第192話 格の違い
無名の公立校から現れた怪物投手として注目された甲子園のスター、高井聖子。ドラフトは数球団による競合1位、入団した外苑ミルルトペンギンズのファンだけでなく、他球団ファンや野球に興味がない人たちにも応援されるアイドルだ。
『プロ生活の最初から皆に期待され成功が約束されているといっても過言ではない高井聖子、愛称ハイセイコー!その壁となるか、太刀川みち!』
『太刀川は高井とは違い、入団直後はまるで期待も注目もされないまま数年が過ぎた選手です。昨年活躍し一気にチームの顔になりましたが、いきなり大人気の高井を敵視しているかもしれませんね』
負け惜しみや強がりではなく、ほんとうにわたしはハイセイコーのことをそこまで意識していない。下位打線の池田や戸橋のほうがずっと気になっているくらいだ。
同じ西東京、無名の都立高校で投手。共通点はそんなものだし、年齢も離れている。もし何かが違ったらわたしもハイセイコーみたいになれていたとも思わない。
「ハイセイコー!今度は勝って―――っ!!」
「野球でも勝てばそいつはお前に何も勝てなくなるぞ――――――っ!」
本人たちよりも周りが盛り上がっている。みやこも試合前からハイセイコー人気に過剰反応だった。
『ものすごい熱気!高井聖子抑えるか、太刀川みち打ち砕くか!』
いくら闘志や根性で勝負するわたしでも、この異常な空気に影響されすぎたら空回り、明らかなボール球に手を出して終わりだ。ちょうどいい気合いを保つ、そう自分に言い聞かせた。
「ボール!ツーボール!」
「………!はっ、はっ…」
気持ちのコントロールがうまくいっていないのはハイセイコーのほうだった。わたしの頭より高い球、叩きつける球で2ボール。わたしが冷静さを欠いていたとしてもさすがに振らないようなどうしようもない制球ミスだ。
『ストライクが入りません!これでは………』
『歩かせたほうがいいですね。太刀川との勝負に固執する必要はありません』
昨日の棚橋もみやこに四球を与えたあと、わたしに打たれている。簡単に諦めていい状況じゃないとしても、ここからカウントを戻すのはかなり難しい。クサいところに投げてダメなら次の牧部と仕切り直しの勝負、そう切り替えないといけなかった。
(二者連続フォアボールはダメ………多少甘くなってもストライクを投げさせないと!牧部だって安パイじゃないんだからここで決める!)
(ストライクさえ投げれば打ち損じがある!少し疲れているけどスピードも威力も落ちてない!)
しかし球場の雰囲気や熱のせいで正常な判断力を失い、わたしとの勝負に固執しているペンギンズバッテリーやベンチはひたすら前だけを見つめ、それ以外の選択肢を排除していた。
ハイセイコーブームが招いた混乱状態、もちろん本人に責任はない。騒ぎすぎた周りの人間たちが一度落ちつく必要があったのに、去年の甲子園のときから何も反省していなかった。
「っ………!!」
『打った――――――っ!バックスクリーン一直線!センター井田も打球を見送るだけ!』
甘すぎる球、それを力まずに弾き返せた理想の一打になった。チャンスボールすぎると逆に焦ったりして打ち上げたりファールになったりすることも珍しくない話だから、ほっとした。
『ツーランホームラ―――ン!太刀川、連夜のアーチで第4号!打たれた高井はこれがプロ初失点、そして初被弾!初めてヒットを許したのも太刀川でしたから、苦い初体験は全て太刀川相手でした!』
『ハイセイコーのあらゆる初めてを太刀川が奪った、ということになりますね』
マウンドでがっくりと肩を落とすハイセイコー。本来の持ち味が出し切れていなかった1球とはいえ、実力をぜんぶ発揮するために練習しているわけだし、そうさせないために今回わたしたちがやったような作戦や駆け引きがある。
「格が違う……決して逆転することのない圧倒的な差を見せつけたホームランだった」
「みやこたちが粘ったり揺さぶったりしてくれたおかげだよ。チームで掴んだ2点だ」
あれだけお膳立てしてもらって絶好球を打ち損じたら4番失格だ。打者太刀川みちの不甲斐なさに先発投手太刀川みちも呆れるだろう。
「いいえ、場を整えるだけなら誰でもできる。しかし真の意味で勝利を決めることができるのは限られた人間だけ、つまりあなたしかいない」
「わたしだけってことはないよ、みやこも……」
みやこと並んでベンチの皆と喜びのハイタッチをしていると、ミルルトベンチから木更津さんが出てきた。このイニング2回目で、そうなるともう交代しかない。古谷監督が球審に次の投手の名前を告げていた。
『あ―――っと、3イニングと3分の2、ここでハイセイコー降板!高井聖子、注目の初登板は四回途中でマウンドを降ります!』
もう限界という判断か、早い回での継投だ。駆け足でマウンドを去るハイセイコーにスタンドは大きな拍手でその力投を称えた。
「あれ?ブラックスターズファンもいっしょになって拍手してますよ!あいつら〜〜〜………」
「まあまあ、先制したから余裕があるんだよ」
ハイセイコーはすぐにベンチの奥に下がってしまったからどんな表情や様子だったのかはわからない。とはいえわたしには関係のないことで、わたしへのリベンジに燃えているとしても返り討ちにするだけだ。仙台フェニックスの根津みたいに逆恨みで復讐の鬼になられたら困るけど。
『三振!今日初打席の牧部は三振です、スリーアウト!ブラックスターズ、2点先制!』
『ペンギンズは高井の負けを消してあげないといけませんね。バッティングは好調でもピッチングは不安定な太刀川です、2点なんかすぐですよ。五回は打順もトップからですし』
ハイセイコーファンの最後の望みはせめて敗戦投手じゃなくなること。その願いを断ち切るのもわたしの仕事だ。
「ストラ――――――イク!バッターアウッ!」
「………!」
ようやくこの試合初の三者凡退。短い時間で終えていい流れも作れた。
「点が入った直後だからね……ここが大事だった」
「あとは最終回まで獲物たちを料理するだけ」
油断大敵とはいえ、この展開なら楽勝だと思った。ハイセイコーの降板で相手の熱が冷めている。出てくるリリーフたちも勝ちパターンの投手じゃない。まだまだ得点して一方的な試合にできそうだ。
『空振りです!太刀川、スライダーを豪快に空振りして三振!』
「……ありゃ打てないな………」
3番手投手の林岡の前にいいところなく三振。彼女も新人だけど、ハイセイコーよりも打ちにくい。このまま中継ぎでもセットアッパーになれる逸材だし、先発に転向しても10勝はできる。
打てなかったから褒めちぎっているわけじゃない。大量点のチャンスと思っていたのにチーム全体ですっかり大人しくなってしまった。
(ほんとうにハイセイコーが降りてからは静かになっちゃったな……。ファンも飽きてるかもしれないな、こりゃ)
まだ夜は肌寒いし冷えきった展開だなと余計な心配をしていたら、やっぱりいらない気遣いだったようだ。
「すごいな……さすが去年のMVP」
「圧倒的だわ。勢いも落ちないどころか!」
八回の途中あたりから試合が始まったあたりの歓声が戻ってきていた。ハイセイコーを見に来た観客たちが横浜の応援に加わっていて、わたしがストライクを投げるたびに拍手が響いた。
『リードした五回からは完璧なピッチング!一人のランナーも許していません!』
『球数は110……太刀川なら完投でしょう』
ハイセイコー一色だったハマスタを取り戻し、2点差のままとはいえ皆の気持ちに余裕がある理想的な終盤になった。最初は不機嫌だったみやこもご満悦のようだ。
「擦り寄ったり媚びたりせず、プレーだけで人々を魅了し夢中にさせてみせた……みちの完全勝利は疑う余地がない」
全身をぷるぷる震わせながら絶頂気分に浸っていた。
「………まだ九回があるからね」
「わかっている。続きは家で………ふふっ」
試合の途中で危ない状態になってもプレー続行不可能になったことは一度もない。そのへんはみやこもさすがプロといったところか。いや、普通の選手だったら試合中にこうはならない。
『試合終了――――――っ!代打の川又、浅いライトフライでゲームセットとなりました!終わってみれば今日も太刀川みちの日でした!』
「みっちゃんやった――――――っ!日本一!」
「いいぞ、いいぞ、た・ち・がわっ!いいぞ、いいぞ、た・ち・がわっ!」
今年2勝目、前回に続き完封勝利。注目の一戦を制したことでチームに勢いがつけば最高だ。ハイセイコーとそのファンたちにとっては苦いデビュー戦になっただろうけどまた来週、わたしたちじゃない別のチーム相手に頑張ってもらえばいい。
「スタミナを奪う作戦に負けた?そうかもしれません。ですがそれ以上に太刀川投手と私の実力差、それが敗因です。もっといい勝負にするためにもレベルアップしなければと思いました」
汗を拭い悔しそうに話す姿もハイセイコーは絵になっていた。試合後のコメント一つ見ても応援したくなるのだから、ブームは簡単には終わらないだろう。
「さて……みちの活躍を伝えるニュースもこれが最後。そろそろ…………」
「………その息の荒さ、やる気満々だね」
全国のファンたちが泣くから、ハイセイコーにはプロレスごっこという遊びを知るのはもっとあとにしてもらいたい。まあそのへんは本人の勝手だろうけど………。
「3カウント………いや、返した!」
「挑戦者動けない!王者の一方的な攻めが続く!」
今日はわたしの圧勝だった。大技がしっかり決まり、みやこに主導権を握らせないままベルト防衛となった。
「ふ――――――っ………いい戦いだったよ」
「はひっ………はひっ………はひっ……………」
勝負が終わって時間が経つのにわたしに抱きついたまま離れないみやこ。べったりくっついているからちっとも剥がれなかった。
(トイレ行きたくなってきたな……どうしよう)
戦いはまだ終わらないようだ。長い一日になった。
翌日、わたしとみやこは練習のときから絶好調だった。抱きあって寝るだけでも調子が上がるのに、あれだけ楽しめばツヤツヤのキレッキレ、最高のパフォーマンスができそうだ。
「みっちゃんと木谷……すごいわね」
「3タテはもらったも同然ね」
これなら勝利は確実、わたしたちもチームのみんなもそう思っていたけど、そんなに甘くなかったとすぐに知ることになる。
(打たれるに決まってる……逃げちゃお)
『フォアボール!太刀川、2打席連続フォアボールです!昨日の失敗から学んだか、歩かせてもいいという攻め方でした』
あまりにテカテカしていて警戒されたか、勝負してもらえない。わたしとみやこで計6四球、こんな日に限って前を打つ本田や後ろの紀子さんたちが絶不調で残塁祭りだった。
『これは大きい!ライトスタンドに入りました!月光マスクの今シーズン第2号、7ー1となりました!』
「………」
今日は相手が何度盗塁してきてもぜんぶ刺せそうだと自信たっぷりだったみやこ。まさか早々に盗塁なんか必要ない点差にされてしまうとは悲しすぎる。走ってくるはずの月光マスクや井田にホームランを打たれていては話にならなかった。
「………長いシーズンだし、勝ったり負けたり、うまくいったりいかなかったりの繰り返しなのは仕方ないね……」
クリフジに正子、ハイセイコーたちもこれから嫌でも味わうことになる。最初の数年は負けっぱなしだったわたしに言う資格があるのかわからないけど、その勝ちの割合を増やせるように頑張ってもらいたい。いつかわたしに追いつき追い越すその日まで―――。
「ストライク!バッターアウト!」
「……うへぇ」
上から目線で偉そうにしていたらこの体たらくだ。結局この日はミルルトの先発山野部の前にノーヒット、チームは惨敗。調子に乗るにはまだ早かった。
林岡・山野部 (ペンギンズ投手)
林岡は右投、山野部は左投の本格派投手。みっちゃんが言うには、ハイセイコーよりも実力が上の投手らしい。
元になった選手たち……野村ヤクルトの黄金期の礎を築いた投手たち。投手が足りないうちはこの二人や伊藤智を酷使して無理やり勝ち星を稼ぎ、彼らがパンクするころに石井一や川崎が育っているという形で弱小ヤクルトを強豪にしてみせた。
ハイセイコーブーム
国民的アイドルホースは負けてもずっと主役だった。ダービーで負けたときは勝った騎手の子どもがハイセイコーに勝ってほしかったと言うくらいだし、引退レースの有馬記念では勝馬を無視して『さらばハイセイコー』が流れる始末。当然勝ったタニノチカラ陣営は怒っていた。
ただ、日本の競馬を語る上で、ディープインパクトやシンボリルドルフは省いても問題ないがハイセイコーとオグリキャップは絶対に触れないといけないほどの国民的アイドル、社会現象だったという。