05
幸いというか、おぞましい他人の感情は一人になってしばらく我慢していると霧散してくれた。あと、具現化の方も驚くくらい簡単に機能した。その際、またレニの記憶を見るような事もなかった。
とりあえず、義手については自由に引き出す事が出来るようになったというわけだ。
ただ、それ以外についての進展は特になく……というより、またあの最悪の気分に侵される可能性が怖くて、安易に手を伸ばす気にはなれなかった。
これもまた、あの恐ろしく美しい聲の主の意図なのか、或いはレニ・ソルクラウの気紛れなのか。どちらにしても、義手の件は自分で掴んだというよりは掴まされた印象が強く残っていて、結局大きな不安を抱えたまま、当日を迎えるはめになってしまったわけである。
おかげで見事に寝不足だ。
まあ、体調不良とまではいかないから大丈夫だとは思うけど……それにしても眠い。
俺は口元に義手を置きながら、欠伸を噛み殺しつつ、懐中時計を取り出して時刻を確認する。
図書館でコーエンさんに聞いた話では、四時に東門の前に集合との事だったので、あと十五分ほど。
「ちょっと早く来過ぎたかな?」
「そうかもしれませんね。ですが、遅くなければ問題ないかと」
隣に佇むミーアが涼しげな声で言う。
そんな彼女の目元には、何故か昨日よりも深い隈が刻まれていた。彼女にも、何か心配事があったりしたんだろうか?
「……ところで、ミーアも夜更かし?」
遠まわしにそれを探るべく、俺は訪ねてみた。
するとなぜか、ミーアは焦ったように瞬きを繰り返してから、
「いえ、私はすぐに眠りました。いつも通りの時間です」
と、視線を微妙にこちらから逸らしつつ、やや口早にそう答えた。
なんだろう、中学の修学旅行の時に、これと似たような反応をしていた友人がいたのを思い出す。
「もしかして、愉しみで眠れなかったとか?」
「そ、そんな事はありません」
適当に言ってみただけだったんだけど、どうやら図星だったらしい。
しかも、その事実は彼女にとって恥ずかしい事のようで、頬が少し赤かった。
「そう? 私は愉しみで眠れなかったんだけど」
「え?」
ぴく、とミーアの身体が硬直する。
それから、彼女は不安そうに視線を泳がせて、
「あ、ええと、その、じ、実は、私も少しだけですけど、楽しみだったといいますか、こういう旅みたいなのってあんまり縁がなかったから、新鮮で……」
ぼそぼそと、そう答えた。
それがやけに微笑ましくて……なんというか、すごく気が楽になった。
せっかくの機会なんだから、俺もこの冒険を楽しもうと思えるようになったのだ。
「――お、あんたら早いなぁ、俺が一番乗りだと思ってたんだけどなぁ」
後ろから聞こえた声に振り返ると、ドールマンさんが駆け足でこちらにやってきていた。
その五メートルほど後方にフラエリアさんの姿もある。
「たしかに、グゥーエにしては本当に珍しく、早かったけどね」
俺たちの前で足を止めたところで、追いついたフラエリアさんが嫌味を並べてから「おはようございます、昨日は寝れました?」と、こちらに向き直って笑顔をむけてきた。
「まあ、ほどほどに。……それはそうと、コーエンさんはどうしたの? まだ、姿が見えないようだけど」
「ザラーは微妙に足りてないものを買い足しとくって少し寄り道してるから、時間ギリギリに来るんじゃないかなぁ? 遅れることはないと思いますよ。そういうの煩い奴だし。むしろ、遅れたら事件ですね」
「事件なんだ?」
それは凄い信頼である。
「――って、言ってる間に来たみたいだね」
フラエリアさんの左後方、だいたい五十メートルほどの距離だろうか。
ずいぶんと大荷物というべきなのか、荷馬車のようなものを運んできている。もちろん、都市には人間以外の動物はいないので、引いているのは馬ではなくコーエンさんだ。
正直、肉体労働のイメージはないので、その絵面に少し面食らったが、特にフォローをする必要はなさそうである。
「珍しいな、グゥーエが最後だと思ってたんだけど」
「信頼ないな、おい」
「あるわけがないだろう」
つまらなそうに言ってから、やってきたコーエンさんがこちらに対して小さく会釈をしてきた。
それに同じように会釈を返したところで、
「それが旅車ですか。……中を確認してもよろしいですか?」
と、ミーアが口を開いた。
好奇心というよりは、重要度から来る行動といったところだろうか、まあ、これがテント代わりにもなるわけだし、実際どんな感じなのかは俺も気になるところだった。
なので、しれっとミーアと共に後ろに回って布で覆われた中を見てみる。
まず目に付いたのは、足場に等間隔で生えているロープで出来た手すりのようなものだろうか。伸縮性があるのかどうか知らないが、奥にある荷物はそれでがっちりとホールドされている。
その荷物は体育座りをした成人男性二人分くらいのスペースをとっているのだが、それが埋めている分を抜いても結構狭い印象だ。少なくとも五人が眠るには窮屈そうだった。
「……座って眠れば、最低限の空間は確保できそうですね」
ぽつりとミーアもそんな事を呟く。
それが、聞こえたのかはわからないけど、
「じゃあ、あの辺りでそろそろ広げるとするか」
と、ドールマンさんが言った。
その言葉に従って、旅車が移動を開始し、門を出て二十メートルほどの距離で止まる。
止まったところでコーエンさんの声が飛んだ。
「目一杯にするのか?」
「いや、それだとさすがに運び難くなるしな。七割くらいでいいだろう」
「わかった」
前に傾いていた荷台部分の重心が、コーエンさんが手を離した事によってだろう、後ろに流れた。
それからコーエンさんが荷台の左側に、ドールマンさんが右側に回り込んで、脇にあった出っ張りのようなものを掴み、それを引っ張っていく。
すると、釣りのロッドを伸ばすみたいに荷台の横幅がぐっと広がった。それに合わせて、それなりに弛んで見えた布も、ぴんと張り詰めていく。
縦方向にも同じようなギミックがあり、二人がそちらの方も展開させると、旅車の中は初見時の二倍以上のスペースとなった。これなら、寝返りも楽に出来そうだ。
「……よし、これでいいな」
満足そうに頷いたドールマンさんが、続けて俺の方に視線を向けてくる。
「ということで、さっそく出発するわけだが、どっちが先に旅車を引いていくか、こいつで決めないか?」
取りだされたのは一枚の硬貨だった。
表に剣と盾が描かれ、裏に花と数字が描かれたものだ。日本円基準で言うなら五千円くらいの価値のやつである。
「これくらいの重さのものなら、私でも十分引けると思うのですが。本当にお二人だけで行うのですか?」
荷台の背を少し押してみての感想だろう、ミーアが口を挟んだ。
その疑問に微かに目を細めつつ、ドールマンさんは答える。
「移動には一定以上の速度が必要不可欠だからな。……たしかに、あんたもそれなりに速いんだろうけど、力はないだろう? まあ、それでも今は荷台が空だからギリギリ足りるのかもしれないが、これからかなり重くなる予定だし」
「魔物の死体で、ですか?」
「大物の死体で、だ。小物は食以外の理由じゃ置くつもりもないしな。大事な臨時収入は出来るだけ欲張るつもりでいる。だから、あんたには慣れない事に労力を割かれるよりも、治癒に専念してもらった方がありがたい。もちろん、その機会がないに越したことはないがな。……納得出来たかい?」
「ええ、申し訳ありません。お手数をおかけしました」
「別に謝るような事はないさ。そういう気遣いはありがたいとも思ってるしな。なにより意見の交換は大切だ。だから、気になる事はどんどん言ってくれると助かる。……で、そっちはどうだ?」
ドールマンさんの視線が、俺の方に戻ってきた。
「そうですね。私は後でも先でも構わないんですけど、それでもやりますか?」
「あぁ。もちろんだ。どっちかっていうと、これは俺自身の勘が冴えてるかどうかを確かめるための儀式みたいなもんだからな」
「……そういうことなら、乗らない理由はなさそうですね。私は表で」
「じゃあ、俺は裏だな」
愉しげに言って、ドールマンさんは親指に乗せた硬貨を弾いた。
子気味の良い音を立てて、硬貨が宙を舞い、ドールマンさんの手の甲に落ちるとともに、掌によって押さえつけられる。
おさえた手を離した先にあったのは、剣と盾だった。
「表か。……よし、じゃあ俺から始めるとするかね。ということで、全員さっさと乗り込めよぉ。ほらほら、急いだ急いだ」
ぱんぱんと手を叩く音が響き、乗り込みを急かされる。
「……二人とも、手すりはしっかり掴んだ方がいいですよ。グゥーエの運転って、基本乱暴だから」
中に乗り込んだところで、やや嫌そうな表情と共に、フラエリアさんがしゃがみ込み、足元に生えている手すりを両手でぎゅっと握りしめた。
その忠告に従って、俺とミーアも座るのではなく、いざという時に踏ん張りが利くようにしゃがんで、手すりを握りしめる。
まあ、こっちが使えるのは右手だけだけど、レニの身体能力なら特に問題ないだろう。――そんな楽観を轢き殺すように、
「それじゃあ、行くかね! 最高速で!」
高らかな宣言と共に、いきなり荷台が宙を舞い、旅車は凄まじい速度と共に駆けだしていく。
……あ、これバンジージャンプよりヤバいやつだ、と理解するのに二秒と掛からなかった。
何故なら、中央付近にいたコーエンさんの身体が外に向かってかっ飛んでいたからだ。咄嗟に自由にしていた左腕を伸ばして、それを彼が掴んでくれたから事なきを得たけど、下手をしたらそのまま地面に頭からダイブする事になっていただろう。
「ザラー! もっとちゃんと掴んで!」
焦ったようにフラエリアさんが叫ぶ。
「縄が切れたんだ! 足回り以外もちゃんと吟味してくれ! というか、さすがに張り切り過ぎだ! 速度を落とせ!」
若干涙目になりながらコーエンさんが抗議するが、けたたましい走行音の所為か、はたまた聞く耳持たずなのか、速度が落ちることは一切なかった。
予定ではここから三時間、交代するまでの間ノンストップで走り続けるという話だったのを思いだしつつ、さらに激しさを増していく荷台の中の状況を鑑みつつ、これはなかなか大変な遠足になりそうだな、という不安を胸の内に宿しながら、俺は舌を噛まないようにしっかりと歯を食いしばって、ロープを握る右手の力を強めたのだった。
次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。