71話
ホスピスでは、抗がん剤治療は行わない。
ただ癌による痛みや不快感を取り除き、患者が穏やかに余生を過ごせるようにするための場所だ。
つまり、こちらへ転院するという事は、智子は助からないと、答えが出たようなものだった。
そんな仁志の葛藤をよそに、智子の表情は穏やかだった。
今まで辛くて仕方なかった抗がん剤の副作用とも無縁となり、ゆっくりと時を過ごす事ができる。
その日冬子は、智子のふくらはぎをマッサージしながら、美月と料理を作り、失敗してしまったこと、期末テストの得点が少し落ちてしまったこと、、学校で友達と勉強を教えあったこと、梓馬が大好きだったこと、などを延々と話していた。
智子は痛み止めとして投与されているモルヒネの為、意識が朦朧とし、殆ど聞こえているのか分からないし、あまり反応してくれない。
それでも冬子は、ひたすら話し続けた。
珍しく父が勉強を見てくれた事を話した時だった。
「パパに、、パパ、まだ、殴ってないよ。」
智子は目を見開き、冬子に向かって訴えた。
「ママ…?」
智子がホスピスへ転院後、冬子はエイトビートに対し、今後取材は困難である旨を話し、現在企画は中断されていた。
そのまま企画終了すると誰もが思っていたため、冬子は目を丸くして驚いた。
「パパ…、浮気なんかして、許せない。一発殴ってやらないと、気が済まない…。」
「ママ…、パパ、許したんじゃないの…?」
智子の強い意志を感じる表情と口ぶりに、冬子はぼろぼろと溢れてくる涙を抑えられなかった。
「うぅん、、許してないよ?ママ、浮気がだいっっきらいなの。冬子…、パパを連れてきてくれる?」
「わかった…。」
冬子はそのまま病室を出るとスマホを取り出し、父へラインを送った。
「ママ、動画の企画でパパを殴るっていうの、やってないって怒ってます。
やっぱり浮気は許せないんだって。病院に来てほしい。」
すぐに既読が付き、返事が返ってきた。
「わかった。今から向います。って、ママに伝えてください」