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第三捕手のみっちゃん  作者: 房一鳳凰
第一章 前半戦
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第1話 最後の野手 

『ブラックスターズ、選手の交代をお知らせ致します、石河に代わりまして、バッター、太刀川!背番号、60!バッターは太刀川』


 スタジアムにわたしの名前がコールされると、満員の観客席からはこの日一番の大きなざわめきが起こった。とはいえ歓声はちっとも聞こえない。ほとんどは驚きの声、あとは悲鳴や失笑か。


 でもこうなってしまったのも当然だ。単にわたしが期待されていないだけじゃない。わたしは今日出場しないはずの最後の野手で、しかも延長十二回、2アウト満塁、カウントも2-2となった大一番で登場となったのだから。 


 お客さんたちよりわたしのほうがびっくりしている。いきさつを語る前にまずはわたしについて知ってもらえたらと思う。



 わたしの名前は『太刀川みち』。女子プロ野球チーム、横浜ブラックスターズの選手の一人で、ポジションは捕手。今年で五年目の23歳だけど、通算安打はいまだ0本、これまでの四年間でたった5回しか打席に立っていない。


 最初の二年間は一軍登録なし。三年目は一度だけ打席に立ってサードゴロだった。去年は3打席、記録は2打数ノーヒット。送りバントを一つ決めた。2試合マスクを被って守備にもついた。


 そして今年はなんと開幕一軍!ゆっくりだけど順調にレベルアップしている…とは言えなかった。


「開幕してもう一か月…やっと今年の2打席目か。でもこんな場面で…」



 わたしの役割は第三捕手、緊急事態のための控え選手だ。三人目のキャッチャーなんて余程のことがないと出番は来ない。何かあったときのために試合が終わるまでベンチに野手は一人は残しておかないといけないから、それもわたしということになる。


 今日もそのはずだった。延長十二回表まで互いに無得点、それでも代打や代走は次々と投入した。投手は残り二人、野手はわたしだけが出場していなかった。


「みっちゃん、次はピッチャーだよ。代打の準備をしたほうがいいんじゃない?」


「何言ってるんですか。絶対に回ってこないじゃないですか。ベンチのごみ拾いでもしたほうがよっぽど有意義ですよ。もうわたしの荷物はほとんどまとめてますから」


「あはは!冗談よ、ごめんなさいね。でもたまには試合に出たいでしょう?」


 十二回裏、2アウト満塁。バッターは7番の石河さん。確かに次の打順は抑えの川口さんなんだけど、100パーセントそこには回らない。なぜなら正真正銘この試合のラストバッターは石河さんだからだ。出塁するか相手が暴投でもすればサヨナラ勝ちで試合終了、アウトになってもそれで引き分けゲームセットだ。


 太刀川選手の出番はこの日もありませんでした、誰もがそう思っていたとき、事件は起きた。



「ああ~~~~~っ!!あがぁ~~~~~っ!!」


 先輩とくだらない話をしていると、大応援団の声援をかき消すほどの悲痛な声がベンチにまで届いた。石河さんが右足のちょうどガードで覆われていないところを抑えながら悶絶して、何回か小さく跳ねるとそのままうずくまってしまった。


 たまたま目を離しちゃった間の出来事だけど、雰囲気からしてデッドボールじゃないというのはわかった。サヨナラならもっと盛り上がっていないとおかしい。


「自打球だ!なんかヤバそう…トレーナー!」


 トレーナーとコーチが駆けつける。コールドスプレーで冷やそうとしている。でもなかなか石河さんは立ち上がれず、とうとう両脇を抱えられながらベンチに戻ってきてしまった。そのまま奥へと引っ込んでいく。


「……ダメそうですね、あの調子じゃ。折れてるかもしれません」


「まあこれから精密検査だろうね。骨折じゃなくても明日も厳しいかな?」


 相当の重症みたいだ。するとここで監督がわたしのところに近づいてきた。わたしたちのチームの監督は十二球団唯一の外国人監督で、今年五年目の『アンデルセン・ラメセス』監督がわたしの肩を叩くと日本語で、


「みっちゃん…行けるね?頼んだよ」


 それだけ言うと審判に代打を告げに向かった。普段なら体を痛めてベンチ裏に向かった選手はもっと時間をかけて様子を見るのにこれだけ早いってことはよっぽどだな、なんてボーっと考えながら、ふと我に返った。代打はわたしだった。


「………こんなことならほんとうに準備しておけばよかった……」


「ははは…まあ頑張って。三振しても誰も責めないよ。記録も石河の三振だから」


 2ストライクからの代打だから、三振したとしてもわたしの三振にはならない。でもいまはそんな問題じゃない。体はもちろん心の準備ができていないんだ。ネクストで数回素振りをしてから今年二回目のバッターボックスに足を踏み入れた。



「ホームラン、ホームラン!太刀川!」

「かっとばせ~!太刀川!」


 応援団のコールもどこかやけくそ気味だ。プロ入りしていまだノーヒットの頼りないチビが打席に立ったとはいえ応援しないわけにはいかない。客席からは八回に余計な代打さえ使ってなきゃ…とか、こいつだったら残った二人の投手のどっちかを出したほうがまだマシとかいう声も聞こえてきた。ちなみに二人とももとは先発だったベテランだから通算で10本くらいヒットを打っているはずだ。


 逆に敵はどこか緩んでいる。もう試合は終わったかのようだ。ファンはもちろん、選手たちも。マウンドに集まっている輪からわたしのところまで伝わってくるほどの安堵。危機は去ったということか。



「……私、あのバッターよく知らないわ。二軍でもオープン戦でも一度も対戦してないんじゃないかしら……忘れているだけかもしれないけれど」


「ああ…でも問題ないでしょう、ろくに試合すら出ていないカスなんですから次の球で決めちゃいますか。緊張で震えているに違いありません」



 相手の投手は東京ゴールデンゴーレムズの抑え投手、沢町。剛速球と荒れ球で狙いが絞りにくいストッパーで、今日はそれが悪いほうに出てノーヒットで満塁のピンチをつくっていた。回跨ぎなのも影響しているかもしれない。


 精神面に課題があるとか新聞やテレビでよく言われているけれど、わたしが出てきた途端に落ち着きを取り戻したようだ。そして野手が解散して一人マウンドに立つその目はわたしを見下ろし侮っている。


「どうかしら、第三捕手ちゃん。こんな痺れる場面、プロに入って初めてでしょう?一生の思い出になるかもしれないんだから思いっきりスイングしなさいな」


 相手の捕手が何かを囁いている。でもいまのわたしには聞こえなかった。わたしは平常心じゃなかったからだ。緊張ではない、焦りや怒りでもない……この興奮の正体は高揚だ。時間をかけてようやくわたしの心が燃えてきた。



(……これ以上ない大事な場面で打席に立つ………ずっと夢だったシーンだ!)


 これまでわたしが出た試合はぜんぶ大差がついていた試合だった。主力選手は早々に引っ込んで、正捕手を休ませるためにわたしが呼ばれた。ヒットだろうが凡退しようがどうでもいいという打席ばかりで、唯一去年送りバントのために代打で出たときだけ二点差だった。もちろんどんな状況でも真面目に仕事をしなきゃいけない立場だけど、やっぱりいまはとても熱くなっている。


 プロ野球選手になりたいと思っていた少女のころから、それにいまでもずっと想像していたのはこんな瞬間だ。イメージトレーニングはばっちりしてきた。妄想っていうと聞こえが悪いからイメトレってことにしておく。


「……プレイッ!」


 主審の声と共に試合が再開される。相手のサイン交換はすぐに終わったようだ。きっとわたしの頭の中は真っ白とでも思っているんだろうな。甘いよ。だからこの球をどうすればいいか、投げる前からわたしにはわかっている。



『ピッチャー沢町…急遽代打の太刀川に対し……投げましたっ!』


 ストライクゾーン低めにギリギリ入ってきそうな……でもわたしは動かなかった。


『ボール!カウント…3-2!』


 玉砕覚悟でフルスイングしてくると読んだに違いない。フォークボールだった。


(簡単に見逃した……完全に読まれていた?)


 キャッチャーはボールを返球せずにマウンドに走っていった。これで終わりというプランが崩れ、ピッチャーを落ち着かせる必要があるからだろう。



「空振りのはずだった……球種がバレている可能性があるかも……」


「弱気になったら負けよ!それで何回失敗してきたのよ、あなたは!もしあいつらが変な手を使ってサインが盗まれていたとしても…あなたの全力のストレートを果たしてあのバッターが打てるかどうか…冷静に考えなさい!」


「…………」


「ど真ん中に直球、最後の球はそれしかない。自慢のパワーでねじ伏せるのよ」



 短い会話が終わったようだ。沢町は器用な投手じゃない。押し出しの危険もある状況で細かい指示なんか出さないだろう。ストレートで押してくる、一択だ。わたしには確信があった。この読みさえ外さなければ打てる。フォークを見逃した時、ただヤマ張りが当たっただけじゃない。ボールがよく見えた。


(絶対に振り遅れない!練習の成果をぶつけるだけだ!)


 ここで劇的なサヨナラヒットを打ったところで明日からわたしの出番がいきなり増えるということはないだろう。最後の野手、第三捕手のままベンチに座り続け、声出しをしたりキャッチボールの相手をしたりの毎日が続く。次の打席の機会が与えられずにファームに落とされる、それも十分にあり得る話だ。


 でもそんな先の話はどうでもいい。ここで打つ、そのためにわたしはいるんだ。



『さあフルカウント、ランナーは一斉にスタートを切ります!泣いても笑ってもこれで終わり!ファールボールでない限りゲームは終わります!運命の一球をピッチャー沢町じっくりと見て……』


 そして放られる最後の一球。すると、不思議なことが起きた。


(……なんだろう、これ……何もかもがゆっくりに見える…!?)


 投球フォームがとてもゆっくり、まるで映像をスローモーションで再生しているかのよう。わたしの感覚に変化が起きて、世界が遅くなっているんだ。



(ボール……手から離れた!縫い目まで見えそうだ……!これなら打てる!)


 とてもよく見えたそのボールが徐々に迫ってくる。いまだ目で追えている。


(だんだんと近づいて………って…まさか……まさかこれは~~~~っ!?)


 しっかり見えているからこそ、これからやってくる衝撃に恐怖するはめになった。




「……あだっ!!」


 渾身の勝負球がわたしのお尻に直撃した。バットが宙を舞い、わたしはその場で飛び跳ねた。思ったより痛くなかったのは無駄に肉付きがよかったおかげなのか。



「………いや、でも痛いものは痛い~~~~っ!ああ~~~~~っ!!」


 小学生のころから始めた野球人生、運のいいことに大怪我は一度もない。ちょっとズレていたらわたしも石河さんのように支えられながら退場になっていたかもしれないところ、こんなもので済んだ。わたしの数少ない長所の中から一つ選べと言われたら怪我しないことと強運と答えられる。あ、二つになっちゃった。


 そんなことを考えながら一塁に向かうと、ベンチから皆が飛び出してきた。一塁側、つまりわたしたちのファンも大喜びで総立ちになっていた。


『まさかの結末だ―――――っ!!なんと押し出し死球でサヨナラ!痛恨のデッドボールでゴーレムズ敗れました!横浜のサヨナラ勝ちとなりました!』


「ああ……そうだった。これで勝ち…だったんだ」


 わたしが痛そうにしているからか皆は遠慮して、サヨナラのホームを踏んだ三塁ランナーの長崎さんに四方八方から水をかけていた。それから監督とコーチも出てきて、皆で横一列に並んで観客席に礼をしたのだった。



「プロ初出塁に初打点、お立ち台に呼ばれなくて残念だったねぇ」


「デッドボールじゃ無理でしょう。締まらない光景になりますよ」


 先発して七回を無失点に抑えた前橋さんと猛打賞の中園さんがインタビューを受けていた。死球じゃなくて四球を選べばわたしもあの中にいたんだろうか。


「ヒロインになったら何を言おうか考えてたんですけど…また次回ですね」


 初めまして、太刀川みちと申します。一言目はそれでいこうと思っていた。五年目で初めてのお立ち台ですから次は十年目のシーズンでお会いしましょう、そう言って客席を笑わせようかなと計画していた。もし予想に反して滑ってもそれはそれで笑い話になるからおいしい。どちらに転んでもよかった。


「でもほんとうに次のチャンスは五年後じゃないだろうな?このままじゃ…」


 さすがにそれは我ながら笑えない冗談だった。五年後にはもう28歳、そこまでに何もできなかったらクビになっちゃうよ。わたしはキャッチャーだから壁、つまりブルペン捕手で球団に残れるかもしれないけれどあれも定員はあるからなぁ。


 サヨナラ勝ちしたというのに何だか寒い気分になっていると、三塁側のベンチに人が残っているのが見えた。負けたらほとんどの選手やスタッフがすぐに退出するというのにそこには二人、今日の敗戦投手とその球を受けた捕手がいた。



「このダルマ!ま~た独り相撲で自滅じゃない!どクズ!×××!」


「ひいぃ~っ!ゆ、許してください、お姉様!」


 あの二人は実の姉妹ではなかったはず。まあ深く考える必要もないか。ちなみにわたしは初めて商品をゲットした。『第一打点賞』と『サヨナラ賞』。よくわからない化粧品と甘すぎて口に合わないお菓子がたっぷり手に入った。サヨナラ死球のボールも記念にと渡されたけど職員の人にそのまま返した。


「みっちゃんが将来日本を代表する大選手になったときのためにとっておくよ」


 そう言ってくれたけどきっと明日には他のボールに紛れていることだろう。

 太刀川 みち (横浜ブラックスターズ捕手)


 この物語の主人公。高卒五年目、右投右打、現時点で一軍公式戦無安打。身長は十二球団選手で最も低く童顔で、中学生と言っても通用する。出番すらない毎日に自信を失いかけているが、まだ真の実力を発揮できていない。絶対に故障しない『鉄人』のような頑丈さと、無尽蔵の体力が売り。


 元になった人物……特になし。この先彼女がどう成長して完成形は誰のような選手になるのか、まだわからない。現状では右打ち鈍足、歴代名捕手の悪いところしかない。



 アンデルセン・ラメセス(横浜監督)


 みちの所属するブラックスターズを指揮する外国人監督。選手としても長年日本女子プロ野球でプレー。8番投手などの独自路線は賛否両論。


 元になった人物……言うまでもなく、あの人。データと直感を使い分けベイスターズをAクラス争いができるチームにする。2020年限りで辞任。財産と負債、両方を次期監督に遺した。


 様々な奇策や起用の偏りなどで評価が分かれる監督だが、筆者個人は紛れもない名将だと思っている。他の監督では暗黒期脱出は厳しかったはず。

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