8話 お一人様
大日本帝国陸軍特務機関。主に諜報、宣撫作戦、対反乱作戦などを行う秘密組織。
(内地で職務を全うしてるって感じじゃねぇな)
主に占領地域や植民地で活動する彼らが、内地の、しかも東京で何をコソコソと嗅ぎ回っているのか。それを聞き出したいところではあるが、穏やかではない。否、穏やかではいられない。
「警察官。装備を見るに外地勤務だな」
「おたくの頭脳は何て言ってるんだい?」
「貴様に話す義理はない」
「どうだか。話したくなるかもしらんぞ」
「………ほう?」
三上はハンナを庇える位置に、小銃を構えたまま移動する。
(また面倒な………)
心の中で口をへの字に曲げて吐き出す。特務機関ともなると、駆け引きすらも通じない可能性が緊急浮上するわけで、こうして睨み合えてる状況さえ奇跡である。
「特務機関って何?」
「日本軍の密偵」
「軍?憲兵といい、何してるのよ日本軍。国守れっての」
「自分に言われても困ります」
壁を盾にするハンナから、小声に込められた怒りがひしひしと伝わるのだが、理不尽である。
「一介の警察官が関わるな。命を落とす事になるぞ」
「まるで警察官は死ぬのが怖いみたいな言い様じゃんかよ」
「………違うのか?」
「これだから陸スケは。お国のために命張ってるのが自分達だけだと思ったら大間違いだぞ、この戦争狂ども。全身緑色に塗ったくって自然保護でもしてろ」
「ふん、言うな、冤罪製造機」
「先に言ったのはあんただよ」
双方が得物の引き金に指を再度かける。ただの拳銃と侮るなかれ、ソ連製の拳銃弾は開発国の意地がそうさせるのか、小口径のくせにやたらと高い初速や弾丸の構造のせいで高い貫通力を発揮する。
屋内という状況、拳銃と小銃の差、さらに非戦闘員を庇うという状況。しかも相手の目的の詳細が見えない。脅したいのか、殺したいのか、逃げたいのか。殺しの本気度というものがわからない。
「そっちの目的が知れれば、俺達は邪魔立てしないで自分の事が出来る」
「そうもいかん。そうならないから貴様らはここに来た。そちらの外人のお嬢さんはどうかな」
「私達が探してるのは人よ。貴方達が探しているのは?」
「奇遇だな。我々もある人を探している」
露骨過ぎる牽制。そして、そうする事の意図を彼は吐いたも同然だ。それを三上とハンナが理解した上で、まだ決裂とはならない。
「………関係あるのか?」
「あるかもしれない、ないかもしれない。まだ確定ではない。だからこそ貴様らには警戒している」
「俺達は軍のゴタゴタなんぞ知らん。嗅ぎ回られたくないなら口止めすればいい。それで俺達も迂回するってもんだ」
「本当にそうか?」
「………どういう事だ?」
「そこのお嬢さんだよ。ドイツから来訪とな?」
ハンナの顔は見えないが、きっと気丈にも固唾を飲んでいるだけで済むかか怯えているか、それとも緊張で銃を持つ右手が震えているのか。
「リッベントロップの会談を知らないの?既にドイツと日本は協定の締結に向かってる。中国の問題もそれまででしょ」
「んなもん二枚舌でどうにでもなる。だから駐独大使は阻止する方向に行ったんだ。所詮対ソの囮の取り合いなんだ」
「それがお上の意思なのね?」
「……………」
「まさか諜報機関の人間が個人的な感情ひとつでこんな事しないでしょ。ぶっ放して始末書書かないで済むのなんて、個人情報秘匿っていう言い訳でごり押し出来る奴らくらいですもの」
彼が諜報員であるという前提は、しっかりと固まってしまっていた。となれば今更しらを切るのにも男にとっては限界があるものなのだが。
「ニコイチじゃないな。かといって仮装したバカじゃない。そういう手口を先輩から聞いた。哈爾濱の野郎だな?大連に巣があるらしいが」
「お前、素質があるぞ。うちで働かないか?」
「残念ながら俺はみんなに愛されるお巡りさんなんでね」
「勿体ない。そうしたらそこのお嬢さんも装備の調達やら予算の遣り繰りやら楽になったろうに」
「申し訳ないけど、護衛はゴチャっとさせたくないの。彼だけで事足りるわ」
「それは残念だ」
膠着している。数だけ見れば銃は三上とハンナがそれぞれ一挺で二挺と数的有利は保たれているものの。しかし、三上とハンナが恐れているのはそれぞれ違う。
「特務機関って日本の内地にもいるの?」
「普通はいません。内地での諜報は別の組織がやっていますから」
「じゃあ何で?」
「………本当に楢崎の件が軍にとって重要なのか、それともどっからか機関を嗅ぎ回る馬鹿の情報が漏れたか」
「ヤバげ?」
「ヤバいです」
最終目的で軍と正面からかち合う可能性が高く、同時に自分達の情報を誰かに漏らした街中の協力者、そしてそれをハンナも三上も見抜けなかった事。ここに来て進展の3倍困難が降りかかった。
「ハンナさん」
「何?」
「狙撃手。一時の方向」
「また面倒くさいとこにいるわね」
「やっぱ逃げましょう。無理だこれ」
まったくむかっ腹が立つ話だが、こればかりはどうしようもない。彼は確かに、敵を殺す前提の訓練を行っていない一介の警察官ではあるが、満州や朝鮮で銃弾飛び交う戦場を何度も経験した戦士である事もまた事実。
「抜かりないこって」
「お前も学んでみるか?」
「転職するつもりはないんでね」
その程度で銃を降ろすという事は出来ない。する必要がない、あるいはするまでもないと言えば正しいか。
「甚だしいな。おたくの虎の子はどうやら狙撃眼鏡をド忘れしてしまわれたようだ」
「凄腕なもんでね」
「なら試してみようかね。いいんだぜ?おら、立派なヨーロッパ製の銃があんだろ」
「命知らずだな。外地のお巡りさんはそんなのばっかなのか?」
「挨拶の次に弾が飛んでくるとこにいるとな」
「住めば都ってやつか」
挑発の応酬というか、少し言葉がマイルドになっているだけでその実態はお互いが足を引っ張り合う、ある種の売り言葉に買い言葉というか。そろそろ別の動機で2人が銃を作動させようとしているところで、三上が言う。
「ところでハンナさん」
「ん?」
「狙撃手とか、あの男の人妄想癖があるみたいですね」
「………貴方性格悪いわよ」
「へっへっへ。策士気取りはこれだからいただけんね」
相手を手練れと警戒するのは軍人として大変よろしい事だが、それと及び腰であるという事は決して繋がらない。
三上の誤認を、そのまま自分に有利な材料として利用しようとした事が男の過ちである。結論を言えば狙撃手がどうだというのは全てハッタリ、その後のやり取りは茶番劇なわけで、三上はこれだけで、ニコイチのやり方を好まない哈爾濱特務機関の人間であるという仮定を確定に限りなく近いところまで引き寄せる事が出来た。
「今は奉天と仲が悪いらしいじゃんか。さては手柄の立て合い合戦か?」
「………お前、本当にウチに欲しいな。どうだ、日給3円で」
「はぁ?日当で警官引き抜けるとでも思ってんのか?その性根がドケチなんだよ、陸軍の連中は」
「しっかりしてるわね………」
呆れたような、そんな絞り出すように出したハンナの蚊の鳴くような野次は三上に吹き飛ばされたようだ。
「そうかい。有能な監査官になったと思うが、残念だ。ところでお巡りさんよ、俺は趣味でソビエトの銃を持ってる」
「そらそうだ。ソ連の銃なんざ外向きの連中が持てるわけねぇ。下手しなくてもお縄だ」
「特務機関は絶対に痕跡を残さない。それは指紋に限った話じゃない。空薬莢、時には弾痕を埋めて銃を撃った証拠さえ消す事もある」
段々と、三上の顔が強張る。何せ男の発する言葉の意味するところは、ひとつしかない。いや、それを自供と捉えるか宣戦布告と捉えるか。その厳密さを問うならば、事実は探れないようだ。
「ホンットにクズだわ、軍人ってのはこうなのかね」
「わからんかね」
遂には銃が火を噴いた。