第5話 投手の思い出
近くに川が流れる都立『今和野高校』、女子野球界では無名の公立校。その野球部でわたしは一年生のときからずっとレギュラーだった。いろんなポジションを守ったけれど、三年目の夏、わたしは背番号1を背にする投手になった。
「太刀川がピッチャーかぁ…今年はいつも以上に期待できないな」
「野球以外何のとりえもないやつだけど主役って感じじゃないもんな」
高校…いや、小学校のときからずっとクラスの背の順では最前列だった。高校三年生になってもいまだに小学生と間違えられる童顔と身長。こんなのが全国でも特に激戦区の西東京選手権のマウンドに立てばスタンドからは変な笑いが沸き起こった。その笑いが勝利を重ねるたびにだんだんと歓声に変わっていったのがとても誇らしかった。
『本日の第一試合、ゲームセット!都立の今和野が大金星!シード落ちしていた強豪校大京高校を1-0で下して五回戦進出です!強打の大京たったの2安打で敗退!』
わたし自身、今年は三年間で一番手応えがない、早々に敗退してもおかしくないと考えていた。チームメイトも同じで、それが緊張せずに戦えた大きな要因だ。四勝してあと一勝すれば神宮球場での準々決勝という五回戦の戦いも思い出深い一戦だった。
『試合終了!延長十五回、ついに両校無得点のまま!再試合となります』
『何という壮絶な戦い!今日も……決着はつきません!明日再々試合です!』
二日間、30イニングの攻防で全く点数が入らなかった、農林女子高との試合。わたしは一人で投げて、相手は二日間で11回継投した。そして三日目、この日も延長十四回表まで互いに0行進だった。このときタイブレークなんてまだなかった。
『ああ~っ!!抜けた抜けた!いつかは終わりがくるとはいえついにこの瞬間が!最後はエースの太刀川が自分で決めました!延長十四回裏、三日間合わせて44イニングの死闘に決着!農林女子ナインはもはや敗北のショックというよりはやっと終わったという安堵から次々と地面に座り込んでいます!』
わたしの自慢は頑丈な体と無尽蔵のスタミナ。ここまですべて一人で投げ切って、五回戦では三試合540球投げてもまだまだいけそうだった。監督も先生も仲間もわたしの体力は知っていたから何も心配していなかった。仮に事故が起きても野球しかないあいつなら野球で死ねたら本望さという物騒な声もあった。
「よ――――し!ついにベスト8!神宮球場だ!」
「一日休みがあって助かった~……死んじゃうよ。それにしても何でいちばん疲れているはずのあんたがいちばんはしゃいでいるのやら」
わたしだけは元気とやる気が有り余っていた。それもそのはず、わたしにとって神宮は最終目標、甲子園なんてどうでもいいから神宮球場で野球がしたかった。
外苑ミルルトペンギンズ。神宮を本拠地とする女子プロ野球のチームで、わたしはミルルトの熱狂的なファンだった。ファンクラブに入って試合もたくさん見に行って、二軍の選手の顔と名前までしっかり覚えていた。ちなみにラメセス監督も若いころ数年間所属していて、わたしはその打撃フォームをよくまねした。
「………うげっ……すっごい応援団の数。それ以外の観客も……」
「全然違うわね。ここまで凄いだなんて……」
準々決勝、わたしたちの対戦相手は春のセンバツ優勝、西東京どころか全国最強『令嬢実業』。これまでの試合をすべて10-0でコールド勝ちしている。二回までに10点取ってあとは流して五回コールドという圧倒的な内容だった。
プロが注目する選手も数人いて、特に期待されていたのが正捕手で主砲の木谷さんだった。高校通算50本塁打、打率は驚異の7割越えで、捕手としての能力もすでにプロ級だった。
「あわわわ…カメラがこんなに……」
日本中からマスコミが駆けつけている。仲間たちはすっかり体が硬くなってしまった。わたしは別の理由、あこがれの神宮のマウンドに立てたという喜びですっかり舞い上がりやはり平常心を失っていた。こうなると勝負はやる前から決まっていた。
「捕った!セカン……ああっ!!」
先頭打者をサードのトンネルで出塁させると、送りバントの打球をわたしが二塁封殺を欲張って悪送球。3番には四球であっという間にノーアウト満塁の大ピンチを迎えた。
『4番、キャッチャー…木谷さん!背番号、2』
場内の歓声が最高潮に達した。甲子園を沸かせた怪物との対決だった。どんな好機でも窮地でもクールなのが彼女の持ち味なら、気合を白球に注ぎ込むのがわたしの武器だ。その初球、わたしは三人のランナーを無視してワインドアップで全力の速球を投げた。
「うおおおお――――――っ!!」
「…………!!うっ……!」
木谷さんのポーカーフェイスが苦悶に歪んだ。完璧に詰まらせて浅いセンターフライだ。
「よし!センター…………んんん!?」
ところがセンターの三宅さんの動きが変だった。いや、わたしたちは全員おかしかった。落下点まできたはいいけれどグラブを伸ばす手がぎこちなく、周りもそれを指摘せず、
『うわ~~~~っと!センターがヘディング!打球は跳ねて転々としております!カバーも遅い!三塁ランナー、二塁ランナー続けてホームイン!そして一塁ランナーも、いや!なんとバッターの木谷までもが三塁を蹴ろうとしているぞ!』
「終わった……やっぱり初回で終わっちゃった」
一回表、3失策と1四球で4失点。勝敗は完全に決まってしまった。堅守の令嬢実業から4点取るのはまず無理で、それがわかった瞬間わたしは落ち着きを取り戻したのだった。結局試合は4-1、何事もなくわたしたちの最後の夏が終わった。
令嬢実業、略して令実は準決勝を10-0、コールド打ち切りがない決勝では25-0の大差で西東京を難なく勝ち進み、その勢いで甲子園大会も制覇した。
「まさか木谷さんがわたしたちとの試合なんかを覚えてたなんてちょっと驚いた。小学生みたいなちんちくりんが投げていたから面白くて記憶に残った…とか?」
「ふざけないで。確かにあの試合で勝ったのはわたしたち。でもあなた以上に輝いたプレーヤーは他にいなかった。たった一人で一回戦から投げ続け、再々試合までこなした直後とは思えない球威……二回以降は完全に沈黙させられた」
あの後もわたしを含めて今和野ナインはミスを重ね、8つもエラーを記録した。それでもどうにか失点は許さなかった。1点だけでも返せたのもよかった。
「あなたは151球投げて被安打は2、それも内野安打と記録にならないミスによるもの。この私が5打数ノーヒットだった試合なんてあれ以外にない」
「たまたまだよ。スコアは接戦だったけど初回で決まったなって空気が球場じゅうを包んでいたし、終盤までもつれていたら木谷さんだって打っていたはず」
「……あなたはまだ私をなめている。レベルの低い捕手しかいなかったせいでストレートとスローボール以外は投げられず、しかもコースも攻められない……そんな劣悪な環境で投げていたあなたの球を私は打てなかった」
確かにわたしはその二つ以外の球種をほとんど使わなかった。ボールを逸らしても問題ない場面でだけ、攪乱させるために変化球を放って相手の読みを狂わせた。振り逃げを避けるために決め球は必ずストレートだった。それでも打ち取れた。そんなものは自分でも認める通り、偶然に過ぎない幸運だったのだと思う。
「甲子園で優勝して高校野球の日本代表に選ばれても私の心は晴れなかった。あなたの球の重さと伸び、それに完敗したことがいつまでも残っていたから。私はもともと高校で野球は終わりにして学業に専念するはずだった…だけどその人生設計を狂わせたのが秋のドラフト、あなたのプロ入りだったわ!」
わたしはドラフト7位、投手として指名された。木谷さんはプロ志望届を出さなかったから指名の対象外だった。大学野球の世界に向かうのだろうと思っていたけれど、まさか野球を続けないつもりだったなんて。しかもわたしがそれを翻すことになった理由だなんて。
「両親を三日三晩かけて説得した。家を追い出されても構わないから大学でも野球を中心に活動し、四年後はプロに入ると宣言した。あなたとの決着をつけない限り私の人生は常に曇ったままの気分が晴れないものになるという確信があったから」
こういう天才の考えというのはわたしにはたぶん一生理解できない。わたしは野球以外に何もできないからプロになれてほんとうによかった。でもプロのなかには野球じゃない他の何をやらせても成功できそうな天才がいて、こんな発言を残している。
「サッカーもバスケもテニスも、すぐに一番になれたからつまらなかった。だけど野球はちゃんと練習しても常に上がいた。だから野球をもっとやりたくてプロになった」
苦労せずにナンバーワンになれるのならそれでいいのにと思うのは凡人の発想なのかな。木谷さんもわたし相手にたまたま打てなかった試合の記憶が大活躍した数十試合のイメージよりも大きくなってしまったんだ。もしかすると完璧主義なのかもしれない。
「私が大学を卒業するときにはあなたは必ず横浜のエースになっていると信じた。横浜以外の5球団のいずれかに入団すればあなたとの対戦の機会に恵まれる。あなたに勝つため……それだけのために私は野球を続けた!それなのに!」
「…………」
「最初のシーズン……開幕前にあなたは捕手になっていた……一度も登板せずに」
そう、わたしは入団してすぐに捕手に転向した。肩を故障したとか投手として重大な欠陥が見つかったとかいうわけではなく、もっとくだらない理由でそうなった。ドラフト下位の無名選手だけにそれが公になることはなく、おそらくこの先ずっと語られることはないと思われる。語る価値もない話だからだ。
「とてもショックだった。知り合いや親の力を借りて真相を知ろうと走った。そして横浜の関係者から話を聞いたとき……怒りを抑えるのにどれだけ自分の感情を殺さなければならなかったかあなたには絶対にわからない!」
「………知っていたんだね」
「捕手の数が足りないから一番若くてしかも頑丈そう、肩も強いあなたを適当に選んで投手をやめさせた!それをあなたも簡単に快諾した!ふざけているにも程がある!」
これには複雑な背景も関わっていた。実はわたしが指名されたドラフト会議の直後でチームの親会社が変わったのだ。身売りするかもという報道は事実だった。そのため契約を残していた当時の監督やコーチも解任され、ラメセス監督が新たに招かれた。当然チームの方針も変わったことと、FAで正捕手の愛川に移籍されてしまったことなど多くの条件が揃い、わたしに声がかかった。
「……太刀川、旧体制の編成部はきみを数年後戦力になる素材として指名した。だが新しい会社はすぐに結果が出る選手を欲している。おそらく選手の枠の関係できみはすぐに戦力外か育成契約になるだろう。たった三年程度も待てない連中に違いない」
「………いまのわたしでは即戦力にはなれません。去年の成績を見ても、いまの横浜は投手のチームです。先発、中継ぎ、抑え。どこにもわたしの入る場所はないです」
「そこで……これは提案だ。強制ではない。愛川がFAでいなくなって、期待していた峰も手術でしばらく使い物にならない……しかも引退後もチームに残る方法があるというのなら……話だけは聞いてみたくないかね?」
その後わたしはすぐにキャッチャー転向を受け入れた。中学でも高校でも経験があったし、全く一からのスタートじゃなかった。投手としては必要とされていないし期待も薄そう。でも捕手ならすぐに力になれる(二軍の試合を回すための人員だけど)。木谷さんたちと違って引退したら毎日の食べ物にも困るであろうわたしにはブルペン捕手という仕事も魅力的だった。もしあの勧めを拒否していたらとっくに球界にいなかっただろう。
「前の親会社…ほら、あのテレビ局だよ。そのときは将来の戦力として高校生をたくさん指名した。でも今のところになってからは大卒と社会人ばっかりでしょ?即戦力が求められている。不確定な将来の主力候補なんていらないんだよ。木谷さんみたいにいきなり活躍が期待できる……すでに完成された選手が」
「……それはわかっている。だからコーチたちも育成よりもコンディション維持が上手な人間をこのチームは一軍も二軍も揃えている。伸び悩んでいる選手には根気よく指導するのではなくフォーム改造などで一発逆転を狙っている」
この間まで本格派オーバースローだった先輩が久々に見るとサイドスローになっていたり、内野守備でミスが続く選手はさっさと外野に回したり、時間をかけて問題を解決というよりはその場しのぎでうまく立ち回る道を選び続けているチームだった。
「まあでもそれでうまくいっているし…大筒さんもサードからレフトになってからホームラン王になった。いまの中継ぎはほとんど元先発の人たちだし配置転換は成功しているって言えるんじゃない?」
「それは去年までの話でしょう。今年の惨状は一軍のベンチに座り続けているあなたが私よりも詳しいのでは?細かい野球をあきらめた結果が大振りしかできない打線、本職ではない中継ぎ投手はたいてい故障と不調に悩み、優秀な指導者はいない。粗の目立つ采配や選手起用に不満を抱く選手も増え今回のような事態に至った。どれも全て試練から目を逸らし逃げ続けた者たちの当然の末路で、同情の余地はない」
詳しいファンですらそれくらいの意見を出すのだから木谷さんがそれを口にしても別に驚くことじゃない。光莉さんも言ったように、チームは壊れつつある。放っておくと取り返しのつかない暗黒期を迎えるかもしれないところまで片足が入っている。
そう、ここまでは普通の意見だ。木谷さんが特殊なのはここからだった。
「そのなかでも一番の失敗、醜態を晒しているのは他でもないあなた!」
チーム低迷の原因はたくさん挙げられているけれど、わたしをその一番手として非難するのは木谷さんくらいだろう。彼女は声を大きくして話を続けた。
「あなたは競争から逃げて安楽な道を選んだ!このチームではない、あなたが自ら将来一流になる可能性よりもずっと二流で生き長らえる生ぬるい選択をした。その結果が第三捕手、ろくに試合に出られず経験すら積めない現状だ!これを無様な醜態だと認めないというのなら余程おめでたい脳味噌なのでしょうね!」
「……それは違うよ。わたしと同じドラフトで指名された人の半分はもう引退している。一度は一軍のスターになった砂川さんだって育成に逆戻りだ。投手時代のわたしよりもいい球を投げていていまのわたしよりも打てる人たちがチームから追い出されたんだ。あの日の決断は正しかったという気持ちは揺らがないよ」
「……………論ずるだけ時間の無駄ね。ほんとうは投手に未練があるというのならまだ救いはあった。こんな小物になり果てたあなたにもう用はない。最初に言ったようにあなたから学ぶものは何もない。部屋に戻らせてもらう」
確かにこれ以上わたしが何を主張しようが聞く耳を持ってくれない感じだ。仕方がないから最後に気になっていた疑問だけダメもとでぶつけてみよう。
「わたしのいないセ・リーグ5球団に入りたいと言っていたね。でもいま木谷さんはわたしと同じ横浜にいる。競合必至のはずが他球団からの指名は一つもなかった。あなたが裏で横浜以外を拒否していた、そういうことでいいんだよね?」
「……頭の出来が悪い女だと思っていたけれど少しは賢いところもあるみたいね」
失礼な物言いにわたしは頬をぷくーっと膨らませて怒っているとアピールした。でも彼女のわたしへの怒りは四年間の積み重ね、この比じゃなかった。
「でもなぜ私が横浜を選んだかまではわからない…だからあなたは愚かしい。私はあなたに勝つという目標を捨てていない。ポジションが同じになったというのなら同じチームに入団し、打撃、守備、リード、記録その他あらゆる点であなたを圧倒し劣等感を抱かせる。私に勝てる要素など何一つないと敗北を認めさせるために、他11球団からは決して指名されないように働きかけて彼らに念書も書かせた」
「………うへぇ」
「あなたが私を上回っているのはすでに記録だけ。五年間で10試合程度の出場、死球による出塁1、盗塁1、打点1。明日から私が一軍に昇格することで唯一のあなたの誇りも無価値であったことが明らかになる……楽しみにしていなさい。絶望と敗北の海に沈んでそこで自分の愚かさを歯ぎしりしながら悔やむといい!」
怒りだけじゃない。苛立ちや憤り、失望や悲痛に憎悪、いろんな気持ちをわたしにぶつけて彼女は去っていった。残されたわたしは呆然とするだけだった。
(木谷さんとはレベルが違いすぎるから追い越されたところで当然なんだし屈辱や劣等感なんてこれっぽっちもないんだけどなぁ。最初からむこうが上なんだし)
彼女の思い違いを心のなかで指摘しながらも、あの頃ほど燃えていない自分にも気がついた。そして明日からは交流戦前最後の三連戦、ミルルトとのゲームだ。相手の本拠地、あの神宮球場が舞台だ。
今和野高校 (都立高校、共学)
みっちゃんの母校。元ネタの高校は都立のなかでは強いが、この今和野高校は弱小。プロ野球選手もみっちゃんしかいない。みっちゃんが入学したときにはすでに亡くなっているが、伝説のロック歌手が卒業生であり、みっちゃんは彼の歌を登場曲にしている。晩年に作られた名曲で、気分が沈み自信をなくしたときに、もう一度高くJUMPする気持ちにさせてくれる曲。
元になった学校……東京都日野市にある公立高校。現役のドラフト1位投手が卒業生にいる。その他の卒業生にあの大物俳優や2020年を騒がせたあのお笑いコンビなど。
令嬢実業高校 (私立高校、女子校)
木谷都の母校。もともと強豪校だったが、都がチームの中心となったときから無敵のチームと化す。定期的にスターが登場し、野球を知らない人々でもその選手はわかるという『フィーバー』が起こるのはだいたいこの高校。
元になった学校……東京都国分寺市にある私立高校。共学。OBには野球関連だけでも超有名な名前が並ぶが、21世紀以降の卒業生たちはプロで活躍できていない。




