9話 妙案
双方が射撃と同時に回避姿勢を取る。互いが互いに、狙いを定めて相手に当てるよりも、狙いを定めさせず当てさせない戦法をとったために、命中精度も何もあったものじゃない。
連射速度の違いはあれど、お互いに弾倉の銃弾を撃ち尽くしたところでお互いに遮蔽物を使って銃撃戦の構えを取る。
三上はハンナが身を隠している寝室の壁へ、男は窓から外へ。
「………逃げた?」
「ちょっとハンナさん、危ないですよ」
「ずっと危なっかしかったあんたに言われたくない。いいからほら、ちょっと変わりなさい」
「あっちょ、だから危ないって」
壁を伝い、開いた扉からリビングルームの様子を探ろうとする。すると
パァン、という乾いた銃声。それとともにハンナが背にしている壁を突き破った銃弾が、右腕を掠める。高速回転に巻き込まれ皮膚が切り裂かれ、白磁の柔肌に赤い描線のように切傷ができる。
「退避します」
「待って。まだ何も得られてないわ」
「敵の正体が見えただけでも収穫です。体勢を立て直しましょう」
「………わかったわ」
「よし」
寝室の窓ガラスははめ殺し。銃床でガラスを一度叩くと蜘蛛の巣のようなヒビが入り、二度叩くとバスケットボール大の穴が空き、穴の周囲を乱打すると容易に人が倒れる広さまで打通する。
「あっちょ、歩けるって!」
「ダメです。無茶はいけんでしょう」
「貴方だって無茶したくせに」
「俺は男だからいいんです」
ハンナの腹に腕を回してでひょいと持ち上げ、肩に乗せてそのまま窓から出て裏庭を通り、市街地まで退避する。そしてそのまま、追っ手の目を欺くために入り組んだ裏路地に入り、建物の背中を通り過ぎていく。
既に時刻は4時半に迫り、冬の枯れた空は夜は移り変ろうとしている。
「ちょっと、そろそろ降ろしてよ」
「おっと、はいはい」
市街地で知らぬ異国人に奇異の目で見られるのには懲りたとばかりに手足をジタバタと動かす。ようやく地に足がつくと、彼に詰め寄る。
「家に入る前は立場が逆だったわよね?」
「自分が無茶するのはいいんです」
「………男だから?」
「はい」
彼が根っからの差別主義者だったらば、良いとは思わずとも楽にはなっただろう。本当はそんなんじゃない。男だからというある種の免罪符を、自己犠牲という形で使っているに過ぎない。
彼はきっと正義漢なのだろう。だからこそ、相容れないのだろうか。
「ねぇ三上さん」
「はい」
「ファーストネームで呼んでもいいかしら」
「………な、何故に?」
「これから先、私と貴方は協力関係で長い間行動を共にするわ。日本陸軍が関わっているとしたら、それは警察が敵に回る時よりも多くの時間を必要とするでしょう」
「利害関係を超えて?」
「つまりそういう事ね。きっと私達は、身を挺して互いを守らなければならない危機に直面するでしょう」
「自分は警察官です。無辜の民を守る使命があります」
「わかっているわ。問題は、先ほどのように抑制が効かなくなる事」
「………それは、すみません」
楢崎京香の殺しに警察が関わった。その事実は凄まじい自己嫌悪をもたらした。こんな事ならば、あの時職業軍人にでもなって警察に敵対した方がよかったのだろうか。しかし、警官になった事で得られた情報があるのも事実。きっと、選択の前にこの事実が頭の中にあったとしても、三上は迷うだろう。
「いいえ。私の事でもあるわ」
しかしハンナは、それを咎めなかった。そして続ける。
「どうして私がナラサキ殺しを追っているのか、話してなかったわよね?」
「お話したくない事もあるでしょう」
「お互いの秘密を減らしましょう。それが信頼関係構築の近道よ。貴方は復讐のため。私は国のためよ」
「国?ドイツとヒットラー総統のためですか?」
「いいえ。愛する祖国オーストリアと民のためよ」
「オーストリア………?」
三上の記憶によると、彼女は確か、ドイツからと言われてそれを否定しなかった。ドイツ国策企業の令嬢であり、拠点の従業員ともドイツ語で会話をしていた。それで、三上も何も言わずともドイツ系だと思っていたのだが。
「今の中欧は地獄絵図よ。ドイツとイタリアでファシズムが台頭、イギリスは更なる植民地を獲得しようとして同じアジア圏の植民地を持つフランスやオランダと衝突寸前、スカンジナビア諸国はポーランドとベルギー辺りをドイツに差し出して逃げようとしてるし、当の2カ国は矛先をアジアに押し付けようとしてる」
どうにも、昨今のヨーロッパは驕りが激しい。アメリカ大陸が植民地だった時代は遥かに2世紀前、今は世界規模の産油国であり経済大国。日本もまた、五大国に数えられる列強の一員。最早ヨーロッパ一強の時代は終わりを告げた。のだが、どうにもその認識は浸透していないようだ。
「その驕りの代償を払うのは国民よ。そこに上級も下級も存在しない。だから私は日本に来た」
「それが………彼女の死と関係が?」
「日本とドイツは同盟を締結する流れにある。それを互いの国の内政者以外で知っているのは国策企業の取締役とその家族。私と、彼女もその1人よ」
「………それは」
「大企業の社長令嬢っていうのも楽じゃないわ。貴方はどう?独自調査でそこまで掴めてた?」
「複数の拓植会社の資本に動きがあるのは確認していましたが」
不意に、路地裏のネズミが出したガタンという音に2人の動きはピタリと止まる。2人が即座に音の主を突き止められたからよかったものの、三上は肩にかけていた小銃に手をかけ、ハンナは懐の拳銃を構える寸前だった。
「やはり危ないですね」
「陸軍の諜報機関が関わっているなんて、とんでもない情報だから仕方ないわ」
「手を出しにくいな………今はあえて、遠ざかりますか?」
「そうね。これ以上敵の姿を探っていたら、肝心のナラサキ殺しを調査する前に土の下に埋まりそうだわ」
「ブレてますね」
「臨機応変なのよ」
警察どころか、国が関わっている可能性が出ている。であれば、今のところ警官の外れ者と外国人では逃げの一手以外に有効な手段がない。
「同時に、特務機関が内地にいる事は希望が見えます」
「何で?」
「外地での諜報は特務機関の仕事、内地での諜報は本来特高の仕事です。管轄から外れているという事は、陸軍省からの下命されていない可能性があります。ハンナさんがさっきあいつに言った事と合わせて考えるならば、哈爾濱支局の独断かも」
「それも充分バックがデカいわよ」
「国が動くよかマシです」
しかし、国策企業の遺産を欲しがる人間は多い。数多ある引く手の中に国が入っていないと言えない。その辺り、関連を否定出来ない事には三上も思うような、能動的な防衛が出来ない。今回のように敵が睨み合って銃を向け、わざわざ親切に警告してくれるとは限らない。
「どうします?やっぱり特務機関から調べますか?」
「………まず無事に帰るところから。基地で今後の方針を決めましょう。ここじゃ落ち着いて話が出来ない」
「そうですね………じゃあ下水道使いますか」
「え゛?」
「小銃を持った警察官と外国人女性なんてめちゃくちゃ見つけやすいでしょう?今まではただの鬼ごっこだったからよかったものを」
「嫌よそんな汚らしい。下水道なんて下々の者が行きゃいいじゃない」
「おい、国民おい」
身体的特徴についてだが、こればかりはどうやっても変えられない。アジア人の中にヨーロッパ人が混ざっているとなれば、嫌でも目立つ。彼女が連れ回しているのが警官帽を被って軍用小銃を携帯しているとなれば、更に目立つ。文字通り、人目につかない場所があるのだから使わない手はないのだが。
「ホラ見てくださいよ。ここの隙間が十字路っぽいから、多分あっちの方に拠点のすぐ近くに通じる下水道の入り口があるんです」
「臭いついたらどうするのよ」
「洗えば落ちます」
「いや私はつける事自体がいけないみたいなところあるでしょ?」
「ありませんよそんなの。ほら早く、命あっての物種なんですから」
「いやだっ!!」
「いやだって………」
「別に地下に潜る必要なんてないでしょ?このまま悪所をひた走ればいいじゃないの!っていうかここもここで汚いわよ!」
「今更では?」
人目につかない裏路地のような日陰は、最早無法地帯のゴミ捨て場と化している。さながらその帝都の光と影であるが、罪を犯した人間はそういった場所を好む、人間大のドブネズミのようなもので、追い込みにこういった劣悪な環境には慣れている。
「備えなければなりません。陸軍は厄介な存在です。武装も連携も警官以上、下手をしたら表の連中と手を組んで色々賑やかになってしまうかも」
「そういや、引っ張った私が言うのも何だけど、今貴方どういう扱い?」
「私人調査をする警察官ですね。ちなみに転属待ち」
「小銃持って?」
「小銃持って」
「………それなんか、犯罪にならない?」
「大丈夫です」
「めっちゃ自信満々ね」
「プランはあります」
「出頭とかしないわよね」
「何で自分から檻に入りにいくんですかね」
「………ま、そこは貴方を信頼しましょう」
ハンナはそこについて深く追求しなかった。彼の根っこの全てを信頼しているというわけにはいかないが、彼は現場で殺し合わせるにはもったないくらいには頭が回る。自滅しない方法はもちろん、敵が権力で潰しにかかれないギリギリのラインとして、独壇場とならない、競合する縄張りに手を出している。
「でも下水道大冒険はいやだ」
「そこは譲れんのですか」
「だっていいじゃない。ここも充分迷路みたいよ。撒くならここで撒きましょう。ここも嫌だけど」
「だって特務機関ですよ?国が動いてなくても諜報機関の専売特許は誰にも気付かれず動く事だ」
「そのようね」
薄汚れて継ぎ接ぎの和服を着た浮浪者のような風体の男が4人、前の道を封鎖するように2人の前で止まる。右手の得物がなければ、ただの物取りとして三上が適当にあしらうところだが。
「ソビエトの拳銃………」
「どうするの?」
「これは………」
考える時間など与えないように、というより実際そのつもりなのだろう。ただただ事務方が書類を捌くのと同じように、入り込んでくる害虫を駆除するのである。
「ちょっとシンプルにマズいですね………」
「………打つ手なし?」
「連射性能に差があり過ぎます」
銃と弾丸など、サイズに関わらず人を殺傷する、開発者の悪意の塊だ。威力の高い1発でつくれる銃創はひとつで、倒せるのは1人だが、4挺の拳銃は4発の銃弾を即座に撃ち出し4度体をえぐる。
果たして、背中を見せて走るまで待ってくれるものか。
「今頃あの警察官に話しかけたのが巡り巡って………」
「何の話ですか?」
「私だって貴方ほどじゃないけど、人選んで話を聞くのよ」
あばら屋の窓枠に取り付けられた虫食いのトタン板、シロアリが侵食した木造ドア、継ぎ足しされたような建物のパーツが音を立てて落ちていく。
「あ………?」
そして、耳をつんざく銃声の波状攻撃と、鉄の雨が如き鉛の弾丸が降ると、土が踊るように飛び上がる。2人に出来るのは、うっかり流れた鉛弾が自分の肉を食い荒らさないよう、身を低くするしかない。
終わった時には、もうあの敵対者達は物言わぬ塊になっていた。人の形を保てていたのはせめてもの餞なのだろうか。
「これは………」
「陸軍特務機関に喧嘩を売った馬鹿は貴官か」
「あんた………」
街に溶け込む黒のスリーピース。しかし、得物の軍用散弾銃と弾薬盒はどうしても日常の中にならないようだ。丁度同業者のような存在として気にかけてはいたものの、まさか彼女がそのキッカケになるとは予想外だった。
「あんたら、特高か………」
夕焼けが消え始めた頃ではあるが、日の目を見れるのか、不安で仕方がない。
「話を、しないか。貴官よ」
「そいつは名案だ。あんたが味方だったらもっと名案だ」