07
この話に合わせて、06話の終盤を少し修正しました。
時間に関する部分です。大きな変更点ではありませんが、ご了承ください。
外ではなにが起きるかわからない。
最初にその言葉を俺が聞いたのは、たしかミーアの口からだったか。
あの時は、それこそ何も知らなかったから、その意味を深く考えるような事もなかったけれど、お金を稼ぐために森に足を踏み入れたところで、その一端に触れて、ここが異世界である事を強く意識したものだった。
それから、狩りの仕事をするようになって、そんな世界にも慣れてきて、外というものについてもある程度は判ったつもりになっていた。
本当、つもりになっていただけだったのだ。
その事実を、俺は今これ以上ないくらいに痛感していた。
……といっても、別にこの吹雪自体に、そこまで驚いているわけじゃない。一メートル先の視界も確保できないというのも、大きな問題というわけではなかった。
問題なのは、この十分ほど前に、砂漠を移動していたという事実である。
日本では絶対に味わえない猛暑の中にいたのだ。当然、上着などは脱いでいたし、シャツなんかも汗でびっしょり濡れていた。ドールマンさんなんかは短パン一丁になって、唯一そのままの格好を通したらしいミーアに初心な反応をさせていたりもした。
その格好で、その状態で、突然吹雪の中に突入したのである。
直前で吹き荒れた――というよりは、砂漠地帯を覆うようにして展開されていた砂嵐を抜けた直後の出来事だった。
靴の中いっぱいに入り込む砂に辟易していたところに、この仕打ちである。
まあ、足場の悪さは殆ど変っていないわけだけど、魔物に追われていた状況だったというのもあって、着替えなどがまったく出来ていないのが最悪だった。
いかにレニの身体が色々と頑丈だろうと、この環境の落差はかなり堪える。さっきから歯がカチカチと痙攣を起こしているし、指先の感覚も怪しい。それに、呼吸をしっかりと行えないのも、かなりきつかった。ゆっくり、静かに息を吸わないと、肺が傷むのだ。それだけの冷気だった。
魔力をもっと放出して自身の身体を保護すれば、この負担も和らげる事は出来るのかもしれないけど、それをすればこちらにまだ気付いていない魔物にも存在を知らせる事になる恐れがあるので、それは出来ないし……
「――レニ、ここで交代しよう。止めてくれ」
荷台の中から、ドールマンさんの声が届いた。
現在進行形で魔物に追われているのに何を言っているのかと一瞬思ったが、すぐに自分の感知が疎かになっていた事に気付く。
近くにはもう魔物の気配はなかったのである。
「奴等はこの領域に耐えられなかったみたいだな。最後まで追って来てた一体も、荷台の上で勝手に絶命したみあちだ。まあ、この落差がきつかったのは俺たち以上だろうし、ある意味当然なのかもしれないがな」
……あぁ、そういうことか。
旅車の足を止めて、軽くジャンプして荷台の上を確認し、ようやくドールマンさんの言葉の意味を正しく理解出来た。
子共サイズの四足歩行の魔物は、凍死していたのだ。
というか、それを見るまで死因が想像出来なかったあたり、頭が回っていない。色々な意識が寒さにもっていかれている気がする。
ドールマンさんと交代してからまだ三時間経っていないんだけど、ここは素直に彼の厚意に甘えた方がよさそうだ。
俺は魔物の死体をとりあえず捨ててから、荷台の中に入る事にした。
砂漠に踏み入ってから砂が入るのを嫌って、前後の部分の布はヘアピンみたいなものを使い留めていたから、多少の風を防ぐことが出来ていたけれど、それでも寒さに大きな差はないし、完全でもないので荷台の端には二十センチほど蒼い雪が積もっている。
そして中にいた四人も砂漠でした薄着姿のままで、魔物と同じ末路を辿りそうな有様だった。……まあ、足元のロープを掴んでないとその場にいる事すら困難な状況で、着替えなんて出来るわけもないんだから、当然と言えば当然である。
「保険で持ってきた防寒具でも使ったほうが良さそうだな。ザラー、群れの気配は?」
「……ない」
ドールマンさんの確認に、コーエンさんは必要最低限の言葉で答えた。
その全身はガタガタと震えている。
「あぁ、もう、指先がちょっと莫迦になってるよ。少し、待っててくださいね」
そう言って括りなおした荷物の元に向かうフラエリアさんは、コーエンさんよりは全然余裕があるように見えた。
うっすらと生えている胸毛が若干凍っているドールマンさんに至っては、露出狂めいた格好以外は普段通りだ。身体の血色も良い。
「俺がやるよ。その方が早いだろうしな。……服着てから」
それでも、寒いは寒いんだろう。くしゃみを一つしてから、いそいそと脱ぎ散らかしていた上着とズボンを穿いて、ドールマンさんは人数分の防寒具を取り出し、真っ先に二人分を渡してくれた。
俺はそれを受け取り、ミーアの元に足を向かわせる。
コーエンさんの状態も厳しそうだったが、ミーアはその比ではなかったのだ。唇は紫色に染まっていたし、顔も真っ青だった。あげく、腕の力だけでは自分を支えきれなくなっていたのか、ロープに自分の両足を縛りつけていて、へたり込んだ様子で、先程から一言もしゃべっていない。
「ミーア、着れる?」
「…………え? あ、あぁ、大丈夫です。なんだか暖かくなってきましたし、吹雪はもう抜けたみたいですね」
肩を揺らしたところで、ミーアは俯いたまま独白のような調子で答えた。
これは、かなり不味い状態だ。
俺は少し、躊躇いつつもミーアの頬をぺちぺちと叩いて、
「ミーア、ミーア、眠っちゃダメだからね。まだ吹雪の中だから」
と、触れた先にあった体温の低さに嫌な予感を覚えつつ防寒具を着せる事にするが、その矢先、大きな揺れが荷台の中に駆け巡った。
「――っ、今度はなんだ!?」
叫びながら、着替えを終えていたドールマンさんが外に出る。
「空から、なにかとてつもなく巨大なものが降りてきたみたいだ。距離はまだ遠いが、速い。こっちに向かって来てるぞ! 進路を変える。急げ!」
同じく、寒さから最低限身を守る術を手にしたコーエンさんも苦しげに叫ぶ。
「まったく、のんびりさせてくれないもんだな。全員、しっかり捕まっとけよ、いっそう荒い運転になりそうだからな」
どうやら着替える機会を逃してしまったようだ。
まあ、俺はそれでも問題ないけど、ミーアをこのままにはしておけないので、とりあえず渡してもらった二枚を使って彼女の上半身をくるんで、それから背後につき、左腕を腰のあたりに回して、右手で足元の手摺ロープを掴む。
自力で踏ん張るのも限界のようだし、上着では足りないかもしれない分を、こちらの体温で補う事も出来るだろうという考えからの行動だった。
「それじゃあ、行くぞ!」
気合いの入ったドールマンさんの掛け声と共に、旅車が移動を再開する。
宣言通りの荒っぽさ。……これは、変に気を遣っていたらミーアを支えていられない。
だから、もう少し密着を強める事にする。
抵抗は特になかった。
人に触れられるのは嫌という話を聞いた覚えがあるので、そこが少し気がかりだったりもしたんだけど……それにしても、華奢な身体だ。
何事もなければ、その女の子っぽさにドキドキしたのかもしれないけど、こういう状態で認識すると脆さの方を意識してしまってダメだった。
なんというか、無性に怖くなるのだ。このまま体温が下がっていったらどうしようとか、ネガティブな方向にばかり思考が引っ張られてしまう。
それを振り払うように、俺はさらに密着を強めた。
出来るだけ、揺れを感じさせないように、また温度を分けられる事を考えて、彼女のか細い息遣いに神経を向ける。
その甲斐があったのかどうかは知らないけど、しばらくすると氷のように冷たかったミーアの身体に熱が戻ってきて――
「――え? ……え!? あ、あの、これは、その、どういう状況……」
朦朧としていた意識の方も、回復してくれたようだった。
ミーアはやけにビクついた様子で、そんな事を訪ねようとしていたが、言っている最中に何故こうなったのか想像出来たんだろう。今度は捨てられた子犬みたいな表情になって、それはもう今にも泣きそうで、
「……不覚です」
蚊の鳴くような声で、そう呟いた。
そんな様子をコーエンさんとフラエリアさんも心配そうな表情で見つめている。多分、こうなるまで二人とも気付かなかったんだろう。やせ我慢して、気付かせなかったのだ。
らしいと言えばらしいのかもしれないけど、焦ったぶん少し腹立たしくもあって、
「ミーア、こういう時はすぐに自分の状態とか報告しないとダメだよ? いや、本当に。我慢すればいいって問題でもないんだから」
「す、すみま――」
ガンッ!、と大きく荷台が揺れて、身体が少し宙を浮いた。
それを即座に立て直しつつ、
「……力は、入る?」
「は、はい。……あ、いえ、正直まだ厳しいです。この姿勢を維持するのに、かなり魔力を使ってしまっているので……」
微かに震える声で、ミーアは答える。
魔力というのは身体能力を強化するだけでじゃなくて、免疫だったり、抵抗力だったりを補佐するのにも使われるものだ。
それが決定的に不足した結果、寒さに耐えられない状態に陥ったということなんだろう。
彼女はこの面子の中で一番魔力が少ないわけだし、真っ先にこうなるのも必然だったのである。
「じゃあ、寒さの方にだけ魔力を使ったほうが良い。いつここを抜けられるかも判らないわけだしね」
「はい……」
そこで会話は終了し、沈黙が訪れた。
訪れたところで、ふと冷静になって……必要だと判断しての事とはいえ我ながら大胆な事をしたもんだなと、今の距離感を前にちょっと恥ずかしくなってきた。
これも、安心したからこその感情ではあるんだろうけど、どうにもバツが悪い。
こういう時は、別の事を考えるのが一番だ。それが重要な事であるなら尚良い。……たとえば、そう、レニの切り札についてなんてどうだろうか。
追体験の際、俺の眼では突然敵がやられたようにしか見えなかったあの現象の秘密を知る事が出来れば、今よりこの身体の性能を上手く使えるようになるだろうし……いや、まあ、レニ本人が使用に躊躇いを覚えていたくらいの魔法を、今の俺に扱えるとは到底思えないので、知ったところでな気もするけど。
「――よし、向こうの進路からは外れた」と、コーエンさんの報告が届いた。「グゥーエ、もう速度を落としてもいいぞ」
「それはいいが、吹雪地帯の方はいつ抜けられるんだ?」
「あと二十分ほどで人域寄りの中域に出る。多分そこまでだろう」
「人域寄りか、なら休憩も出来そうだな。最高の情報だ。頑張れそうだよ」
やや気怠げに言いながら、ドールマンは速度を落とした。
荷台の揺れがやや落ち着く。目安が出たからだろう、フラエリアさんも表情を緩めて「今回のはきつい連続だったね、しかも色がつくくらい濃い魔力の影響で発生した雪とか、魔力の防壁すり抜けて芯まで冷やしてくる感じだし、ザラーも大丈夫?」と声を掛けていた。
その音に潜むように、
「二十分、ですか……それなら、私も頑張れそうですね」と、消え入りそうな声が目の前から届き「うっ」となにかを堪えるような呻き声が続いた。「その、実は、気持ちが悪くて、吐きそうでもあったので……」
「……あぁ、うん」
まあ、この揺れである。
少し体調が良くなったせいで、今度はその問題を身体が思いだしたんだろう。
よくある人体の不思議だが、彼女が二十分耐えられるかどうかは、かなり怪しそうだった。
「ドールマンさん! すみませんけど、少し急いでもらっていいですか! トイレに行きたくなってきたというか、ちょっと漏れそうなんで!」
「――は? へ? お、おう、わかった!」
さすがに素っ頓狂な告白に聞こえたのか、やや戸惑った反応を見せつつも、ドールマンさんは速度を上げてくれた。
それに感謝しつつ、勝手な提案をしたことを二人に軽く謝りつつ、俺はミーアの上体を少し持ち上げて、
「もう少しの辛抱だからね。大丈夫。大丈夫だから」
と、彼女がヤバそうな時に何度かそう繰り返しながら、旅車が停止するまでの時間を費やす事にした。
次回の投稿は三日後の予定です。よろしければ、また読んでいただけると幸いです。