33話
「パパ…、緊急事態。お財布、定期ごと落として帰れなくなりました。駅まで迎えに来て下さい」
そろそろ仕事を切り上げ、ワインでも買って史恵のマンションへ向かおうと考えていた矢先、珍しく娘からのラインが届いた。
(そんなのママにやってもらえばいいのに、何で俺なんだ?)
「ママに連絡したかな?パパはまだ仕事が終わりそうにないです。」
「美月が具合悪くて、ママは美月と病院に行ってるよ。知らなかった?パパしか居ないんだけど」
冬子は少しだけ皮肉を込めてラインを返した。
勿論、嘘だ。
「ママから連絡きてなかったよ。美月大丈夫?心配だ。分かった、早めに切上げて駅に向うよ!」
仁志はふぅ、とため息をつくと、史恵に連絡をした。
「史恵ごめん。今日は娘が財布を落としたらしく迎えに行くことになった。史恵に逢うことを楽しみにしていたのに、残念だ。また今度埋め合わせする」
仁志はさっさと仕事を切り上げ、冬子の通う高校の最寄り駅まで急いだ。
冬子はカフェの窓際に座りながら、仁志の到着を待った。
家ではなく外で話す事にしたのは、リンネの入れ知恵だった。
「そういう都合の悪いこと家で話すとさ、殴られたり、逃げられたり、怒鳴られたり、散々なことが起こるから。外で話したほうがいいよ!」
いざカフェへの誘導に成功したものの、緊張する。
仁志は温厚で、手をあげるどころか、怒鳴った所すら見たことはなかったが、「逃げられたり」という言葉に引っ掛かり、わざわざ嘘をついて呼び出す事にしたのだ。
美月、元気なんだよな。バレたらパパ怒るかな?
等と考えていると、目の前を通り過ぎる仁志が視界に入った。
まもなく「カラン」とドアの開く音が鳴り、仁志は冬子の見つけると、こちらに向かって手を降った。
カウンターへ近寄らない様子から察するに、注文する気がないらしい。
冬子も小さく手を降ると飲み物を指差し、「まだ来たばかり」と目で訴える。
「そっか」と父親も頷き、コーヒーを注文した。
「冬子と外でコーヒー飲むなんて、何か新鮮だなぁ。それにしても財布、どこで落としたの?学生証とか入ってるなら警察に…」
「ごめんなさい、パパ。」
コーヒーを飲む仁志と目が合った。
「?何が?」
「嘘なの…。財布は大丈夫。」
仁志の心臓がドクンと大きく鳴った。
何か大切な話をされると、直感で分かった。
「美月も平気だし、ママも家に…」
「冬子、嘘なんかついたらダメじゃないか?パパからお小遣い貰おうと企んだんだな?
最近は友達と遊び歩いてるって聞いてたから…、無駄遣いばかりしてるんだろ?」
「違うの…ねぇパパ、『ふみえ』って、誰なの…?」
誤爆ラインの心当たりがある仁志は、即座に話の意図を理解し、今から娘へ話す内容を頭の中で素早く組立てた。
「ずっと前、間違えて送っちゃったやつか。まあ、冬子も多感な年頃だし、何も言わずに消しちゃったけど、余計混乱するよな…。ゴメンな?ずっと悩んでたの?」
「そりゃあ…」
「冬子、もっと早く言ってくれれば良かったのに。
まあアレは……、パパもな、大人の付き合いってのがあって、女性の居る飲み屋さんに付き合いで行く事もあるんだよ?そこで連絡先の交換をして、友達になることだってあるんだ。
冬子にはまだ難しい話かもしれないけど……。」
「確かに、出張帰りに取引先の方々と飲みに行ったりして、お店の女性にだって、個人的にお土産を渡したりすることだってあるよ。それでビジネスが上手くいく事だってあるからね。」
「そういうものなの…?」
大人の社交場における常識なんてさっぱり理解出来ない冬子は、優しく諭す父の言葉に簡単に腑落ちしてしまった。
「ま、こんなふうに話が出来るようになったなんて、冬子も大人になった証拠だな。話してくれてありがとうな。色々悩んで辛かったろ。悩ませてゴメンな。」
大人扱いされ気分が良くなった冬子は、ひょっとしたら母の思い過ごしかもしれないと、考えを改め始めた。
「…ただ、嘘は、よくないぞ!」
仁志は冬子の頭をコツンとやると、サッと立ち上がりレジへと向かった。
先ほど注文したコーヒーは、殆ど残ったままだ。
その時冬子はふと、ママが探偵に依頼し証拠を掴んでいた事を思い出した。
冬子は父の後を追い店の外へ出ると、再度父の目を見て問いただす。
「ねぇパパ、ママも気にしてたの。証拠もあるって!!」
仁志は立ち止まりため息をつくと、冬子に厳しい視線を送り捲し立てた。
「だから冬子、何の証拠??ママに何を言われたか知らないけど、パパは友人と食事に行く自由も与えて貰えないのかな?そんなの、毎日家族のために仕事を頑張っているのに、あんまりだ。」
「…会社に仕事を残してきたから、会社に戻るよ。冬子は、パパがどんな大きな仕事をしているのか分かってないね。冬子がこんなふうに嘘ついてパパを呼び出して時間をかけることで、大勢の人に迷惑がかかってるんだよ。
財布もあるし、一人で帰れるね?」
冬子は頷くと、仁志は足早に会社の方向へ戻っていってしまった。
冬子は、父親が嘘をついているような気がした。
こんなふうに口数が多くて、高圧的な態度を見せるパパは初めて見た。
でも、冬子が何を言っても、絶対にパパが非を認める事は無いという事も理解できた。
あんなに憎かったママが、可哀想だと思った。