最終話
蝉の声が鳴り響き、うだるような暑さの中、冬子は自転車を漕いで実習先の病院へと向かう。
無造作に籠に投げつけられたリュックの中には、大量の医学書と、頑張って自分でアイロンをかけた白衣が詰まっていた。
「あつい…、こんなの、患者の前に私が熱中症で死ぬよ…」
大学5回生だというのにメイクをする時間もなく、どうにか時間を割いてベタ塗りした日焼け止めも、汗でドロドロに流れてしまった。
医学生が「こんなもん」である事は既に慣れっこの冬子は、駐輪場で自転車を停めると、スタッフ専用の入口から院内へと入る。
自販機で麦茶を購入し、一気に飲み干すと、雑なアイロンで所々皺の目立つ白衣を羽織り、ボブから少しだけ長くなってきた髪を1つに纏めた。
現在実習で回っているのは「救急科」だ。
昨日入院した患者の状況を朝カンファレンスで説明する。
「急速性胆管炎疑いとなり、当院へ緊急搬送されました。全身症状としましては黄疸や悪寒戦慄、右側腹部痛…」
「…来たときの身体所見はどうでした?本当に痛みは側腹部だけでしたか?」
「側腹部…というよりかは……、右下腹部でして…」
「下腹部もあったの?」
「ええと……」
身体所見について指導医から容赦なく突っ込みが入った。
通常は上腹部が痛くなる胆管炎で下腹部の痛みがあることに違和感があったらしい。
冬子はここで突っ込まれないよう、昨晩は睡眠時間を削り『胆管炎』について勉強したはずが、それが仇となったためか眠気で頭が回らず、言葉を詰まらせてしまった。
「はぁ…」
冬子はため息をつき、目を覚ます為に缶コーヒーを買いに自販機へ走ると、聞いたことあるような声が耳に入ってきた。
「お前、ホンマ何ともなくて良かったよ。マジで心配したし。これからは気ぃつけてよ?」
「いやー迷惑かけちゃって本当すみません。あん時ここで曲がらなければ…」
……!?
梓馬の声だ。
冬子は後ろを振り返ると、そこには髪の色が鮮やかなブルーに変わった梓馬の姿があった。
こちらの視線に梓馬が気付いた。
「…冬子!?」
「梓馬さんだよね??」
「オマエ…、医者やん。マジでなれたのは、、オレが勉強教えたお陰…?いやいや、冬子の実力や。。えーーー?冬子??」
突然の元カノとの再開に挙動不審になる梓馬の様子に、
冬子は思わず吹き出した。
「まだ学生だよ!梓馬さん、髪の毛青にしたの?似合ってる!」
冬子は昔のような笑顔を向け、梓馬の髪色を褒めた。
「冬子も、その白衣におーとるよ。昔は化粧濃かったけど、今は、すっぴん?でもすぐにわかったけどな。
どう、昼とか一緒に?医学生って金ないやろ。ご馳走するけん。」
「え、いいんですか??じゃあまた、12時位に、ロビー辺りで!」
突然の元カレとの再開に、冬子も高鳴る鼓動を抑えられなかった。
「風間先生、今朝より元気蘇った?」
「ハイ、コーヒーとレッドブル同時に飲んで交感神経高ぶらせてます!」
冬子は、トー横の名残りとも思える自分にしか分からない冗談を言うと、12時のランチを目指し、黙々と実習に励んだ。
カンファレンスが長引き、約束の時間を30分程押してしまった冬子は、駆け足でロビーに向かった。
「梓馬さん!遅くなってごめんね!」
ロビーのソファーに座り、缶コーラ片手にスマホを覗き込む青い髪の梓馬がこちらに気付いた。
「よっ」と手を振る梓馬の姿が、昔歌舞伎町で待ち合わせた時の光景と重なる。
「奢るよ」なんて言われたものの、時間も無い為結局コンビニ弁当をご馳走になった。
「今日は、お友達のお見舞い…?」
冬子は卵焼きを頬張りながら尋ねた。
「そうそう、動画手伝ってくれとる後輩なんやけど、何やらでっかい交通事故おこしよってな、話聞いた時はホンマにダメかと思ったら、普通にピンピンしとったけん。安心した…。」
梓馬はほっとしたように下を向き、ため息をついた。
「そっか、、確かにさっきの彼、元気そうだったもんね。…無事で良かったね!」
はにかんだ笑顔で慰めてくれる冬子の姿に、梓馬の胸は高鳴った。
「…冬子、あれからホンマに大学合格して、医者になれたんやな。トー横キッズだった冬子がこんなに立派になるなんて…凄いな。」
「梓馬さん私まだ学生だよ、医者じゃない!(笑)梓馬さんも、、何か色々やってて凄いよね。。たまにYou Tube見てるよ。
前、テレビにも出てた?芸能人じゃん。もう雲の上の存在だって思ってたけど、こんなとこ居て大丈夫なの?」
「芸能人??いやいや、そんな格好いいもんでもなかとよ!」
梓馬は嬉しそうに否定すると、冬子の瞳をじっと見つめ
て口を開いた。
「…あのとき、冬子が一番辛い時、側に居てやれんくてごめんな。」
冬子も負けじと梓馬の瞳を見つめ、訴える。
「そんな事ないよ?梓馬さんが言った通り、ママとの時間目一杯過ごせたし、勉強にも集中出来たから今があるの。」
「ねぇ梓馬さん…、私達、また会えないかな?」
冬子は「雲の上の存在」である梓馬にこんな事を言うなんて、身の程知らずだと、自分自身の発言に驚いた。
しかし、特段撤回しようとも思わなかった。
これが、冬子の心の奥から湧き出てきた気持ちだったからだ。
その日の晩、冬子はもう一度梓馬に逢いに行って、そしてまた、翌日も、その後も何度も何度も逢って、これまで空白だった時間を埋めるように、ひたすらお互いの存在の心地よさを肌で触れ、言葉で伝え、空気で感じた。
冷たい風が、外でのデートを億劫にするある日のこと、
梓馬の部屋でUber Eatsをつまみながら、冬子は梓馬に向かって尋ねた。
「梓馬さん、…どうして私とよりを戻してくれたの?」
梓馬は冬子の隣に腰掛けると、冬子の肩にもたれかかりながら答えた。
「…よりを戻したつもりなんてないんやけどね。ただ、病院で再会した時、冬子がめっちゃ好きだって思ってしまって、そのままずっと嵌ってるだけ。オレが。
…多分オレ、一生冬子の沼から抜けられん気がするけん、これからも末永くよろしくお願いします。」
梓馬は冬子の瞳を覗き込み、表情を緩めた。
ママが言った言葉だ。
ママの言葉、覚えててくれたんだ…!
冬子は涙が溢れてきて、思わず梓馬を抱きしめずにいられなかった。
「梓馬さん、私も大好き。もう、絶対に離さないから、…国試中もね。。覚悟しといてよ?」
冬子は上目遣いで梓馬の瞳を覗き込むと、片手で顎を引き寄せ、力いっぱい唇を重ねた。
「冬子、大好きだよ。もう一人にしないけん、冬子がずっと笑顔でいられるように、オレが冬子を守るから。」
梓馬は冬子を力いっぱい抱きしめ、唇から頬をつたい、耳たぶにキスをした。
冬子もそれに応えるように、梓馬の背中に手を回す。
2人の鼓動がこだまする中で、窓の外ではパラパラと雪が降ってきた。
そろそろクリスマスが訪れる季節だ。
「クリスマスプレゼントは、サンタクロースのマトリョーシカ以外でお願いね」
智子は梓馬にそうお願いすると、雪の中に溶けて消え、見えなくなっていった。
ーendー