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離れていくレニの後ろ姿を悔いるようにナアレが見つめていたその時、場に響き渡っていた歌が突然色を変えた。
魔物の鎮静に用いられた魔法が、儀式に作用し始めたのだ。
必要以上に無駄に消耗されていた霧の魔力が、完璧な統一性と共に、理想的な効率をもって門を維持する働きを見せていく。
それだけではない。日常の中にある、人から漏れる数多の魔力もまとめ上げて、歌は門を延命させようとしていた。
その意図は明白だ。レニ・ソルクラウがミーア・ルノーウェルを助け、此処に戻ってくるまでの時間を稼ぐ為に他ならない。あまりに理不尽で、後悔しか残らないような二者択一に逆らう行動。
「……驚いたな、刃向うつもりか?」
感心するような声色と共に、ラガージェンがセラを見据える。
と同時に、肺を潰すほどの凄まじい魔力が吹き荒れた。
今すぐ止めろという警告だ。いや、脆弱な人間にとっては、それはすでに暴力といってもいいだろう。
セラは戦える人間ではない。魔力がないわけではないので最低限の抵抗力はあるが、立っている事すら辛い状態に陥っている筈だ。
けれど、彼女はけして震える膝を折ることなく、また歌を止める事もなく、強い強い眼差しでラガージェンを睨み返した。そして、歌の性質をより冷たいものへと変えていく。
それは、さながら呪歌のようでもあって……いや、事実そうなのだろう。
強い魔力を持ってゼラフの石化を退けた魔物たちが、一斉に崩れ落ちた。極度の恐怖を前に、足腰が立たなくなったのだ。
儀式場の外にいる、家に身を隠している人達すらも、その歌声に屈して、すすり泣きを始めていた。
ナアレですら、あまりの居心地の悪さに吐き気を覚えるくらいだ。
(……でも、吐き気程度で済んでいるのは、私を対象にしているわけではないから)
つまり、余波だけでこのざまなのである。
セラ・アーミレート。外部から呼ばれるくらいの調律者という時点で、特別な人間である事は明白だったが、まさかこれほど特異な者だとは思っていなかった。
「確かに、不快な音だな」
ラガージェンにとっても想定外の存在だったという事なのか、珍しく声に怒気が宿る。
その感情のままに彼は魔力の塊を撃ち出し、セラの左手三メートルほどの位置に大穴を開けた。
どうやら、当てる気はなかったようだ。つまり、これが最後通告。
無駄な一手だ。セラは揺るがない。歌声に弱きなど微塵も宿しはしない。
(いつ殺されたっておかしくはないのに、私が守ってあげられる保証もないのに……凄い度胸ね)
元より、足掻くつもりで此処に来た身ではあるが、おかげで俄然やる気が出てきた。
剣が壊れたのは誤算ではあるが、ハンマーはまだ使える。短剣も何本かは懐にあるし、魔力も万全だ。まあ、それでも、ラガージェンを相手にどの程度の時間稼ぎが出来るのかは不明だが、なにがあってもセラだけは護りぬこうと決意し、ナアレは全身に魔力を張り巡らせる。
それを蹂躪せんと、ラガージェンも圧力を強めていき、
「珍しい魔法を有した者は、あまり殺したくないんだがな。まあ仕方がないか」
ため息と共に、自身の周囲に顕した魔力の塊を圧縮させて――
「――っ!?」
解き放つ寸前、瞬き厳禁の速度をもって左のこめかみを守るように右手を滑らせ、防御行動を取った。
直後、その身体が凄い勢いで地面を削りながら、二十メートルほど移動する。
移動が止まったところで、防御に使った右手首が小枝を折るようなささやかな音と共に地面に落ち、べちゃ、と水っぽい音を立てた。
「防ぐな。今ので死んでいろ。煩わしい化物風情が」
それを行った人物が、つまらなそうな声を響かせる。
その声を聞いた瞬間、あれだけ毅然だったセラの表情に驚きが過ぎった。
「――莫迦が、一人でどうにかするつもりだったか? 驚くな、気分が悪い。……まったく、あとで償ってもらうぞ」
背後からラガージェンを襲った紅毛の青年が、苛立ちを露わにしつつセラを守るような位置につく。
リッセを彷彿させる真紅の髪。もしかすると彼が、あの悪名高い双子の弟なのかもしれない。
「そこの娘はお前さんの関係者だったか、ラウ・ベルノーウ。……それともレニ・ソルクラウの為に此処に来たのか?」
何事もなかったように千切れた手首を復元させながら、ラガージェンが問う。
ただし、その表情には僅かだが苦痛の色があった。ダメージがあったという事だ。しかも、危険を覚えガードした上で効かされた。
これは、勝算が見えてきたと言ってもいいだろう。
「奴への義理はもう十分に果たした。お前が死ぬ理由は一つだけだ」
両の拳に鳥肌が立つほどの魔力を込めて、ラウが臨戦態勢に入る。
完全に怒り心頭といった様子だ。
「……少々、楽をし過ぎたみたいだな。やはり情報は疎かにするべきではないか」
後ろ髪をバサバサと手で乱しつつ苦笑いをうかべてから、ラガージェンは視線を気絶したままのネムレシアに向けて、彼女を空間転移によってこの場から消し去った。
戦いに巻き込むのを避ける為といったところか。
つまり、ラガージェンもそれなりに本気で戦う気という事であり、
「いいだろう。久しぶりに人間という毒を味わうのも悪くはない。足掻いてみせろ。出来れば後悔を済ませてからな」
「それは無理な話ね。人は先に後悔なんて出来ないもの。もっとも、貴方にも出来はしない事でしょうけれどね。ラガージェン」
だからどうしたと喧嘩を買うように、口元に手を当ててナアレは優雅に微笑んだ。
そこに、ラウの声が飛ぶ。
「足を引っ張るなよ、老いぼれ」
「…………あは、そんな事、初めて言われたわ」
おかげでホントに笑ってしまった。
少しだけ強張っていた肩が、ほどよく和らぐのを感じる。
もしかして、これを狙っての言葉だろうか? ……まあ、そんな器用な人間には見えないので、きっと違うのだろうが。
「貴方も、好きな子の前で恥ずかしい姿は見せないでね。私、慰めるのは下手みたいだから」
少しだけ、あの場に置いてきたドゥークとユミルの事を思いながらそう告げ、ナアレは軽やかに先陣を切って儀式を維持するための戦いを再開した。
次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




