
「サキちゃん!!!」
太一は声を枯らして海に向かって叫んだ。しかし、波の音が静かに返ってくるだけだった。
一晩中、太一は浜辺でサキを待ち続けた。けれど、彼女が戻ることはなかった。
太一は胸に手をやり、七色に光る貝のネックレスを握りしめた。
「サキちゃん……君は海へ帰ったんだね……」
呆然と海を見つめながら、太一は膝をついた。胸の中にぽっかりと空いた穴を感じながら、それでもネックレスの温かさだけは手のひらに残っていた。
太一は静かに目を閉じ、波の音を聞きながらただ一つの願いを胸に抱いた。
「もう一度……会いたい。」




