表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ショート 応援定食

作者: 間の開く男

 あの店の味を思い出していた。

 さばの味噌煮定食、650円。

 メインのさばが旨いのはもちろん、味噌汁と納豆、ほうれん草のおひたし。

 大将が「ロクなもん食ってねえだろ」と付け足してくれた半熟卵。

 

 

 安いボロアパートで眠り、早朝に起きて仕事場へ向かう。そんな繰り返しの中で仕事上がりに食う、あの味だけが俺を癒やしてくれた。

 

 憎かった訳じゃない。気がついたら、殴っていた。事務机の角がガコンといい音を立てたから、ざまあみろと。

 動かないから、悪ふざけはよせと揺すって。

 その目はどこか遠くを見つめていて、後頭部から血が流れているのを確かに見た。

 

 どこをどのくらい走ったかなんて覚えていない。仕事着のままで飛び出して、スマホを置き忘れたことにさっき気がついて。

 腹が鳴るのと同時に涙が出てきた。なんでこんなことになっちまったんだと。俺はアイツの怒鳴り声をもう聞きたくないと思っただけなのに。

 

 気がついたら、見慣れた暖簾をくぐっていた。

 

「おう、いらっしゃい。いつものかい?」

 俺の顔を見てくれるのは、この店の大将とおかみさんだけだ。都内に引っ越してきてからは誰も俺の顔なんて見てない。ただの労働力の一人なんだから。


「大将、俺……いや、いつものでお願いします」

「あいよ……なんだい、立ったまま待つつもりか? 座っとけって」


 おかみさんがグラスに入った水を置いてくれる。

「さぁ、座って。みかんあるけど、食べる?」

「あ……あの……」

「食べないって言われても置いとくからね。貰っちゃったから腐らせるわけにもいかないし」

 どっさりと積まれたカゴごと、木製テーブルの中央に置かれる。

 定位置となりつつある、店の出入り口から一番近い、右側のテーブルへと着いた。

 

 静かな店内で、みかんなど食っている場合なのか。

 たしかに、ここ2日ぐらい何も食っていなかったから、何かを口に入れたかった。カゴの上からひとつを手にとって、じっくりと見つめる。皮を剥き、ひとつを放り込む。

 甘みよりも酸味が際立つ、皮の薄いみかんだ。もう一房を含み、薄皮ごと咀嚼する……甘い、逃げ切るなんて甘い考えだったんだ。


「ほい、お待ち。持ってっちゃって!」

 大将からおかみさんへと皿が手渡され、俺の元へと到着する。

 湯気を立てる味噌汁は、今日も麩が浮いていた。俺が好きだと伝えてから、だいたいは麩が入っている。

 

「冷めないうちに、食っちまいな」

 ランチ時だというのに人が居ない。隠れた名店というわけでもない。ただ、会社の誰とも遭わずにすむこの空間が好きだった。

 

 ほうれん草のおひたしはいつもより量が多く、かつおぶしで見えないくらいだった。それを箸でつまみ上げたところで、一人の男が音を立てながら、引き戸を開けて入ってきた。

 

「すみません、いいですか?」

「あー、ごめんなさいね。ちょっとお昼の営業がもう終わっちゃうところで」

「……コッチの男は食ってるが。飲み物だけ頼めないか?」


 有無を言わさずその男が、通路を挟んで反対側の椅子へと乱暴に座った。

 

「なんだよ、こっち見てんなよ」

 シワの目立つスーツ姿で、汚れた革靴。俺とは違う世界の人間だ。

 目の前の味噌煮へと箸をつける。

 

「ちょうどうちの当番が終わりそうでね。あー、ビールが飲みたいな……でもウーロン茶で」

「……ちょっと待っててね」

 おかみさんが奥のスペースへと戻っていく。大将も見るからに不機嫌そうだ。

 

 さばの上に乗った刻み生姜の一本を、かじる。舌の先がしびれるが魚の風味を消してくれ、次の料理への起点を作ってくれた。かき混ぜた納豆を茶碗へと移し、頬張る。

 

「……お待たせしました」

 グラスに入ったウーロン茶の氷がカラリと音を立てる。それを美味そうに男が半分ほど飲み、テーブルへと置く。

 

「お前さんが来ると睨んでたんだ」

 グラスから視線を男の顔へと移す。穏やかな表情の男は、俺の目を見つめながら続ける。

 

「なぜ逃げた」

「い、いや……気がついたら逃げていたんだ」

「罪を償う気は、あるのか」

 諭すような口調ではあるものの、怒りを含んでいる。

 

「……あんな男でも、死なせてしまったのは悪いと思っています」

 俺が詰まりながら男へと返答すると、大将が割って入る。

 

「刑事さん、御飯食べてる最中なんですよ。ウチのメシがマズくなったら責任取れるのか?」

「……勘定、置いとくからな」

 財布から札を取り出してテーブルに置いた。グラスの残り半分を飲み干すと、刑事さんと呼ばれた男が表へと出る。さきほどのやり取りからして、大将との面識がある。

 なのに、俺に定食を出してくれた。

 

 持ち上げていた味噌汁の椀に、波が広がる。

 

 

 無言のまま、出されたものを胃袋へと収める。

 仕事の愚痴を聞いてくれて、朝飯がわりにとおにぎりを持たせてくれたり。

 作りすぎたからと肉じゃが入りのタッパーを押し付けてきたり。

 俺は、なんで……裏切るようなことをしちまったんだ。

 

 応援してくれていたじゃないか。

 あんなにも、辛い時は頼れと。


 箸を持つ手が震える。

 

 

「大将、ごめん。のこ――」

「いいから、食え」

 遮るように、静かに。

 

 箸を再び取り、味噌汁を飲み干す。さばを……最後の一口を、頬張った。

 

「今日のお代は要らない。ちゃんと償って、また食いに来い。その時までツケにしといてやるから」

 

 席を立ち、二人へと頭を下げる。今まで旨いものを食わせてもらったお礼と、巻き込んでしまったことへの謝罪。

 

「ごちそう……さまでした」

「……待ってるから、またおいで」

 おかみさんの泣き笑いが目に焼き付いた。

 

 引き戸を開けて、待ち構えていた先程の男へと両手を差し出した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ