”まるちゃん”
「っ……」
「ッ……」
進七郎も円佳も、互いに困惑して固まってしまった。
(なッ、何をしているんだ俺はッ!!??)
特に感情が荒ぶっているのは進七郎の方で、必死になって鎮めた努力も空しいものになっていた。自身が現在進行形で働いてしまっている狼藉、無礼は皮肉にもそれまで円佳に抱いていた熱情を吹き飛ばしていた。
「あッ……のッ……円佳様ッ……」
上手く言葉が繋がらず、どうしてもたどたどしくなってしまう。加えて、今すぐ止めねばならないと思っているのに彼女の手首を掴んでいる手が離れないことも上手く話せない一因に。
「進七郎……さん」
すると、驚いて瞳を見開いたままだった円佳が口を開く。
”あぁ、従者生活が終わった”と進七郎は直感した。従者が主人に対し良からぬ感情を抱き、両手首を拘束して押し倒すなど言語道断。即刻クビになって当然の無礼である。
もう次の瞬間には「この無礼者ーーーっ‼ わたくしが絶対可憐にして至上高貴なる義経院円佳と分かった上での狼藉ですのーーーっ!? お前のような万夫不当の常識知らずは今すぐに断頭台に掛けた後に鉄の処女の中にぶち込み最後はファラリスの雄牛の中にぶち込んでウルトラ上手に処刑してやりますわーーーっっっ‼」と叫ぶことが分かり切っていた──
「あぁ……やっぱり……カッコいい……」
はずだった。
だが円佳が口にした言葉はあまりにも予想の遥か彼方からやってきた。驚愕と共に頭の中は”???????”が無数に連なり、進七郎は宇宙空間に突然放り出されたような間抜け面となってしまっていた。
「本当に……進七郎君はカッコいいなぁ……」
「あ、あの……円佳様……?」
「良いよ私……進七郎君になら何をされても……」
「い、いや円佳様、先ほどから何を──ッッッ!?」
驚きのあまり、自然と円佳の手首を離していた進七郎。その結果、今度は円佳に逆に押し倒されるという事態に。しかも円佳は押し倒すだけでなく、もう片方の手で進七郎の身体をまさぐり始める。
「まッ、円佳様ッ!?」
「本当になんて逞しい身体……タオル越しにも分かる屈強な筋肉の羅列……一体どれほどの鍛錬を積めばこんな身体に……あぁしゅき……」
「お、落ち着いてくださいッ! 一体どうされたのですかッ!?」
「落ち着いてなんかいられないよっ‼ だって──好きな人が目の前にいるのにっ‼」
その一言はそれまでのどんな言葉よりも鮮烈だった。
円佳の話し方も普段とは打って変わっていて、まるで”普通の女の子”がするようなもので。常に気品と優雅さを持っていた顔も、今は紅潮した上に余裕のないものとなっている。
「好きな人……」
どうにかその言葉だけをリフレインする進七郎。
”目の前”という言葉を組み合わせると、円佳の言う”好きな人”は……どう考えても自分としか思えなかった。
「どッ……どういうことですか……?」
「……まだ思い出せないの……進七郎君?」
「思い出せない……?」
「ふふっ、しょうがないなぁ……」
少し困ったように笑いながら、円佳は両手で自分の後ろ髪を掴み、持ち上げ始める。
そうして出来上がったのは後ろ髪がほぼなく、男子のようなショートヘアに近いような髪型だった。
『──だいすきだよ、しんしちろーくん』
瞬間、進七郎の脳内に溢れ出したある記憶。
アルバムの写真を振り返るようにして次々と浮かんでくる少女の姿が記憶の中を駆け巡って。そうして、進七郎は自然とその名を呟いていた。
「……まるちゃん……?」
義経院円佳の、幼い頃の名前を。
「うん、そうだよ! 私だよ、進七郎君!」
「でも、そんなまさか……」
「もーっ! 進七郎君ってばまだ疑ってるのー?」
「いやそういう訳じゃ……ただ信じられなくて」
「それを疑ってるって世間では言うんだよー! この世間知らずめーっ!」
「ちょっ、ちょっとまるちゃんや、やめっ……!」
ぽかぽかと叩いてくる円佳に為す術ナシの進七郎。
しかし彼女のぽかぽかパンチが当たる度、自分の中にある信じられないという気持ちは消えていく。このか弱く全く痛くないパンチに、この無邪気で幼さ全開のじゃれあいかた、懐かしさがこみ上げてくる。
「ちょっと待ってまるちゃん。じゃあ、まるちゃんは最初から俺が俺だっていうことを知ってたのか?」
「もっちろん! でも進七郎君のことは名前しか分からなかったから、義経院グループの力をちょちょいと使って個人情報を調べ上げて、今年になってようやく居場所が分かったんだ。それで、進七郎君のお父さんと相談して、進七郎君のことを買っちゃった♪」
「さらっと色々とヤバいこと言ってる気がッ!? ということは借金の話は嘘だったのかッ!?」
「ううんそれは本当。進七郎君のお父さんが抱えた2億6千万円の借金は私のポケットマネーで解決して、その代わりに進七郎君を貰っちゃったんだ、ウィン・ウィンの関係だよねっ♪」
「凄まじい裏取引ッ!!」
にっこにこの無邪気な笑顔で話しつつえげつないことをしている円佳に進七郎はツッコミながら戦慄していた。
何せ幼い頃は常に気弱で泣きやすい性格だったのだ。それが、今となってはこんなにも手段を選ばないような豪胆さを持ち合わせるようになったとは進七郎は夢にも思っていなかった。
「……ねぇ、進七郎君」
幼い頃とのギャップに衝撃を受けていた最中、円佳が不意に伸ばしてきた手に意識を奪われる進七郎。
頬を包み込んだ両手で自身を見つめるように、円佳によって進七郎の顔は固定されていた。紅潮した顔はどこか切なげで、進七郎は抗えずに生唾を飲み込んだ。
「私……成長したでしょ? 進七郎君の隣にいれるように……頑張ったんだよ?」
「あ、あぁッ……凄い成長ぶりに気づけなかったくらいだしッ……!」
油断をすると、目線は彼女の顔から下の方にシフトしそうになる。白のスク水があるとは言え、円佳の女性らしさを強調した膨らみは進七郎を誘惑して止まなかった。
(平常心平常心平常心平常心平常心平常心平常心平常心平常心平常心平常心平常心平常心平常心平常心平常心平常心平常心ッッッ……!!)
頭の中で無限に平常心と繰り返しながら、必死に理性を保とうとする進七郎。もし円佳がこれ以上のことをして来たら、その時は──と覚悟すらも決めていた。
「えへへ、そうだよねぇ……しん……しち……ろ……君……」
「……まるちゃん?」
「ふにゃ……ほにゃ……」
「まっ、まるちゃん!?」
しかし、幸か不幸か進七郎の覚悟は杞憂に終わった。
やたらと顔が紅潮していた円佳は、それが進七郎への好きが溢れ出した以外にもう一つ理由があり。実は既にのぼせてしまっていたのだった。
「まるちゃんッ!! 待っててくれすぐに助けるからッ!!」
円佳を介抱すべく、急いで浴場を後にした進七郎。
その後、助ける為にあれやこれやと鋼の精神力が求められたのは言うまでもなかった。