04
「あら、これは意外ね」
両手を軽く胸の前で合わせて、ナアレ・アカイアネは目を丸くした。
「まさかあの悪名高い貴族飼いが、こんなに小さくて可愛らしい女の子だとは思っていなかったわ。ミーアまで居るのも意外。数までは把握出来ていなかったみたいね。これもまた、なかなかに愉快な経験だわ」
「……まるで、この屋敷の主のような振る舞いですね」
棘しかない声を返しつつ、ミーアは背後にいる冒険者共の無言の圧に促されるように、一時的に解かれたこの結界の部屋の中に足を踏み入れる。
と、そこで隣のリッセに視線を向けると、彼女は花のように可憐な微笑を浮かべていた。
短い付き合いだし理解したいと思った事もない人種だが、それでも判る。これは完全に、悪意に満ちた表情だ。この女は人を踏みにじる時にこそ、魅惑的に嗤うのである。
なんとも性質の悪い話だが、怒りを覚えているのはこちらも同じなので、忠告をしてやる義理もない。
「それ、美味しそうね。こうして仲良く檻の中に入る事になったわけだし、あたしにも貰える?」
テーブルに置かれていたカップの中身を指差して、リッセはやや小さな声で言った。
「ええ、どうぞ」
「じゃあ、新しいカップを用意してもらえるかしら? どこにあるのか知らないし」
「それは嘘ね。だって、貴女はここを視ていた筈で――」
がしゃん! と、突然食器が割れる音が響いた。
何が起きたのか、ミーアには一瞬理解出来なかった。後ろで結果を張り直す準備を始めていた者達も同様だろう。
「……痛いわ」
中に入っていた甘い香りの液体を頭からかぶりずぶ濡れになった姿で、唇と頬、そして目尻から血を流しながら、しかしナアレはその程度の事など気にする価値もないと言わんばかりに穏やかな口調で言う。
その言葉を聞いた直後、隣にいたはずのリッセの姿が掻き消えていて、側面から思い切りポットでナアレの顔面を殴り倒したという事実が、視覚情報として入ってきた。
つまり、部屋に入った時点でこうする気だったというわけだ。そしてそれは見事に成功したみたいだけど、リッセの表情は不満げだった。
「一発目は避けると思ったんだけどな」
「それをしたら本命が躱せないかもしれないと思ったの。だから、先に受けておいたほうがお得かなって」
ナアレ・アカイアネはいっそ可笑しそうに微笑む。
向こうは向こうで、これくらいの仕打ちは覚悟の上だったという事のようだ。
「ムカつく女ね。……まあいいわ。じゃあ、舐めた真似した事はこれで許してあげる。だからほら、仲直りの握手」
そう言って、リッセは右手を差し出し冷たく微笑んだ。
「まさか、こんな可愛らしい女との和解を、拒んだりはしないよな?」
「それは――」
言葉の途中で、リッセはナアレの右手――ではなく、右手首をギュッと掴んで、乱暴に上下に揺らす。
すると、あれだけ余裕を見せていたナアレの表情が途端に引き攣った。さらには、みるみるうちに瞳に涙までためていく。
それがあまりにも稀有な光景だったからか、ドアを開けたまま廊下の前に佇んでいる冒険者たちも唖然とした面持ちで見つめていて、
「……ところでさ、せっかく大人しく捕まってやったっていうのに、いつまでそこ開けてんの? あたしって結構気紛れな方なんだけど、いいわけ?」
「も、持ち場に戻るぞ。それと結界のさらなる強化を進言しておけ」
バツの悪そうな表情と共に二階にいた男がそう言って、ドアが閉められた。
程なくして結界も完全に張り直される。
それを確認したところで、リッセは手を離して、
「で、手首に罅入るくらい力一杯結界に干渉して、他人の邪魔しかしなかった莫迦は、どういうつもりでそんな莫迦をやらかしたのかしらね?」
と、冷めた表情でそう訪ねた。
そこでようやく、ミーアもナアレの右腕に異常があった事実に気付く。
(最初に動きに特に違和感はなかったし、肌だって袖と手袋で隠れていたのに、それでも判るのね)
なんだろう、ちょっと嫌な感じだ。
自分もまた許可なく覗き見がされていそうな気がしてならない。
「……心配しなくても、あんたの裸になんて興味ないわよ。せいぜい着やせするくらいの特徴しかない奴に言う事もない」
「――っ!?」
まるで心を読みとられたような発言に、ミーアの心臓は大きく撥ねた。
「あら、貴女って着やせするのね? それは大変羨ましいわ。私、胸だけは誇れるほどないのよね。まあ、動きやすいから冒険者稼業には必要ないのだろうけれど」
罅の入っている右腕を軽くさすりながら、ナアレも話に乗っかってくる。
二人の視線は、露骨なほどにミーアの胸部に向けられていて、
「……なんですか、私が太っていると言いたいんですか?」
「そんな事誰も言ってないだろう? 無駄な脂肪の少ない淑やかな体型が羨ましいのは判るけれど、僻むなよ。見苦しい。あと話の腰を折るな。本題に入りずらくなったでしょう?」
「あ、貴女が言いだした事でしょう!」
リッセのあまりの暴言に、ミーアはついつい声を荒げる。
「それも、あんたが露骨すぎる所為だろう? 急に自分の胸元見て顔顰めて、指摘しない方が難しい」
「なんですかその意味不明な理屈は。大体、それをいうなら、そもそも貴女の存在が失礼だからいけないんじゃないですか」
「……自意識過剰な奴、その目二度と使えなくしてやろうかしら?」
ため息交じりに、リッセがぼそりと呟いた。
それに負けじと「性悪女が、今ここで始末してもいいんですよ?」とミーアも言葉を返す。
見事なまでに険悪な雰囲気。先程、背中を預けるだなんて考えをした自分が居たことがまったくもって信じられない。
「……あー、貴女たちは、本当に仲が悪そうね」
若干気後れした様子で、ナアレが呟く。
呟いてから、こほん、と咳払いを一つして、
「さっきの答えなのだけど、私がああでもして止めなければ彼等が殺されていたからよ。この屋敷にいる大半の子たちは、私の後輩だからね。むざむざと殺されるのは避けたかったの。殺されるほどの事もしていないしね。……でも、それにしても、いきなり彼等の死が直前の距離まで近づいていたのが視えた時は、さすがに吃驚したわ」
「距離を扱う魔法ってのは、そういうものにまで干渉できるのか? 大したもんね」
微かに目を細めて、リッセが言った。
「観測できるだけよ。干渉できる事象は限られているわ」
「そんな大事な秘密、軽々しく口走って良いわけ?」
「良いも何も、貴女はそれを既に知っているのでしょう? ……ヘキサフレアス、噂以上の目と耳をもっている組織のようね。まあ、その首領が自ら危険に飛び込んできた事実の方が、驚きではあったけれど」
「指示だけ出してふんぞり返るってのは趣味じゃないんだよ。そんなの貴族みたいなつまらない奴等だけがやってればいい。大体、刺激のない生なんて死んでるのと変わらないでしょう?」
「ふふ、それは素敵な考えね。ええ、同感だわ。だから貴女の事はとても好きになれそう」
「ここから今すぐ出られる算段があるなら、あたしもあんたの事が少しは気に入れそうだけど、そのあたりはどうなわけ?」
「残念ながら、今は無理ね」
「時期尚早って事か?」
「それは判らないわ。ただ、今足掻いても目的に早く届くわけではない。私に判るのはそれだけよ」
「……あ、そう、まあいいわ。じゃあとりあえず仕切り直しということで、なにか飲み物が欲しいわね。今度はちゃんと頂くわ。予備くらいあるんだろう? ここはそういう快適な檻みたいだし。――ほら、ぼけっとしてないで早く用意しな。貴重な話し相手の機嫌は損ねるものじゃないでしょう? もっとも、あたしみたいにギスギスした話が好みっていうなら、それでもいいけど?」
ソファーに深々と身を預けながら、リッセは愉しげに微笑んだ。
それを前に、ナアレはどこか嬉しそうに目を細めて、
「すぐに用意させていただくわ。私は愉しい話の方が好きだから」
と答え、こちらに背中を一度向けてから、再びこちらに振り返り、
「あぁ、でもその前に、出来れば怪我の方を治して欲しいのだけど、そこまでが貴女たちの罰なのかしら? だとするなら甘んじて受けるつもりではあるけれど」
「あたしの報復は終わったよ。とりあえず理由には納得したしね。治すかどうか、許すかどうかはそいつが決める事だ」
リッセの冷めた視線が、こちらに向けられる。
「わ、私は、そもそも報復なんて考えはもっていません。野蛮な貴女と一緒にしないでください」
咄嗟にそう言葉を返しつつも、リッセのその言葉によって怒りが再燃したのを、ミーアは胸の奥が沈むように冷たくなっていく感触と共に把握していた。
だって、この女がレニをおかしくしたのは間違いないのだ。
そしてそれを問い詰める為に、自分はここに来たようなものでもあった。許すかどうかは、それこそレニに何を吹き込んだのかによるのである。
(…………でも、本当に聞いても、いい事なの?)
レニが自分には言わなかった事。それを、彼女のいない場所で勝手に知ろうとするというのは、彼女に嫌われてしまう行いではないのだろうか?
もし、ナアレ・アカイアネが悪人で、ただレニを騙したり傷つけたりするつもりでいるのなら、なんの問題もないし、ただ償わせれば済むだけの話だけど、きっとそんなミーアだけに都合のいい敵ではないだろうし、そこまでのリスクを冒してまで、果たして自分は踏み込むべきなのか……
「……すぐに治します、じっとしていてください」
元凶を前に行動に悩むなんて中途半端な自分に嫌気を覚えながら、ミーアはため息交じりにそう答えて、ナアレの腕に手を当て、治癒を施していく。
そのあいだに、この自問に答えが出る事を期待しながら。でも、きっとそうはいかないんだろうな、と自身の臆病さを理解しながら。
次回は三~四日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




