本当の”まるちゃん”
「……あら? ここは?」
「おはようございます、円佳お嬢様」
目を覚ました円佳の耳に、落ち着いた少年の声が届く。
聞き覚えのあるその声にすぐには返事をせず、円佳はゆっくりと身体を起こす。場所は自分の部屋、自分は眠っていたのか布団の上に。
状況把握が終わると、円佳は傍に控える従者に向かってまず素朴な疑問をぶつけた。
「進七郎さん、わたくしはいつの間に自分の部屋に……? というか、どうしてあなたがここにいますの?」
「円佳様は覚えていらっしゃらないのですか?」
「はい? 何をですの?」
「その……俺と混浴をなさった後に、のぼせて意識を失われたことです」
「……はい?」
円佳は一瞬フリーズした。
”ナニソレドウイウイミデスノ? シンシチロウサンニホンゴヲハナシテクダサイマセン?”と思いかけたがそれは心に留めておいて、何とか理性で会話を続けようと試みる。
「え、えーと整理させてくださいまし。まず……わたくしがあなたと混浴をしたのですの?」
「はい」
「何故?」
「それは、円佳様がそう望まれましたので」
「……わたくしが?」
「はい。円佳様がです」
「……」
「……」
二人の間に沈黙が流れ、またも円佳の頭の中では”ナニソレドウイウイミデスノ? シンシチロウサンニホンゴヲハナシテクダサイマセン?”の文字が、それも何度もリフレインするくらいに。
「進七郎さん嘘をつくんじゃありませんわ! わたくしがそんな破廉恥なことを命じるはずがございませんわっ‼」
「嘘ではございませんッ! 俺だって最初は耳を疑いましたともッ! 今晩催された入学記念パーティにて、宴もたけなわというタイミングでッ‼ 円佳様が俺も含めて屋敷の者全員に通達なさったのですッ!! 『この後、わたくしは進七郎さんと混浴致しますわっ! 何人たりとも異論反論、そしてわたくし達の邪魔をするのは断固として許しませんわっ!! もしも邪魔するのであればその者は即刻クビにして市中引きずり廻しをした後に生首を晒させますわっ!!』とッ!!」
「……えっ?」
「間違いありません。円佳様のお言葉、一言一句忘れは致しませんッ!」
「え……ええっ……?」
それまで凛とした威厳のある態度を貫いていた円佳だったが流石に動揺せざるを得なかった。
寝ぼけていたこともあって若干霞がかっていた記憶も、徐々に思い出されていく。パーティ中に間違えてシャンパンを飲んでしまったことから始まった、自分のとんでもない言動の数々。
信じられないという気持ちを抱えたまま歩み続ける記憶の旅は遂に辿り着く。
浴槽内での進七郎との二人きりの混浴タイムに──その瞬間。
「あぁあぁあぁああぁあああぁああああああああああああっっっ!!」
気品や優雅さなど皆無の絶叫を円佳はせずにはいられなかった。
「まッ、円佳様ッッッ!?」
「いやあぁああぁああぁああぁあああああなんでなんでなんでなんでなんでぇええええええっ!? なんで私ってばあぁああぁああぁあぁぁああああっっっ!?」
「お、落ち着いてくださいませ円佳様ッ‼」
突如発狂し始め、布団の上で暴れ回る円佳を落ち着かせようとする進七郎。だが、命令なく身体に触ることは従者としては出来ず、ただ傍でオロオロとすることしか出来なかった。
「ど、どうか御心をお静めくださいませッ‼ 何か悩まれることでもおありなのですかっ!? 俺でよろしければ解決に尽力致しますのでッ‼」
「出来ないってばそんなのーーーっっっ‼ 進七郎君が相手だったらなおさら出来ないよーーーっっっ‼」
(今、また俺のことを進七郎君と……!)
混浴の時も自分のことを円佳がそう呼んだことを進七郎は覚えていた。
つまり、今目の前にいる円佳は”義経院円佳”ではなく、自分がよく知る”まるちゃん”としての彼女で。
何とか落ち着かせるにはそれしかないと今だけは主従関係のことを捨てて、進七郎は行動した。
「やっぱり、まるちゃんなんだねッ!?」
「っ……!」
両肩を押さえ、真正面に回り込み”まるちゃん”と呼んだ進七郎。
そうすることで、ようやく円佳は泣き叫ぶのを止めて面と向かってくれていた。
「う……うん……」
「そう、だったんだね……。驚いた、会うのはちょうど10年ぶりくらいか?」
「そ、そうだね、うんそれぐらいだよ……進七郎君」
この時、円佳が見せた”顔”は、進七郎が最もよく知る彼女のものだった。
普段の生活の中で高貴さと優雅さを伴い、時には高飛車にも思われる言動をしつつも威厳を崩さない義経院円佳の時でもなく。
シャンパンを飲んで恐らく酔ったことでドがつくほど積極的になっていた混浴の時でもなく。
幼い頃に毎日のように遊んでは、よく泣いていた臆病な少女。
毎日のように見た気弱な顔の、本当の”まるちゃん”
今の円佳は、まさに10年前の頃のまま成長したようなものだった。
「まるちゃんにまさか再会できるなんて思ってもなかった。あの時は突然の引っ越しだったから……こうしてまた会えて嬉しいよ」
「そ、そうだね。私も嬉しい。でも、本当にごめんね」
「どうしてまるちゃんが謝るんだ?」
「だ、だって”普段の私”はあんな風に振る舞って、進七郎君に嫌な思いさせてるかもって……」
「そんなことはない! 俺はまるちゃんの”従者”で、まるちゃんは俺の”ご主人様”だ。だからまるちゃんのどんな命令にも俺は従うから……ってわわッごめんッ! 勝手に触っちゃって……というか申し訳ございませんッ!」
「あっ、良いよ良いよ今はそんな言葉遣いも土下座もしなくて。……今の私は、”義経院円佳”じゃなくて、進七郎君のよく知ってる”まるちゃん”だから」
「まるちゃん……うん、分かった」
弱弱しくか細い声と今にも泣きそうな表情の円佳の言葉には、ある種いつもの時以上に従わなければならないような気にさせられる。と、次の瞬間には土下座を止めて進七郎はリラックスした胡坐座りで円佳と向き直していた。
「……」
「……」
「……」
「……」
カチコチと時計の針が進む音だけが部屋を支配する。
再会したとして、何を話せば良いのか進七郎も円佳も途端に分からなくなっていた。とりあえず思い出話に花を咲かせれば良いのか、などと悩んでいた。
だが「あっ」と何かを思い出したかのように進七郎は呟くと、次の瞬間には特に何も考えず円佳に話しかけてしまっていた。
「まるちゃん、お風呂の時に言ってた『好きな人が目の前にいるのにっ‼』って、本当なのか?」
武藏進七郎、15歳、男子高校生。
性格は至って真面目、礼儀正しく熱血漢。しかし少々常識が分からない所アリ。
それ故に……彼は乙女心も知る由もなく。
「──進七郎君のっ……おバカーーーっっっ‼」
直後、円佳の精一杯の罵倒と平手打ちが進七郎に炸裂したのは自明の理であった。