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(……やってしまった)
我に返って、涙も収まったところで、ミーアが真っ先に抱いたのは羞恥だった。
もうなんというか、消えてしまいたいくらいに恥ずかしい。
ここは誰もいない密室などではなく、往来する多くの人の目にも止まるオープンカフェなのだ。そこで、無様極まりなく泣いて、大きくはなかったと思うけど嗚咽まで零して……それはこれまでの人生の中でも間違いなく一、二を争うくらいの醜態だった。
だというのに、ちょっとすっきりした自分がいる。
泣くという行為にそういう効果があるというのは、部屋に一人きりでいる時とかに突然どうしようもないくらい悲しくなって、枕に顔を埋めて声を殺して泣いたりした経験が度々あった身としては、よく知っているものだったけれど、どうやらそれは人前でも変わらないくらい強力な作用をもっていたらしい。
まったくもって知りたくなかった事実ではあったが。
「……も、もう、大丈夫ですから」
おずおずと言葉を出して、ミーアはアネモーから離れてテーブルに置かれていた濡れタオルを使い、涙やら鼻水やらを拭った。ちなみに、このタオルはミーアが泣きじゃくっている間に別の料理を運んできた店員が無言で用意してくれたものであり、おそらくはリッセが渡した迷惑料の恩恵という事になるのだろう。
そこにもまた複雑な感情を覚えつつ、ミーアは水を一杯飲んでから、短く息をはいた。
それに合わせるように、向かいの席に座りなおしたアネモーも水を飲んで、
「冷めても、美味しいね」
と、小さく笑った。気を遣われているのがよく判った。
彼女は、本当に優しい人だ。きっとミーアがなにも言わなければ、レニの事をこれ以上訊いてくる事もないのだろう。それは、こちらにとっても酷く楽なことで……だけど、今必要なのはそれではなく、踏み出すための答えで。
「私は、どうすればいいと思いますか?」
自分でもどうかと思うくらいに曖昧な問いを、ミーアは口にしていた。
そして、最初は話すつもりのなかった情報(レニが異世界の人間である可能性や、自分になにも言わずに帰ろうとしているのかもしれない事)なんかも漏らしていく。
ここまでの醜態を晒してしまった以上、今更隠したいものもないし、全てを知ってもらった上で彼女の意見が聞きたかったのだ。
我ながら他力本願もいいところだけど、涙に続いて吐き出せるものを全部吐き出せたおかげが、不思議と素直な気持ちで乞う事が出来た。それだけでも、大きな成果といえるだろう。
少しだけ前向きになれている自分を把握しながら、ミーアはアネモーの答えを待つ。
すると彼女は言葉を選ぶように視線を彷徨わせてから、
「その前に一つ聞きたいんだけど、今のレニさんの事をどう思ってるの? っていうか、いつから偽者になったって思ってるのかな?」
と、訪ねてきた。
その所為で、胸の奥で渦巻いていた不安が再び顔を出す。
「それは……わかりません」
「本当に?」真っ直ぐにこちらを見つめて、アネモーは念を押すように訊いてきた。「だって、それって別人になったって事でしょう? しかも異世界の人なんだよ。入れ替わっていたんだとしたら、絶対に違和感があったと思うんだけど、そういうのもなかったの?」
「私はあまりレニさまの事を知りませんでし、その、最初の頃はそんなに気にもしていなかったので……」
少なくとも人としては見ていなかった。
目的や役割のための存在で、性格やらなんやらは二の次だったのだ。……まあ、それでも、悪い人じゃないのはすぐに判ったけれど。
「じゃあ、最初の頃から、その、偽者? だったんじゃないのかな? それこそ貴女に会う前から」
「……そうだと、いいんですけど」
本当に心の底からそう願うし、今冷静になって考えてみれば、多分その可能性は高いのだろうとも思う。
だけど、確信がない以上安心は出来ない。万が一が怖くて仕方がない。そしてどうすれば、確信できるのかもわからないのだ。
そんなミーアに、アネモーは言った。
「絶対にそうだよ。少なくとも、わたしは最初にあったレニさんと今のレニさんは同じ人だと思うし。多分、リッセさんもそうなんじゃないかな? だから、その事を特に気にしてないんだって思う。じゃなかったら、絶対に怒ってるだろうし」
「それは、確かにそうですね」
だとしたら、ミーアの心を救ってくれたのは今の彼女という事になり、一番の不安も解決する。
でも、それでもやっぱり許せない気持ちまでは拭えない。騙されていた事実は消えない。このしこりが無くならない限り、どう接していいのかが判らない。
判らないから、どうしても二の足を踏んでしまう。
その気持ちを吐露すると、アネモーは困ったような表情を浮かべてからこう言った。
「でもそれは、仕方がない事だと思うよ」
「仕方がない? 偽る事がですか?」
「うん。……もし見知らぬ世界に一人落とされて、一人しか味方が居なくて、その味方が味方じゃなくなるかもしれない真実を話せるのかって問われたら、わたしは無理だと思うから」
「あ……」
愚かしいにも程があるけれど、ここで初めて偽者のレニという奇怪な存在の、置かれている立場というものに意識が向いた。まだまだ全然余裕が足りていない証拠……いや、たとえ普段通りだったとしてもどうだったか。
(もし、最初から違ったのなら、あの人はどんな精神状態で私といたんだろう?)
右も左もわからない中で、この世界に順応しつつ、自分とは違う人間として振舞って生きていく事の大変さとは、一体どれほどのものなのだろう。
(……私だって、無理だ)
そもそも、隠し事をしていたのは自分もそうだったではないか。
レニ・ソルクラウを殺す立場になっていたかもしれないという真実を、最初から告げるような真似は出来なかった。最終的に語る事にはなったけれど、それだって彼女から逃げるための口実みたいなものだったわけで、お世辞にも誠実とは言い難かった。
それでも、あの人は許してくれたのだ。
身勝手だった自分を受け入れてくれた。一緒に生きていこうと言ってくれた。あの言葉にどれだけ救われた事か。……そんな人を許せないだなんて、絶対に嫌だ。
(私は、どうしたいの?)
ミーアは再び自問する。
だが、それは先程までの堂々巡りとは違い、未来を視野においた思考だ。
全てが真実だとして、彼女が元の世界に帰りたいというのなら、自分はどうするべきなのか。なにがお互いにとっての最善なのか。それを考えた。
その答えは、もちろんすぐには出せないし、彼女と向き合う事への恐怖が消えたわけでもないけれど、会わなければ始まらない事だけははっきりしていた。そうしなければ、何も選べはしないのだから。
「……アネモーさん、ありがとう。大事な事に気付かせてくれて。貴女がここに来てくれて良かった」
素直な気持ちをミーアは口にする。
するとアネモーは軽く頬を掻きながら、はにかむように笑い、
「わたしが答える必要は、もうなさそうだね、あんまり大した事言えそうになかったから、正直ほっとしてるけど」
そう言ってから水を一口飲んで、
「と、ところでさ、やっぱりあの人が戻って来る前に食べきらないと怒られたりするのかな? 残すなとか言ってたし」
と、何故か怯えた様子でそんなことを心配しだした。
「……気になっていたのですか、彼女となにかあったのですか? ずいぶんと怯えているように見えますが」
「あー、うん、別になにかされたとか、そういうわけじゃないんだけどね。むしろ、命の恩人だったりするし。ただ、その時の様子というか空気が凄く怖くて」
だから、今も苦手意識があるのだとアネモーは告白した。
なんとも遺憾な話だ。やはりあの女は性質が悪い。そんな、当たり前過ぎる事実を再確認しつつ、ミーアは手近にあった料理に手を伸ばしながら、淡々とした口調で言った。
「全部食べれば問題ないのであれば、怯えるような必要はありません。それに、仮に完食出来なくて文句を言って来たとしても、私が黙らせます。一対一であるのなら、あんな人には負けませんので」
「――ずいぶんと強気ね。普段の威勢が戻って来たじゃないか?」
愉しげな声が返ってくる。
その気配にはすでに気付いていたミーアは、真っ直ぐに視線をそちらに向けて、
「ええ、おかげさまで。……食事が終わり次第、行動を開始してください。時間が惜しい」
どこまでも静かな声でそう告げ、心が落ち着きを取り戻した事を示した。
もう狼狽えはしないという、強い意志と共をもって。
次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




