ショート 応援定食
あの店の味を思い出していた。
さばの味噌煮定食、650円。
メインのさばが旨いのはもちろん、味噌汁と納豆、ほうれん草のおひたし。
大将が「ロクなもん食ってねえだろ」と付け足してくれた半熟卵。
安いボロアパートで眠り、早朝に起きて仕事場へ向かう。そんな繰り返しの中で仕事上がりに食う、あの味だけが俺を癒やしてくれた。
憎かった訳じゃない。気がついたら、殴っていた。事務机の角がガコンといい音を立てたから、ざまあみろと。
動かないから、悪ふざけはよせと揺すって。
その目はどこか遠くを見つめていて、後頭部から血が流れているのを確かに見た。
どこをどのくらい走ったかなんて覚えていない。仕事着のままで飛び出して、スマホを置き忘れたことにさっき気がついて。
腹が鳴るのと同時に涙が出てきた。なんでこんなことになっちまったんだと。俺はアイツの怒鳴り声をもう聞きたくないと思っただけなのに。
気がついたら、見慣れた暖簾をくぐっていた。
「おう、いらっしゃい。いつものかい?」
俺の顔を見てくれるのは、この店の大将とおかみさんだけだ。都内に引っ越してきてからは誰も俺の顔なんて見てない。ただの労働力の一人なんだから。
「大将、俺……いや、いつものでお願いします」
「あいよ……なんだい、立ったまま待つつもりか? 座っとけって」
おかみさんがグラスに入った水を置いてくれる。
「さぁ、座って。みかんあるけど、食べる?」
「あ……あの……」
「食べないって言われても置いとくからね。貰っちゃったから腐らせるわけにもいかないし」
どっさりと積まれたカゴごと、木製テーブルの中央に置かれる。
定位置となりつつある、店の出入り口から一番近い、右側のテーブルへと着いた。
静かな店内で、みかんなど食っている場合なのか。
たしかに、ここ2日ぐらい何も食っていなかったから、何かを口に入れたかった。カゴの上からひとつを手にとって、じっくりと見つめる。皮を剥き、ひとつを放り込む。
甘みよりも酸味が際立つ、皮の薄いみかんだ。もう一房を含み、薄皮ごと咀嚼する……甘い、逃げ切るなんて甘い考えだったんだ。
「ほい、お待ち。持ってっちゃって!」
大将からおかみさんへと皿が手渡され、俺の元へと到着する。
湯気を立てる味噌汁は、今日も麩が浮いていた。俺が好きだと伝えてから、だいたいは麩が入っている。
「冷めないうちに、食っちまいな」
ランチ時だというのに人が居ない。隠れた名店というわけでもない。ただ、会社の誰とも遭わずにすむこの空間が好きだった。
ほうれん草のおひたしはいつもより量が多く、かつおぶしで見えないくらいだった。それを箸でつまみ上げたところで、一人の男が音を立てながら、引き戸を開けて入ってきた。
「すみません、いいですか?」
「あー、ごめんなさいね。ちょっとお昼の営業がもう終わっちゃうところで」
「……コッチの男は食ってるが。飲み物だけ頼めないか?」
有無を言わさずその男が、通路を挟んで反対側の椅子へと乱暴に座った。
「なんだよ、こっち見てんなよ」
シワの目立つスーツ姿で、汚れた革靴。俺とは違う世界の人間だ。
目の前の味噌煮へと箸をつける。
「ちょうどうちの当番が終わりそうでね。あー、ビールが飲みたいな……でもウーロン茶で」
「……ちょっと待っててね」
おかみさんが奥のスペースへと戻っていく。大将も見るからに不機嫌そうだ。
さばの上に乗った刻み生姜の一本を、かじる。舌の先がしびれるが魚の風味を消してくれ、次の料理への起点を作ってくれた。かき混ぜた納豆を茶碗へと移し、頬張る。
「……お待たせしました」
グラスに入ったウーロン茶の氷がカラリと音を立てる。それを美味そうに男が半分ほど飲み、テーブルへと置く。
「お前さんが来ると睨んでたんだ」
グラスから視線を男の顔へと移す。穏やかな表情の男は、俺の目を見つめながら続ける。
「なぜ逃げた」
「い、いや……気がついたら逃げていたんだ」
「罪を償う気は、あるのか」
諭すような口調ではあるものの、怒りを含んでいる。
「……あんな男でも、死なせてしまったのは悪いと思っています」
俺が詰まりながら男へと返答すると、大将が割って入る。
「刑事さん、御飯食べてる最中なんですよ。ウチのメシがマズくなったら責任取れるのか?」
「……勘定、置いとくからな」
財布から札を取り出してテーブルに置いた。グラスの残り半分を飲み干すと、刑事さんと呼ばれた男が表へと出る。さきほどのやり取りからして、大将との面識がある。
なのに、俺に定食を出してくれた。
持ち上げていた味噌汁の椀に、波が広がる。
無言のまま、出されたものを胃袋へと収める。
仕事の愚痴を聞いてくれて、朝飯がわりにとおにぎりを持たせてくれたり。
作りすぎたからと肉じゃが入りのタッパーを押し付けてきたり。
俺は、なんで……裏切るようなことをしちまったんだ。
応援してくれていたじゃないか。
あんなにも、辛い時は頼れと。
箸を持つ手が震える。
「大将、ごめん。のこ――」
「いいから、食え」
遮るように、静かに。
箸を再び取り、味噌汁を飲み干す。さばを……最後の一口を、頬張った。
「今日のお代は要らない。ちゃんと償って、また食いに来い。その時までツケにしといてやるから」
席を立ち、二人へと頭を下げる。今まで旨いものを食わせてもらったお礼と、巻き込んでしまったことへの謝罪。
「ごちそう……さまでした」
「……待ってるから、またおいで」
おかみさんの泣き笑いが目に焼き付いた。
引き戸を開けて、待ち構えていた先程の男へと両手を差し出した。