22
柊さんに伝えるべき言葉を伝えて、別れを告げて、ここでするべき事を全部終えたところで、俺はゆっくりと息を吐き出しながら眼を閉じた。
止血はもう殆ど機能していない。治癒の魔法には対象の血液が必要だから、本格的に血が足りるか怪しくなってきた。
身体が寒い。息をするエネルギーすら重たいと感じる。
「……あんた、止血どうしたのよ?」
苦しそうなミミトミアの声が届いた。
反応するのも億劫だったが、無視をしてもいい理由にはならない。
とはいえ、喋るという無駄に労力を割くわけにもいかなかったので、とりあえず視線だけを向けると、ミミトミアは思ったよりもずっと近くにいた。
「焼いて塞ぐわよ」
ずいぶんと乱暴な提案である。
でも、まあ、すでに痛覚も麻痺しているようなものだし、試してみる価値はあるだろう。
俺は小さく頷いて、じゅうぅう、という肉の焼ける音を聞いた。
かなり後悔した。斬られるとか刺されるとかよりもずっと、火傷というのは痛かったのだ。おかげで呻き声を上げる程度に気力も回復した。
「これで、一つ借りは返したからね」
言って、ここまで這ってきたミミトミアは仰向けに寝転んだ。
「……あぁ、くそ、あの女、最低限しか治してない。内側のどっかがまだ出血してるし……吐きそう」
頼むから、俺に向かって吐くのだけは止めて欲しいところだ。
ともあれ、出血箇所が塞がったおかげで、ずいぶんと楽にはなった。正直、ミミトミアに助けてもらう事になるとは思ってもいなかったけれど――
「あんた、今失礼なこと考えただろ? 判るんだからね、そういうのって」
不機嫌そうに眉を顰めながら、ミミトミアが口を軽く尖らせる。
その割に口調は柔らかで、子供が拗ねているみたいな可愛げがあった。……そこに、少し親近感を覚えたからだろうか、
「うん、最後まで足を引っ張るだけかと思ってた」
と、俺は身も蓋もない本音を口にして、
「む、あんたね――」
「まさか、そんな子が命の恩人になるなんてね。ありがとう。見直した」
「な、なんだよ、気持ち悪いな……」
こういう風にストレートな感謝を受けたことがあまりないのか、ミミトミアは途端に弱った表情を浮かべる。それだけ、アカイアネさんの付属品として見られる事が多かったんだろう。
そういう意味では彼女もずっと鬱屈した思いを抱えて生きてきたのかもしれないが……そんな彼女は、裏切りという役割をまっとうした彼にどんな裁決を下すのか。
「そこの莫迦が気になるわけ?」
こちらの視線から読み取ったミミトミアが、沈んだような声を漏らした。
「……そうだね」
ならないと言えば嘘になるだろう。
「このあとの事なんてあたしは知らない。そういうのはナアレさんが決める事だし、どっちでもいいわ。……切り捨てられた可哀想な奴にトドメ刺すほど、酷い奴になりたいわけでもないしね」
ザーナンテさんの方に視線を向けて、ミミトミアはぼそりとそう言った。
その途端、彼の身体が少しだけ強張ったのが判った。どうやら意識を取り戻していたようだ。
それにミミトミアも気付いたのか、
「……まあ、でも、とりあえず後でもう一発殴って、それからこのエロ莫迦の秘蔵の本全部燃やしてやるけど!」
と、かなり強い口調でそう言って、天井に視線を逃がした。
ザーナンテさんの身体がまた小さく震えたのが判った。
そして、しばしの静寂。
あれだけ騒がしかった魔物の気配も、もはや虫の息だ。
増援がなくなれば、冒険者の街に魔物がのさばれる道理なんてない。
おそらく、あと十分程度で全ての脅威は排除される事だろう。それで、この儀式で生じた問題は終わり。
「――おい、ここにも怪我人がいるぞ! 来てくれ!」
青年の声に従って、こちらに四人の男たちがやってくる。
格好からして五人とも冒険者だろうか。
俺を見た途端に表情を強張らせ、その全員が魔物の血の付いた剣を強く握りしめた。
普段の状態なら対処は簡単だけど、さすがに今は少し不味い。
「彼等をやったのはお前か?」
転がっている二つの死体に視線を移してから、青年が訪ねてくる。
片方は俺が来た時にはすでにあったが、もう片方は間違いなく俺がやったものだ。
素直に認めても、黙秘しても、嘘をついても、おそらく彼の中での真実に変化はないだろう。彼の眼にあるのは疑いではなく確信だった。
「止めろ、莫迦!」
ミミトミアがよろよろと身体を起こしながら、声を張る。
「お前は、ナアレさんのところの……」
「紫の冒険者さまよ。そのあたしがこいつは無関係だって言ってるの? わかったら、武器を降ろしなさい」
「ほざけ、裏切り者が! お前がナアレさんに毒を盛ったってのは知ってるんだぞ! そう言う小細工をしたから、あの人が遅れを取ったんだって!」
青年の左側にいた中年の、うだつの上がらない感じの男が叫んだ。
「……は?」
寝耳に水だったんだろう。ミミトミアは間の抜けた表情を数秒ほど浮かべてから、徐々に憎悪を滲ませていき、
「ふざけるなよ、どこの糞がそんな嘘並べたのか知らないけど――!」
痛みによって、言葉を中断した。
内蔵やられているのに、必要以上にお腹に力なんていれるからだ。
「今ならやれるよな? そうしたら、俺たちは咎人を打ち倒した功労者だ。やっちまおうぜ?」
一番後ろにいた灰色の髪の、小柄な男が吠える。
それに同調するように、青年を除いた三人が「あぁ」だの「おう」だのと声を上げた。
なんとなく、彼等がどういう立場にいる人間なのかが見えてきたが……もう焦る理由はなくなっていたので、どうでもいい事か。
「――ねぇ、物騒なものを振り上げて、貴方達は私のお友達になにをするつもりなのかしら?」
落ち着き払った、それでいてどこか愉しげな声が、彼等の背後から届けられる。
彼等に遮られて姿は見えないが、誰が来たのかはすぐに判った。
余所者の俺ですらそうなのだ。この街で生きている人にとっては、明白もいいところだったんだろう。
故に、弾かれたように彼等は振り返り、
「な、ナアレさん!?」
と、驚きを露わにした。
そこに嘘はなさそうだったので、本当に俺がやったと思っての行動ではあったようだ。
「どうやら、私が監禁されている間に、色々とおかしな情報が広まっていたようね。気に入らないわ」優雅に微笑みながら、アカイアネさんは冷たいトーンで吐き捨てる。「……さて、そんな私を前にして、貴方達が今するべき事はなにかしら?」
「い、急いで、誤りを撤回する事です」
青年が強張った表情で答えた。
「具体的に言って欲しいわ」
「組合に戻り、映像を流して、レフレリの全てに正しい情報を伝えます。ですから、よろしければ組合の本部までご同行をお願いしたいのですが」
「嫌よ」
「し、しかし、それだと――」
「周りをよく見なさい。私がいなくても話が通る道具があるでしょう?」
そう言って、アカイアネさんは見知らぬ誰かの死体の方に視線を向けた。その傍らにはバッジのような物が転がっていて、青年は驚きに目を見開いた。なにやら特別な代物のようだ。
それを手に取り、アカイアネさんに軽く頭を下げてから青年は駆けだしていく。
「……なにをしているの? 貴方達も早く彼を追いかけないとダメよ。それとも、私を本当に怒らせたいのかしら? 今も、結構怒っているのだけど」
「「し、失礼します!」」
状況に取り残されていた四人の男たちも引き攣った声を漏らして、青年の後に続いた。
どうにも流されやすい人達といった印象だが。
「冒険者の資格は、もう少し厳しくするべきかもしれないわね。あまり進言という行為は、通り過ぎるからしたくはないのだけど」
アカイアネさんは退屈そうに呟き、そこでやっとミミトミアに視線を向けて、彼女の傍らで片膝をついて、その頭を優しくなでた。
「それにしても、よく頑張ったわね、ユミル。……ふふ、偉い偉い」
「べ、べ、別に、これくらい当然だし……!」
これ以上ないくらい顔を真っ赤に、動揺を露わに、ミミトミアは声を震わせる。
それを微笑ましげに見つめてから、アカイアネさんはゆっくりと立ち上がり、手を差し伸べた。
「立てる?」
「う、うん、大丈夫。当然でしょ?」
微かに震えている膝を片手で抑えながら、ミミトミアが立ち上がる。
無理をしているのは明らかだったけれど、それでも歩く事くらいは出来そうだ。
だから問題なしと判断したんだろう。アカイアネさんは寂しげな視線を死体になった男に向けて、
「やっぱり、私はこちらの方が良かったみたい。貴方の描いた救いよりも。……まったく、他人を見る眼がないというのは哀しい話ね、ドゥーク」
そう別れの言葉を送り、数秒ほど瞑目してから、おもむろにザーナンテさんを抱き上げた。
「なにしてんの?」
「なにってお医者さんのところに連れて行こうと思って。貴女と違ってまだ動けないみたいだし」
「そんな事、ナアレさんがしなくてもいいでしょ?」
不機嫌そうにミミトミアが言う。
するとアカイアネさんは両手に抱えたザーナンテさんを彼女の前に差し出して、
「じゃあ、ユミルが代わってくれる?」
「え? や、それは嫌だけど。……っていうか、そろそろあの女が医者連れて戻ってくると思うし、別に動かなくてもいいんじゃ――」
「適材適所よ。私達は軽傷。重篤な患者の前に、余計な労力を使わせるわけにはいかないわ」
「それは確かにそうかもだけど――じゃなくて、それならあの女に頼めばいいだけでしょ」
「彼女、もう魔力が底を尽きかけているわ。その処置はおざなりだったのではなく、それが限界だったからよ」
「あ、そっか、確かに凄く魔力使ってたしね。納得。……わかった、歩くわよ。途中で交代もする。嫌だけど。凄く嫌だけど」
「……どうしてだ? どうして俺を助けるんだよ?」
二人の会話が一区切りしたところで、消え入りそうな声がザーナンテさんの口から零れた。
当たり前のように彼を助けようとする行為が、いっそ恐ろしいものとして映ったのような、感情のゆらいだった。
「まったく気付かなかったから」
と、アカイアネさんは微笑む。
「愉快な体験だったわ。あの時は凄く吃驚して、心臓がどくんって揺れたもの。貴方なかなかの役者だったのね。感心した。まあ、私の眼が節穴だったというだけなのかもしれないけれど」
「……俺は、どうすればいい? なぁ、教えてくれよ、ナアレさん」
「それを考えるのは貴方よ。決めるのもね。だって、もう私は示したのだから」
そう答えてから、アカイアネさんはこちらに振り返って、
「私たちは行くわ。今日はもう会う機会もないでしょう。……なにか聞いておく事はあるかしら?」
「儀式は成功しましたか?」
「ええ、消失した地点から多少の時間のズレは発生してしまうかもしれないけれど、二人はきっと辿りつけたと思う」
「そうですか。なら良かった」
……なんて言葉にしてみたけれど、実際のところはそこまで単純な話でもなかった。
上手くいったこと自体は喜ばしいけれど、一つだけ不安というか、気になる問題がその先には残されていたからだ。
いわゆるタイムパラドックスという問題である。
幼い倉瀬蓮が母親を失わなかった未来が発生した場合、今ここにいる俺はどうなってしまうのか。
またリフィルディールに殺されて、この身体の中に入る未来は同じだとしても、それまでの人生経験はまったく別のものになっているだろうし、そもそも殺されない未来だってありえるのだ。その場合、俺がこの世界にいるという事実自体が無くなる可能性もある。
そういう懸念がある以上、本来なら柊さんには遺言だけを頼むべきだったのかもしれないけれど、まあ、気になったのが今なのだから仕方がない。
……いや、これは嘘か。
あの時点で、多分気付いてはいた。ただ、それでも、救われるかもしれない未来を完全に否定する事が出来なかったのだ。
それに、柊さんが帰った影響で世界が変わったとしても、その時点で俺がいた世界とは別の世界として進行していくだけで、救われるかもしれない倉瀬蓮と、俺はもう別の存在だという認識の方が強かったというのもあった。
過去をなかった事には出来ないという考えが、俺の中には強固にあったから。
「……だとしても、優柔不断だな」
彼女たちが立ち去ったあとで、苦笑が漏れる。
漏れた息の重たさに、喉が詰まった。
そして、本当に苦々しいものが内側から溢れだそうとしてきたその時に、
「レニさま!」
ミーアの声が、帰って来た。
どこかで間違いなく見たことのある、医者を連れて。
次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




