第9話 私だけのヒーロー
彼女の家は名士の家系だった。とても裕福であり幼いころから最高の教育を施されたが、両親は柔軟だった。与えたノルマをクリアできればそれ以外は娘の自由にさせた。そのノルマが常人からすればとても厳しいものなのだが、その娘は天才だった。簡単に両親の期待に応え、地元の野球クラブに入る許可もすんなりと得ることができた。
『木谷都』、その誰もが羨む人生はスタートからまさに完璧だった。
漫画やアニメも自分の好きなものを選んで楽しめた。そこで彼女は自分のヒーロー像を完成させた。一昔前の流行りで、落ちこぼれの主人公が努力と根性だけでエリートたちを倒していく、実は良血だったとか並外れている才能を持っていたとかは一切ない、不器用で泥臭い、最後は夢を叶える主人公に憧れていた。
だから生まれつき恵まれた環境で育ち苦労することなく何でもこなせる自分は永遠にそのヒーローにはなれないと悟った。
成功が約束された人生、常に花形の世界で生きるよりも、誰の目にも留まらない地の底、どん底から這い上がって大空に輝く星を掴む、そんな存在を素敵だと思っていた。
(……そんな人間、いまの時代にはいないってわかっているけれど)
彼女の周りには自分と同じような最初から成功者の仲間しかいなかった。幼稚園から高校に至るまで、級友やチームメイトたちはいずれも憧れの対象から程遠かった。
『打った―――っ!4番の木谷、これで二打席連続のホームラン!10-0!まだ三回、しかし試合の大勢は決しました!おそらくはコールドゲームとなるでしょう』
ならば対戦する敵のなかにそのような人物がいるのではないかと探し続けたが、彼女を満足させるほどの者は現れなかった。どんな投手も一度打席に立てば打てるようになり、どんな強打者もすぐに弱点を見抜いて自慢の頭脳で手玉に取った。
自分のヒーローやスーパースターは創作の世界にしかいなかったのだと諦めの気持ちが勝るようになり、大学進学後は野球を離れようと決めていた高校三年、夏の地方大会準々決勝だった。
「なにあの子?応援の子どもが間違えて紛れ込んだ?」 「それとも珍獣?くすす」
これまで対戦したチームと同じだと思っていた。どこにでもある公立校。その投手は小学生の平均身長程度しかなく、顔からも知性の欠片も感じ取れない。体力だけが自慢なのか、五回戦では再々試合44イニングを一人で投げ抜いたのだという。一回戦から合計すれば1000を超える球数を放っている。ここが限界だろう。
早々に滅多打ちして楽にしてやろう、その程度の気持ちで彼女は試合に臨んだ。
(もしこれが漫画のストーリーなら…皆から馬鹿にされ蔑まれる主人公が無名のチームを率いて超名門校を打ち倒す。でも現実は……粉砕されて骨しか…いや、骨も残らない)
『4番、キャッチャー…木谷さん!背番号、2』
初回から二失策と四球で無死満塁。全国大会でのエリートたちに比べたらこれといった武器もない凡庸な投手。引導を渡すのに絶好の機会がやってきた。
「うおおおお――――――っ!!」
「…………!!うっ……!」
完全に力負けした。詰まらされて、浅い外野フライ。ところがその打球をセンターがヘディングしてボールは無人の外野を転々とする。彼女も本塁に生還して試合を決定づける4点が入った。だが、バッターとしてはこれ以上ない敗北だった。
(なぜ?打ちごろの球すぎて無意識のうちに焦ってタイミングが狂った?)
いつも通り最短でコールド勝ちするにしてもあと二回は打席が回ってくる。勝敗はもう決したとはいえ後味の悪いものを残したくない。絶対に打ち砕くと決めた。
『ストライク!バッター……アウッ!』
「…………!!」
ところがその後3打席、生まれて初めての三連続三振を喫した。通算打率が7割を超える彼女にとってこれ以上ない屈辱だった。4-0からスコアは動かず、あの小さな投手を嘲っていた仲間たちは苛立ちを隠せずにいた。
「背が低すぎて打ちにくいったらありゃしない!投げてる球は大したことないのに」
「エラーでランナーは出てるのに……あんな学校相手に九回までやらなきゃダメなの!?」
彼女は気がついていた。あの投手は4点を失った後、開き直ったのか投げっぷりが見違えてよくなった。そしてスタミナ型の投手なのだろう、球威も尻上がりに増している。だが、それでも彼女の100%には遠い。恐ろしい事実、そして残酷な運命を彼女は知った。
(……ストレートと…ただのスローボールしか投げていない!球種はたった二つ!)
敵チームの捕手は彼女から見れば素人同然だ。あの投手の球を満足に受けられないのだ。表示される球速では測れない、魂の乗ったストレートを捕るのが精いっぱいでそこに変化球なんて混ぜたらもうどうしようもないのだろう。もしあのストレートに一つでも別の球種があれば……これ以上の投手はこの先甲子園の決勝までいないことだろう。
そして五回目の打席、おそらく最後の勝負だ。彼女の心は希望に満ちていた。あれこそ私が探し求めていた私のヒーローではないか。この試合であの投手の高校野球は終わる。
しかし本番は先、真のシンデレラストーリーはまだ未来に続いているのではないか。その真価を確かめたい。精神を限界まで集中させてバッターボックスに入った。
「うおおおおぉぉぉ~~~っ!」
吠えながらど真ん中にひたすら全力の直球を投げ込んでくる。まさに昭和の漫画の主人公。その姿に彼女はすっかり魅せられていた。だからこそ打ってやる、球筋を見極めた。
(………来たっ!ジャストミート!おそらくはレフトスタンド………)
ホームランを確信して振り抜いた。その瞬間、両腕を強烈な痺れが襲った。
「あぐっ!?」
金属バットが折れるんじゃないかという衝撃だった。力のないゴロが投手前に転がる。
(……凄い!きっとこの人は………!)
一塁に走ることもせずその姿を見つめていた。そしてとどめは九回裏ツーアウトから、
『打った~!どうにか初回の4点で凌いでいた太刀川、ソロホームラン!あまりにも遅すぎる反撃ですが……これが令嬢実業今大会初の失点!一矢報いました!』
恵まれているとは言い難い小さな体から大きな一発。これで彼女は確信した。とうとう私のヒーローが見つかったと。そしてヒーローと同じ世界で生きたいと思った。
大学への進学は予定通り、しかし野球を中心にするという点で両親と衝突したが、春夏甲子園連覇の肩書が世間を味方につけ、両親が折れた。ここまで来たなら日本一の女子プロ野球選手を目指すのもよいのではないか。むしろ本人がその気なら極めなければ勿体なさすぎる。
(私にとって日本一もプロでの成功もどうでもいい。全ては『太刀川みち』のため…)
憧れの女は横浜ブラックスターズからドラフト7位で指名されていた。甲子園優勝のメンバーたちのなかで太刀川が一番の投手だったと言うのは彼女、木谷都しかいなかった。しかし決して揺らがない自信がある。自分が四年間の大学生活を終えるときには必ず横浜のエース投手になっているだろうという確信があった。
後に都はこのことで嘘をついた。みちへの屈辱を晴らすためにプロに、それも横浜以外のセ・リーグ5球団に入るつもりだったと語ったが、すでにみちに惚れ込んでいる都にみちの敵になるという選択肢はない。その活躍を最も近い場所で見ることだけが願いだ。
横浜がみちを獲得したのも、あの木谷都を唯一完璧に完封したという結果だけを基にスカウトが推したもので、都が言うような金属バットすら折りかねない魂を乗せた剛球、そんなことを口にする者はいなかった。VTRを何度見せたとしても都ほどみちを高く評価する人間は出ないと言い切れる。実際にその球を目の前で見たとしても。
(……数字やデータじゃ絶対にわからない。そして私が受けることで完成すれば……)
どんなときでも表情を変えずクールに対応する。その頭には膨大なデータが収納されていて、常に確率に基づいたプレースタイル、世間は都をそう評価する。それは正しく、感情や不確定な勘に頼ることはほぼない。
しかしただ一人、太刀川みちに関してだけは都は己の熱い思いに動かされ、見えないものを信じてそれを希望の根拠とし続けた。そして自分が捕手となることでみちは横浜のエースから日本のエースとなれるとも確信して疑わない。互いに重い故障さえなければ…そう思っていた最初の春だった。
【キャンプ便り】横浜は昨年のドラフト7位入団の太刀川みちの登録を投手から捕手に変更すると発表した。明日から二軍捕手陣に合流予定。
「……………は?」
ドラフトの前後で球団買収があり、新しい経営母体は即戦力となる選手を求めた。人気が低迷していたチーム、すぐに改革しなければ赤字体質から抜け出せない。当時は投手の数が余っており、逆に捕手が足りなかった。そこで経験者であり肩は強いだろうというみちをすぐに捕手に転向させたのだ。
この時点で球団はルーキーのみちをすでに見限り、二軍の試合成立要員、将来のブルペン捕手や裏方という存在になるよう事を進めていった。みちのような素材型の選手は皆それから三年以内で解雇され球界を去っている。
「………出場は………今日もなし」
ドラフト下位の選手の野手転向など大して話題にならなかったが、都は様々な人脈を駆使してその全容を知った。チームに対して大きな怒りを抱いたが、故障ではないことにひとまず安心し、みちを追いかけ続けた。最初の一年半は二軍ですらほとんど出場できず、その後も二軍で時々試合に出るか一軍でベンチの肥やしになるかのどちらかだった。それでも打撃も非凡だったみちがいつかその実力を見せつけると応援を続けた。
「…………」
都はだんだん失望していった。あれだけ輝いていたみちが、すっかり覇気のない顔になり何も成し遂げていない現状に満足している。これから先何かを起こしそうな気配もなく、同じ捕手である自分が入団すればプロで居続けることすら危うくなるような体たらくだ。
(もうやめる?諦める?………いや………こんなときだからこそ私が……!)
都の愛した漫画のヒーローたちには挫折と復活があった。何でもすんなりとはいかず、地の底まで落とされたとき、親友やライバル、ヒロインに助けられて再び這い上がる。
(私がその役になればいい。でも私がなるべき立場は……)
都はまたしても自分を偽った。みちのためとはいえ、悪役を演じた。みちの四年間を全否定し、自分が軽々と超えてみせることで完全なる敗北感と屈辱をプレゼントすると言い放った。そのためにわざわざ横浜に入団したとも。実際にはいつも彼女のすぐそばにいたい、あの輝きを取り戻させるためどんなことでもしたいという気持ちだったのに。
「………ん?何かおかしいことでも?」
「ええ。だって世間のくだらない噂だと思っていた内容が真実だったのですから。張田さん、あなたが声が大きいだけの実は勉強不足も甚だしい老害……私は信じてはいなかったのですが……あなたがご自身で自らそれを証明してしまった」
「……何ですって!この無礼な小娘……!」
「あなたが聞いたこともない変な捕手と言い放った彼女が今日……必ずチームを勝利に導きます。今はまだ眠っている真の力が目覚めたらこの私よりも遥かに高みに立つ選手になるでしょう。おそらく3000本以上ヒットを打ったあなたよりも」
どうせ自分の悪口や文句を言い合うのだろうとみちが足早にその場を離れた後、都は球界の超大物を痛烈に非難した。ヒーローを侮辱されたからだ。プロ五年目にして掴んだ初のスタメン、これ以上に再び輝きを増し熱く燃え上がるチャンスはない。
(今日が勝負……何としても結果を出さないと次はないかもしれない)
六回の守備が終わりベンチに引き上げてくると、みちはすっかり仕事をやり終えた顔で今日はここまで、と弛緩していた。打席が回ってきても必ず代打を出されると。それに対し都は、打順さえ回ってくれば絶対に出番があると強く語った。ありえないことのように思えたが結果は都の言う通り、2アウト一、三塁のチャンスでみちは打席に立った。
都はラメセスの思考を完璧に読み切っていた。勝負師としての女の閃きで代えなかった、もしくは都のようにみちの潜在能力を見抜いていたのか。そのどちらでもない。監督は今日の試合の責任を全てみちに押し付けようとしている。決して責めるような言葉は言わないだろうが、現在セ・リーグ最下位、しかも連敗中だ。選手が悪いという雰囲気を演出すればファンは誤魔化せなくても素人揃いの馬鹿な親会社は騙せるだろう。
(……監督もコーチもふざけた連中だ。だけどここで決まるのは確か!)
みちもそれはわかっているはずだろう。なのに打席に立つその顔を見るとこの期に及んで頼りなく、打てっこないよと言わんばかりに簡単に追い込まれた。そのとき都はベンチの一番前に立って身を乗り出し、気がつけば人の目も気にせず叫んでいた。
「そんな覇気のない顔で打てるわけないだろ―――っ!!」
頑張れと応援するのではなく、厳しい言葉で突き放す。嫌われても構わなかった。
「だからあなたの四年間は無駄だと言ってやったんだ!こんな腐れたチームのベンチにずっと座り続けていたせいですっかり負け犬だ!さっさと三振して横須賀に帰れ!」
やめるように促されても都は止まらない。作り上げたクールなイメージとは真逆の行動だ。
「それが嫌ならあなたの輝いていた日のことを思い出せ――――――っ!私を虜にしたあの日……あの神宮での最後の打席のあなた自身を―――――っ!!」
プライドや怒り、そこを刺激することに全てを賭けた。その後も大声で叫び続ける。これまでずっと静かすぎるほどだったのに急にどうしたんだと皆がすっかり驚き戸惑い打席のみちのことなど忘れているなか、都だけはみちの姿だけを追っていた。
そしてミルルトの大川が放る3球目、この試合のちょうど100球目が手から離れる寸前、みちの全身が光り輝くのを見た。紛れもない真のヒーローだけが纏う黄金のオーラを。
「いけぇぇえええ――っ」
(………!!あ、あの光は………!)
打った瞬間、入ったとわかる逆転のスリーランホームラン。信じられない事態に大観衆は沈黙し、しばらくしてからこれが現実だと知り歓声や悲鳴が神宮の空に響き渡った。
『これが太刀川のプロ初ヒット!しかし落ち着いた様子でベースを一周しています』
その途中で都は静かにお祭り騒ぎのベンチからいなくなった。勇姿を見届けず、みちがベンチに戻ってきた際のハイタッチも放棄して向かった先は、誰もいないと確認してから入ったトイレだった。個室に入るのも間に合わず、洗面台の前で彼女は両手で顔を覆い、体を震わせて涙を流す。心が震え、胸が熱くなった彼女の涙と嗚咽は止まらなかった。
「…………私の……私だけのヒーロー……スーパースターが………」
ついに完全復活した。ここからが真の始まりだと思うと喜びの涙がいっそう溢れた。
『ペンギンズ、ピッチャーの交代をお知らせします。大川に代わりまして………』
わたしに打たれたことがとてもショックだったのか、大川は自分から降板していくように見えた。ミルルトのブルペンが大慌てで準備を始め、まだ肩ができていないリリーフが何とかマウンドで仕上げようと必死で調整している。
「……あ、木谷さん。さっきは………」
どこかへいなくなっていた木谷さんがわたしの隣に戻ってきた。わたしを見下しているから先にホームランを打たれて悔しかったんだろうと先輩たちは不在の理由を口にした。
でもほんとうにわたしの凡退や二軍落ちに期待していたならわたしに力を与えてくれるようなことをするわけがない。戦況を黙って眺めていたはずだ。
「いいバッティングだった。ただしこれで満足し慢心していてはあなたが愚かであるという私の考えは変わらない。継続する必要を認識し緩んだ気持ちを引き締めなさい」
「……あ、うん。わかった。顔に出てたかなぁ、やっぱり……」
相変わらずとげがある。まだまだわたしをライバルとは認めてくれていないのかな?一言だけ言うとまた立ち上がってスタッフの人と何かの話をしているようだった。
「……忙しいんだなぁ。データの回収や球種の確認かな?」
「……………」
その様子を石河さんは何かを知っている目で見つめていた。でもヘッドスライディングで汚れた顔を洗うからとすぐに裏に下がってしまったからそれを聞くことはできなかった。




