第12話 熱狂的ファン
「………そういうことなら喜んで。お互いのため……何よりチームのために!」
わたしは木谷さんの提案を受け入れた。これからは二人で自主練習をする。表向きは木谷さんの練習のアシスタント、でもほんとうのところはわたしの成長のためむこうが付き合ってくれるという、みんな反対するどころか信じないで笑うような展開になった。
チームのため、といっても結局は自分のためだ。チームの成績がいいほうが観客が増えて収益が上がる。わたしたちへの還元、つまり給料アップにもつながる。優勝争いに絡めば球団やスポンサーから特別ボーナスが出るというのも聞いている。残念ながら今年はボーナスやご祝儀は期待できず、オフのカットに怯えなきゃいけないチーム状況だ。
「今日はもう休むとして、明日は移動もないから休日になる……さっそく明日から始めたい。あなたの体調が整えばの話だけど」
「わたしは平気だよ。疲れや故障とは無縁……そこだけが取り柄だからね。今日からでもいいくらいだけど休むのも仕事だし……もうちょっと食べてから終わろうか」
最後は大トロで締めたい。あの味をしばらく口の中に残したままでいたい。
「この店が気に入ったようでよかった。ぜひまた来てほしい……私と」
「一人じゃ来れないよ。木谷さんがいないと。でも今度は木谷さんもチームの夕食会に行こうよ。だいたい肉とか鍋だけど……今日も焼肉の予定だった」
「焼肉……あなたのことだからそこでも誰よりも食べるのでは?」
ばれていた。一番小さいのに一番食べる、みんな最初は必ず驚く。
「あはは、いい食べっぷりだって言ってくれるよ、先輩たちは。奢りがいがあるって。ただ不満があるとすれば……餌づけされている気分になるってことかな」
「……え、餌づけ?」
例えば焼肉、いつも決まってわたしに向かって先輩たちが肉を差し出してくる。
「はい、みっちゃん。あ~ん」
「こっちのほうがおいしいよ、ほら、あ~んして」
「あっ!そっちの肉食べた!だったら次は私のを食べてもらうよ!」
妹や娘というのはまだわかる。昔飼っていた犬や鳥みたいだと言われたらわたしも怒る。ほっぺたを膨らませて怒りをあらわにしても今度はリス扱いされてしまった。
「まったく信じられないよ、もう今年で23歳なのに……」
「……私もやってみたい………あ、あ~ん………」
もう一度聞き直そうかと思った。でもその前に木谷さんがタイのお寿司を手に持つと、わたしの口の前に出してきた。嫌だって言ったのに聞いていなかったのかな?でも今日こんなお店で満腹になるまで食べられたのは木谷さんのおかげだし明日からは練習に付き合ってくれるのだから断れるわけがなかった。
「じゃあ……いただきます」
口を開けて、一口で食べようとした。だけどお寿司を箸じゃなくて手で持っているせいでどうしてもそれは避けられなかった。わたしの唇と舌がほんの一瞬、指に触れてしまった。最初は気がつかなかったふりをしてごまかそうとした。でも木谷さんがショックだったのか固まってしまったので諦めて謝るしかなかった。
「えっと………つい勢い余っちゃって……ごめん」
だからこんなことやめておけばよかったのにと言いたかったけれど素直に謝った。ところが木谷さんの様子がおかしい。呼吸が荒くなったかと思うとぶつぶつと、
「え、えへへへ………食べられちゃったぁ……♡」
何やらわけのわからないことを呟き始めた。しかも不快なはずなのに笑っている。とうとう完全に酔っ払っちゃったんだな。こんなことをする時点でもうまともじゃないと判断するべきだった。すぐにタクシーを呼んで寄り道せずに寮に帰ろう。
その車内、どこかぽーっとしたままの木谷さんだけど酔いすぎて手がつけられないとかいまにも吐きそうという困ったことにはならず、ただ大人しいだけだった。ある意味チャンスじゃないかと思ったわたしは、ここで礼の質問をしてみることにした。
「ところで……わたしの記念ボールを集めている人がいるらしいけれど、何か知ってる?今日もわたしの初の内野安打記念とかいうボールが回収されて、しかも木谷さんがいまそれを持っている。そのボールがどこに行くのか……教えてくれないかな」
その瞬間、木谷さんの顔が普段と同じものに戻った。酔いが醒めたか、それとももともと酔っていなかったのか。だったらさっきの奇行の理由がわからないからおそらくわたしの質問のせいで目覚めてしまった、というのが正解のはずだ。
「………私の知り合いで……あなたの熱狂的なファン、とだけ言っておく」
「う~ん、わたしも会ったことがある人?年齢とか性別、そのあたりは……」
「それ以上は言えない。プライバシーがある」
そう言われてしまうとそこで話は終わるしかない。私物が盗まれた、ストーカーされている気がする、それほどの大事にならない限りファンの個人情報を追及できない。木谷さんの口が堅い以上はスタッフや石河さんあたりをうまく誘導して……いや、頭脳戦や心理戦になったら負けるのはわたしのほうだ。
これは笑い話にはできない問題で、キャッチャーとしては致命的だ。木谷さんが言っていたわたしに足りないところ、これから鍛えなくちゃいけない課題とは頭、知性のことなのかもしれない。
わたしたちの生活している黒星寮に到着した。そのころには木谷さんは完全にいつもの様子に戻っていて、カードで支払いを済ませている。もし木谷さんが酔い潰れていたらわたしが払わなくちゃいけなかった。危ないところだった。
「じゃあ解散で……今日はごちそうさまでした!明日からもよろしくお願いします!」
これで一日が終わるかと思ったけれど、まだ木谷さんとの時間は終わっていなかった。一度自分の部屋に戻ったらすぐに大浴場、という考えが被ってしまったようで、いま二人で並んで浴槽に浸かっているところだ。
「………あの……木谷さん」
「余所余所しい呼び方はもういい。私たちは同い年で敬語はいらないと言った。そして立場は同等であり今日は二人きりで食事をした間柄。だから……」
やっぱり今日はどこかおかしい。表情には出さないけれど試合で活躍した興奮が残っているのかな。ヒーローインタビューでも全く緊張せずにぺらぺらと最初から用意していたかのような完璧な受け答えをしていた。普段も試合中も感情を出す場面はほとんどないだけに……いや、全くないというわけではないけれど。わたしに喝を入れたり発奮させるためのヤジを飛ばしたり……ほとんどわたし絡みじゃないか。
「そ、そう?じゃ、じゃあ………みやこ?」
「――――――っ!」
その名前を呼んだ瞬間、彼女の体が小さく震えた。わたしの言い方が気持ち悪かったのか、寒気がして鳥肌が立った?普通に言ったはずなんだけどなぁ。
「……ごめん……やっぱりやめようか」
「い、いや……問題ない。それでいい………えへ」
よくわからないけど本人がそれでいいならわたしが何か言うのはよそう。
「これからもよろしく……み……み……み、み」
「???」
「……みち、私もそう呼んでも……いい?」
ああ、慣れていないだけだったんだ。あまり他のチームメイトと仲よくしているのを見ていないし、皆でワイワイ、周りに合わせるのではなくストイックに孤高を貫き高みを目指すというのは今に始まったことではなく学生時代からだと雑誌で読んだ。
「もちろんいいよ。最近はみんながあだ名のみっちゃんって呼ぶから久々だなぁ」
こうしてわたしとみやこは互いを下の名前で呼び合う仲となった。でもお風呂での出来事はまだ続いた。今回に限ってはこれで終わっていればよかったと思う。
「ところで…明日はどんな練習を?わたしに足りないのは頭、だとするとみやこの部屋で座学?勉強は苦手だからお手柔らかにお願いしたいところなんだけど……」
「……いいえ、座学はしない。映像も見ない。大雨が降らない限り外のグラウンドで練習する。どうせ休日は遊び呆ける選手ばかりだから独占できるはず」
外で体を動かせるというのはよかった。でもこれでみやこがわたしの何を改善したいのか明日にならないとわからなくなってきた。単に頭が悪いというだけじゃない、捕手としての知識が足りないからそこを鍛えてくれるものだと思い込んでいた。
全く未経験ではないとはいえわたしが捕手になったのはプロ入りしてから。最初の一年はキャッチングや基礎的な動きの習得に費やした。だから投手や相手打者の心理を読む配球、その場限りではなく試合全体、もっと大きな観点で考えたらシーズン全てを考えてのリードというのがわたしはいまだにできていない気がする。ミルルトの村下にしたような強引な内角攻め、それくらいしか明確な意図のある配球はしていない。
(残りの打者は全員ヒュウズ任せだったし大差の試合だと敵もバッティングが雑だからピッチャーがのびのび投げられるように、それくらいしか考えてなかった)
もちろん二軍の試合ではたくさん先発出場の経験がある。でもわたしたちのチームの方針で、二軍戦は勝ち負けが最優先ではなく、一軍で使える選手を見極める場となっている。試合を回さないと他のチームにも迷惑が掛かるので当時不足していた捕手に転向するようにわたしは言われたけれど、最近はそんな話も聞かない。二軍のゲームを成立させるため『だけ』の選手なんかすぐにクビか育成枠に落ちる。
それと同じ理屈で、投手も二軍で最多勝を目指しても仕方がない。一軍の舞台で何ができるかを確かめるために機会を与えられているので、なるべく多くの球種やコースへの投球をテストする。先発適性やランナーがいる場面での登板など様々なシチュエーションを試すので、捕手のわたしたちにも打たれても構わないから投手にいろいろやらせろという指示があった。だから実戦での配球の勉強が不足している。
「そうか、理論を説明してもわたしじゃ理解できないだろうから実際にグラウンドで教えたほうがわかってくれるだろう…ってこと?確かにそれがいいかも」
「……いや、まずはとにかく体で覚えてもらう。数をこなさないことには……」
数をこなす?わたしたち二人しかいないのだからできる練習は限られているはず。となると配球の訓練でもない……?もっと基礎的なところに戻るのだろうか。
「これは明日にならないとわからないな、これは。まさかみやこの目から見たらわたしは何もかもがダメだから足腰の強化からスタート……ってことじゃあ……」
「それはない。あなたのトレーニングにかける時間は他の選手たち全員分を足してもあなたのほうが多いと言えるほど。だから技術面、そこを磨きたい。そう、あなたの肉体は申し分ない。一見中学生にすら見えるその身体、でも実は……」
わたしに立ち上がるように促してきたのでわたしはその場に立った。するとみやこはわたしの太ももやふくらはぎのあたりを触りながら何度も頷くのだった。
「うん、いい足をしている。強肩強打を支える……鍛えられた素晴らしい両足」
「ど、どうも……そう言ってもらえると自信が……んん?」
何度も言う。このへんで終わればよかった。でもみやこの暴走はここからだった。足の次は腰、そしてお尻を触り始めた。もちろん打撃指導の時とかにコーチや先輩からこうすればいい、と触られることもあるからそれ自体は全然気にならない。でもいまは裸で、しかもだんだん撫でるような手つきに変わっていったのだ。
「そう、腰も、そしてここも……ほんとうに素晴らしい。ハァ……ハァ……」
「………みやこ?なんだか触り方がエッチだよ?しかも息も荒いし……」
ここでわたしは気がついた。これはみやこなりの冗談なんだと。お寿司屋でのあ~んもきっと笑わせようとしていたんだ。走攻守が揃ったみやこも、『笑』の部門ではまだ修業が足りないな。返り討ちにしてやろう。
「いい加減にしないと……お仕置きだぞ~~~~っ!え~い!」
「え!?何を…………んっ!?」
同じことをそのまましてやった。わたしと違って触りがいのある体だ。まあこれくらいならスキンシップの一つだろう、そろそろやめようかと思っていたところで事件が起きた。
「♡♡♡♡♡♡♡♡~~~~~っ!!」
びくっ、びくっと何回か大きく震えて、みやこの全身から力が抜けていった。そのままわたしに体を預けるようにして完全に動きを止めてしまったのだった。
「きゅ、急に何が………!?ああ、そうか、のぼせたんだ!早く上がらなきゃ!」
知らないうちに長湯になっていたのかも。お酒を飲んだとき以上にみやこの顔は真っ赤だ。わたしと仲よくなりたいとか笑わせたいとかじゃない、のぼせていたせいでありえない奇行に走ったんだ。すぐに出て扇風機で風を当てて、冷たい水を用意した。
「…………ここは………」
「みやこ!よかった~っ……。思ったより早く目を覚ましてくれてほっとしたよ」
不幸中の幸い、大事には至らなかった。すぐに自力で立ち上がり、タオルを巻いただけの状態から下着を、服を着て水を少しずつ飲み始めた。
「いきなり倒れちゃうからびっくりしたよ。しんどかったら無理しなくていいよ」
「もう大丈夫。それにさっきのはしんどいとか苦しいとかではなく絶ちょ……いや、何でもない。とにかく体調不良ではないということ、安心してほしい。明日の練習も予定通りできるから何の問題もない」
部屋まで送るといっても一人で戻れるというからその言葉を尊重した。あまりにも突然でパニックになりかけたけれど当のみやこがあれほど落ち着いているのを見て、超一流の精神力とはこういうものなんだと知ることができたのは収穫だった。
(その超一流が明日からわたしと……楽しみになってきた)
わたしが期待を胸に眠りについたころ、彼女の部屋では―――。
「~~~~っ!!」
その部屋の主が今日一日を振り返りながらベッドの上で何度も転がっていた。
「……今日は最高だった………まさかこんなにたくさんの出来事が………」
その出来事の中から自らの試合での活躍、初のお立ち台の記憶はすでに消えている。また一つ増えたコレクションボールを両手で持ちじゅうぶん堪能した後で大事に保管し、それまでのボールと並べた。自分のホームランや長打よりも飾ったボールの打者が放った内野安打を思い返して喜びに浸るのだった。そして試合後からついさっきの風呂場でのことまでを振り返るとますます幸せな気分に満たされた。
「あんなことまで私……いや、これで満足してはいけない。今日は始まりに過ぎない。私のヒーローの物語はこれからが本番……そしてそのストーリーに私が関わることができるという最高の展開。絶対に成功させてみせる」
中園 辰美 (横浜ブラックスターズ外野手)
選球眼と鋭い打球が持ち味のヒットメーカー。左投左打。打撃とは正反対に守備では安定感を欠き派手にやらかすことも。愛称はゾノ。
元になった人物……引退後は馬肉や馬革に関わる経営者となったあのイケメン選手。故障などでレギュラー定着できず、戦力外後は球団に残らず外の世界で活躍したが2020年にコーチとして復帰した。
前橋 花子 (横浜投手)
先発ローテーションの一角。右投右打。速球派投手で優れた素質を持つが勝ち星がなかなか伸びない。敗戦処理から這い上がり今の立場を手にしたが、ラメセスがリリーフ再転向を考えていると知り必死になって先発の座を守ろうとする。
元になった人物……DeNAベイスターズ初年度の開幕投手を務めたあの投手。コントロールが甘いと炎上し、誰が言い出したか『高さ危険太郎』とはよく言ったもの。不運もあり期待通りの成績は残せなかったが、同じ希望枠の水差しや損五億たちよりは遥かにチームに貢献した。