72話
「冬子、ママは?」
病室のドアが勢いよく開き、息を切らしながら仁志が入ってきた。
「パパ、、大丈夫だよ、ママは生きてるよ。そのまま、眠っちゃったの。」
息苦しそうに寝息を立てる智子の姿を見て、仁志はほっと胸を撫で下ろした。
冬子は智子をトントンと揺さぶり、耳元で声をかけた。
「ママ、パパ、来たよ。殴るシーン撮るなら、今だよ!ママ!」
智子は迷惑そうにゆっくり瞳を開いた。
「パパ…、来てくれたの?ありがとう。」
「パパを殴るんでしょ…?」
「うん、パパ、こっちきて。」
智子は、仁志をベッドサイドへ呼び寄せると
細くなった腕で仁志の首元に絡みつき、か弱い力の限り、仁志を抱きしめた。
「仁志さん、これからは、浮気しちゃダメだよ?」
耳元で囁くと、仁志の頰をパシッと叩いた。
「智子…、ずっと裏切って、ごめん。俺、ずっと起業してみたくて、それを認めて貰えなくて、それで、子どもみたいに意地になってた。
お前に何も話さないで、何もお前の事わかろうとしないで、何で俺は…、馬鹿だったよ…。
そんな俺だけど、お前はいつも迎え入れてくれて、、。今までありがとう。」
仁志は智子の手を握りながら、涙を流し訴えた。
「仁志さん…、いいの。私もね、あなたのやりたい事…分かってあげられなくてごめんね。
そう、、私の写真集、見てくれた?
結構…綺麗に撮れてるの。あなたにも、もっと自由にやれるように言えば良かったね…。
今まで、家族のために支えてくれて、いつでも飛んできてくれて、やっぱりあなたは優しいよ。ありがとう。」
智子は仁志の瞳を見つめ、頰を優しく撫でると再び目を閉じ、すやすやと寝息を立てた。
その翌日の日曜日、家族3人で病院へ向かう途中、美月はミモザの花束を見つけ駆け寄った。
「うーん、いい香り!これママにぴったり。買っていこう?」
確かに、春の訪れを感じさせる明るいイエローと爽やかな香りが、おっとりとして可憐な智子のイメージと調和していた。
仁志は智子の喜ぶ顔を想像しながら会計を済ませると、足早に病院へ向かった。
「おはよーママ!」
智子は静かに眠っている様子だ。
「ママ見て、これ、ミモザだよ!病院に来る途中見つけてね、ママにぴったりだと思って買ってきたの。いい匂いだよ、かいでみて!」
ミモザの花束をそっと智子の鼻元に近付けると、智子の広角が少しだけ上がったのが分かり、美月は安堵した。
「お姉ちゃん、花瓶変えよ!」
美月は古くなった花を指さし、姉に指示を出した。
美月もだいぶしっかりしてきたな、と仁志は感心する。
「お姉ちゃん、ママ、ミモザの香り嗅いで笑ってたね!」
美月は給湯室で花瓶に新しい水を入れながら、鼻声で姉に笑顔を向けた。
「うん、美月の選んだお花、ママ嬉しそうだったね!美月、ナイスチョイスだよ!」
冬子は美月の頭をわしゃわしゃと撫でると、肩を抱き寄せ、美月の頭に頰をこすりつけた。
「パパ、ママ、ジャーン!美月が活けたの!綺麗でしょ?」
病室のドアを開けると、涙を流しこちらを見つめる仁志と目が合った。
「ママ、呼吸が止まったみたいだ…。」
夫婦水入らずのその時、美月の成長までしっかりと見届けた智子は、静かに息を引き取った。