10
この夜の世界には、星しかない。
だからこそ、必然的にその話題が多く飛び交うようになった。
まあ、それもすぐに底が尽きて、次第に無口な時間が増えていったけれど、それでも星の話には救いがあった。
考えるという救いだ。
一見すると真っ黒な水たまりの、しかし何の足音も返さない凝縮された闇のような道を、荷台を引いて歩きながら、俺は空を見上げていた。
二十八の星。それらに付けられた二十八の名前。
そこにはレニの記憶の中に出てきた、グロノアセヌもあった。二十七番目の星の名前だ。
ちなみにこの番号は基本的には曜日順であり、同じ日に浮かび上がる星同士の順番に関しては、一週目でどちらが先に夜空に浮かんだかによって決められたらしい。
この世界は一日二十八時間で、一週間が十四日、そして一月が二週間で構成されている。一週目というのは、その二週間のうちの一週間目という意味だ。二週間目は必ず、星が顔を出す順番が逆になるらしい。
念入りに空を見て生活してきたわけじゃないので、この辺りは初耳だった。
ともあれ、あのおぞましいほどに美しい聲の言葉を信じるなら、星の名前は墜ちた神の名前という事になる。
なら、レニが殺したのはグロノアセヌと対となっている星、リヒトファーシュであると考える事も出来た。
そして、見上げた先にあるその星は今、色褪せ黒く燃え上がっている。
他にも六番目の星であるクラーナや、十一番目のアネース、十五番目のナナントナ、十八番目のエス、二十三番目のネブロも同様だった。
ただし、グロノアセヌは違う。その星は黒い炎に絡みつかれてはいない。
これは、一体なにを意味しているのか。この世界はなぜ、全ての星を現しているのか。……まあ、ここからどう抜け出すかという部分とはあまり関係なさそうではあるので、答えを急く必要もないんだけど、現実逃避にはちょうどいい疑問だった。
いや、本当に、何一つ進展がなかったのだ。考える事すら放棄してしまいそうなほどに、ここは渺茫で、虚ろで、絶望的だった。
もし一人きりだったら、間違いなく発狂していただろう。
「……腹、減ったな」
後ろの方で、ドールマンさんの力無い声が届く。
食糧が尽きて、二日目。
彼の見積もりは本当にギリギリ三日分だったので、今日でこの世界に呑み込まれてから五日が経過した事になる。
幸い、飢餓感はあまりないけど、身体はだるいし、喉も酷く渇きやすくなっていた。
前者は無視出来るけど、後者がかなりキツイ。水の方は、俺とミーアが余分にもって来た分を含めても、見積りより早く底を尽きる可能性が高かった。
怖いのは、その付近だ。
今はまだ仲違いにまで発展していないけれど、さすがにみんな精神的に参ってきている。
実際、さっきの呟きにフラエリアさんもコーエンさんもかなりイラついた様子だったし、ドールマンさんもそれくらいの事でって感じでため息をついていた。
ミーアも表面上は穏やかそうだが、二日目あたりから進む方向について強く意見するようになっていたりと、妙な行動がいくつか見えているし……
「……この辺りが限界ですね」
その彼女が、静かな声で言った。
「限界って、なんの話?」
不穏なものを感じたのか、フラエリアさんが強張った反応を見せる。
「もちろん、戦力を維持できる時間についてです。これよりあとでは強硬策が取れなくなる。ですから、今選択をするべきかと」
おそらくミーアはドールマンさんに向けて言っているんだろう。
というか、重大な話っぽいし、なにかに追われているわけでもないのだからと、俺も旅車を動かす足を止めて、それを確認するために振り返り、荷台の中に視線を向けた。
「たしかに、ただ彷徨うだけじゃ幸運は来なさそうだしな。いい加減、波風を立てるしかないか」
やや自虐的な表情でそう言って、ドールマンさんが腰に携えていたナイフを取りだしている。
どうやら、魔法を使うつもりのようだ。
「……僕は反対だ」それに対して、硬い口調でコーエンさんが言った。「仮にここでデタラメに魔力を揮って、この場を乱す事によって夜の女王が反応し、僕たちの前に姿を見せたとして、それが敵を排除するためだったらどうするんだ? 相手は世界そのものを内包しているような怪物なんだぞ? 勝てるはずがない。もう少し耐えるべきだ。少なくとも、生還者たちはギリギリまで耐えた結果、生き延びたわけだしな」
「そ、そうだよ。わたしもザラーに賛成」
怯えを滲ませた声で、フラエリアさんも言う。
「二対二、か。……レニ、あんたはどうなんだ?」
全員の視線が、こちらに向けられる。
この流れのまま多数決で決めるのなら、一番重要な意見になりそうだが……
「そもそも、その波風は本当に立てる事が出来るんですか? 血を使うつもりですよね? それも大量の。それだけの事をして、なにも反応が無かったら?」
「その時は、水の分配量が増えるだけさ。大きな損にはならない」
衰弱必至の自分はさっさと自殺するだけだと、ドールマンさんは当然のように言ってみせた。けして思い付きで口にしたのではなく、結構前から覚悟を決めていたというのがよく判る態度だ。
「レニさま、ここは危険を冒すべきだと思います」
ミーアも同じなんだろう。その目には強い意志が込められていた。
「……それは、勝算があるという事でいいの?」
「はい、少なくともこの領域の主に、私たちの位置をはっきりと示す事は可能です。完全ではありませんが、ここまでの道筋で魔法陣も組みましたから」
「魔法陣だって?」
驚きと不審感を、コーエンさんが滲ませる。
「そんなものをいつ……いや、それ以前に、それはどの都市にとっても最重要機密の筈だ。大まかな紋様とかを知っているだけじゃ意味もない。当然、そんなくだらない戯言を並べているわけじゃないだろうが……そもそも、一体どこの都市の魔法陣を使うって言うんだ?」
「アルドヴァニア帝国の魔法陣の一つです。魔法の効果を増幅してくれます」
「帝国? 一体、何を言ってるんだ?」
「私たちは、海の向こうからトルフィネにやってきました。超長距離の空間転移を用いて。そして、私は、帝国においてはそれなりに重役でもあったので、いくつかの魔法陣についての知識を有しています」
淡々とした口調で、ミーアはこちらの背景を語った。
コーエンさんたちからすれば荒唐無稽もいいところな内容だ。当然、彼とフラエリアさんの二人は反応に困っていたが、この場でつまらないホラを吹く理由なんてないし、この説明で十分だとミーアは判断したんだろう。
それが適切だった事を物語るように、驚きも疑念もなく、ドールマンさんはそれを真っ直ぐに受け止めて、
「……代償はなんだ? 個人で扱うとなれば、タダとはいかないだろう? それは取り返しがつくものなのか?」
と、気遣うように訪ねた。
「そちらが支払おうとしているのと同じ、七分の三度程度の血液ですから、問題ありません。この領域はたしかに特異ですが、魔力自体が侵されているわけではありませんから、おそらく余裕もあります」
「とりあえず、致死量にはギリギリならないって事か。だが、この世界で本当に機能するのか?」
「それはこれから披露します」
そう言って、ミーアは腰にぶら下げていた細剣を抜き、自身の手首を切った。
動脈まで届いたのか、大量の血が噴き出す。
否応なく、背筋が冷える光景だった。あまりに自然にやるから、止める間もない。……こういう事に躊躇がないのはもう知っているけど、それでも慣れる事は出来ないし、なんだかムカムカした気持ちにもなってしまう。
「……どうやら問題なさそうですね。外枠でこれだけ機能すれば十分でしょう」
細剣を仕舞い、傷付けた箇所に治癒の魔法を施したところで、ミーアは呟いた。
安堵すらないのは、やる前から判っていた結果だったからだろう。つまり、その前にリハーサルをしていた可能性が高い。魔法陣と同じで誰にも気付かせることなく、状況を整えていたのだ。
「たしかに、消耗した魔力の量に比べて異常な効果だな。……あぁ、見事な証明だ。これなら、行けそうではあるな」
みるみるうちに完治した傷を前に、ドールマンさんはどこか気乗りしないトーンで呟く。
それから、ちらりと横目にこちらを見た。
俺がどういう反応をするのかが不安になったといったところだろうか。要は、見せかたの悪さを気にしたのだ。
大正解の懸念である。
こんな光景を見せられて、よしやろう、なんて誰が思うものか。
……でも、じゃあ他に何かいい手があるのかと問われたら、俺にはなにもなかった。
覚悟を決めた相手に対して、ろくな代替案も出せない奴が文句だけを並べるなんてのは論外だ。だから結局、俺が取るべき選択は一つしかなくて。
「脱水症状と飢えで死ぬか、圧倒的な力に殺されるか、か。……二人は、どっちを選びたい?」
コーエンさとフラエリアさんに向けて、俺はそう訪ねた。
「え?」
虚を突かれたように、フラエリアさんが間の抜けた声を漏らす。
コーエンさんの方は眉間に縦皺を刻んで、苦々しそうな表情を浮かべていた。
そんな二人の反応を受けつつ、俺は続ける。
「正直、私はどちらも失敗する可能性が一番高いと思っている。なら、現実的に選べるのはその二つ。どう死ぬかだけ。……私は、苦しい時間は短い方が良いかな」
我ながら悲観的な賛成だが、同時にこれはある種の説得でもあった。
「……たしかに、その通りだな。わかった。僕も腹を決めよう。どちらの選択に分があるか判らない以上、そこも重要な判断材料ではあるし、そう考えた時、最悪の結末になる恐れがあるのは前者の方だろうしな」
コーエンさんには刺さるんじゃないかと期待しての物言いでもあったが、どうやら狙い通りになってくれたみたいだ。
これで反対は一人だけ。
「わ、わたしは……」
全員に視線を向けられたフラエリアさんは、眼を泳がせ瞬きの回数を増やし、重圧から逃げるように俯いて、
「そんな事急に言われたって、怖いよ」
ぽつりと、そう零した。
……賭けに出る以上不安要素は出来る限り排除しておきたい、という考えのためとはいえ、こんな風に追いつめてしまう事には、さすがに罪悪感を覚える。
この状況になった時点で、彼女が取れる選択は一つしか残されていないようなものだったからだ。
「でも、怖いけど。……わたし、火力にはなるよね?」
案の定というべきか、フラエリアさんは無理矢理気持ちを奮い立たせるような言葉を口にした。
「少なくとも俺よりは確実にな」
と、ドールマンさんが苦笑気味に頷く。
それは完璧なまでの、最後の一押しだった。
「ちょ、ちょっとだけ待って」
フラエリアさんは自分の胸に左手をおいて、何度か深呼吸をしてから、
「……うん、もう大丈夫。戦うことになったら最大火力で撃つ。それでいいんだよね?」
と、反対意見を覆し、やるしかないと覚悟を決めて、荷台に無造作に置かれていた弓を手に取った。
「満場一致ですね。では、始めます」
荷台から降りて、ミーアは十メートルほど旅車が進んだ道を戻り、周囲を見渡してから、再び細剣で手首を切った。
そして溢れ出る血をつかって、なにかの紋様を描いていく。
――滅花の魔陣。
不意に、そんな用語が頭の中に過ぎった。
続けていくつかの詳細情報も浮かび上がってくる。
『根を張り、茎を伸ばし、最後に大輪の花を咲かせるように、長く長く伸ばして構築する魔法陣。
主に、都市を侵略する際に用いられてきたものだが、大陸にある全ての都市が統一された現在では使用する機会を失っているうえ、上位互換の魔法陣も発見されている。そのため価値自体は低い。が、少数が大型の魔物などを相手にする時には今でも非常に有効。
使用権限は銀、黒、蒼の三色にあり。ただし、レニ・ソルクラウのみは例外として扱い、一切の知識を与えないように――』
「おい、もう十分なんじゃないか?」
ドールマンさんの声で、はっと我に返った。
匂い立つ、夥しいまでの血。今にもふらつきそうなミーアの身体。
「そう、ですね」
本当にふらついたので、慌てて肩を支える。
顔色が青い。そのくせ平静としている表情が、すごく嫌だ。
「……早く、治癒を」
「はい」
俺の言葉に小さく頷いて、彼女は時間をかけて傷を治していく。
すぐに治さなかったのは限界まで血を注ぎたかったからか、ただの回復に魔法陣を消耗させたくなかったからか、そのあたりが理由だと思うけれど……まあ、なんにしても、これで準備は整ったわけである。
「この中心に立ってください。そこが一番力を発揮してくれます」
「わかった」
ミーアの指示に頷き、ドールマンさんが血だまりの中心に立つ。
「動きに支障が出るほどの出血は控えてくださいね。治癒の魔法では血は補えませんので」
「それ、あんたに言われると複雑な気持ちになるな。まあ、善処はするさ」
腰から短剣を抜き、ドールマンさんは自身の掌を切り裂き、その左手を勢いよく振り抜いた。
瞬間、凄まじい怖気が身体を走る。
「……少し離れた方がいいぞ、俺の魔法は血液を対象とした機能不全。大雑把に言ってしまえば、麻痺毒みたいなもんだからな。強制力だって、圧倒的な魔力差のある魔物や、黒や青みたいな魔力の色の強い相手にも十分通る程度にはある。……あぁ、今の状態なら触れないでも汚染できそうだ。本当に凄いな、これは」
高揚を言葉に滲ませながら、ドールマンさんはその毒を周囲にばら撒いていく。
そして地面に落ちたそれらは、硫酸でも浴びせたみたいに、じゅうぅう、と音を立てて暗闇を溶かしていった。
その行為が十秒ほど続いたところで、俺は今までまったく感じ取れなかったドールマンさんの魔力を捉えた。
彼だけではない。ミーアの魔力も、フラエリアさんの魔力も、コーエンさんの魔力も感じ取れるようになっていった。
この世界の法則が弱まった証拠だ。確実に波風が立った。
あとは、これに対して夜の女王がどういう反応を見せてくるか……。
「……」
いつでも戦えるように頭の中に剣を用意しながら、俺は低く姿勢を取る。
ドールマンさんも大剣を手に取り、血塗れの掌で剣の腹をなぞって、毒をこすり付けて戦いの準備を済ませる。
それからやや遅れて、フラエリアさんが弓を構え、矢に魔力を込め始めたところで、風が吹いた。
今までまったくの無風だったこの世界を駆ける、湿った夜の風。
それは足元の闇を剥がし、無数の欠片となって、全てを呑み込もうと襲い掛かってくる。
触れるのはなんだか不味そうだ。俺は咄嗟に足元から広げた魔力をもって、ドームのようなものを具現化して、旅車を含めた半径五メートル程度を覆い隠した。
感知が生き返ったおかげで、欠片の動きがよく判る。
どうやら、攻撃的なものではなさそうだ。それらは具現化したものに付着するでもなく、音を立てるほどの衝突をしてくるわけでもなく、ただ過ぎ去っていき――――まるで夢から覚めたみたいに、突然、その膨大な魔力が潰えた。
喪失感すら覚えるほどの変化。
「……」
俺は、恐る恐る具現化を解いて……短く、息を吐いた。
視界に広がっていたのは、見知らぬ草原だった。膝まで届く薄紫色の草が風になびいている。
足元にあった闇は、具現化を解いたタイミングで融けるように消えていった。
「ザラー、ここがどこかわかるか?」
「あ、あぁ、すぐに調べる」
眼を閉じて、コーエンさんが周囲に魔力を広げていく。
それを感じながら、俺は懐中時計を取り出した。……現在の時刻は二時十四分。見上げた空は、その時間帯に相応しい朝日を放っていた。
「……どうやら、あの領域は相当な速度で移動していたみたいだな。明らかに旅車の移動速度じゃ、届いてないところにいるみたいだ」
「不味いところなのか?」
「いや、むしろその逆だ。かなり近いぞ。今日中に届きそうな距離だ。道も安定してる」
「マジか? それはなんというか、ついてるな」
「呑み込まれた時点で、全然ついてないと思うけどね」
安堵が込み上げてきたからだろう、涙目で上擦った声でフラエリアさんが笑う。
「はは、それもそうだな。……しかし、結局夜の女王には会えずじまいか。案外、大した相手じゃなかったのかもな」
「それって、危険を感じて逃げたのかもってこと?」
「もしそうだったら、なかなかの武勇伝になりそうだよな。まあ、そんな事より……ザラー、近くに魔物はいるか?」
「まあ、いない事もないが、それがいったい――」
ぐぅうぅうぅ、と、ドールマンさんのお腹から快音が響いた。
言葉を上回る、これ以上のない表現である。そのあまりのタイミングの良さに、俺も思わず笑ってしまった。
「そっちだ。あんまり離れるなよ」
呆れるように、コーエンさんが言う。
「わかってるって! お前らは水でも飲んで待ってな! すぐに獲ってくるから!」
快活に応えて、ドールマンさんは弾むように駆けだしていった。
元気だ。ついさっきまで絶望的な空気の中にあったのが嘘みたいな切り替えの早さだった。
「……ちょっと、カッコいいですね」
ぽつりと、ミーアが呟く。
それは、この場面では特に違和感のないはずの台詞だった。実際、率先して食糧を取りに行ってくれるうえに、自分だって渇いているだろうに水に手を付けやすい発言までしてくれて、あんなに颯爽と駆けていくんだから、同性の俺だってカッコいいって思う。
なのに、どうしてか、引っ掛かりのようなものを覚えたのだ。釈然としないというか、もやもやするというか、落ち着かない感じ。
なんだろうこれ、変な気分だ。ちょっと気持ち悪くもある。
もしかしたら、まだ生還出来た事に実感がわいていない所為なのかもしれない。他に思いつかないし、多分そのあたりが原因なんだろう。
ひとまずそういう事にしながら、俺は「そうだね」とミーアに笑顔を返した。
次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




