7話 招かれない
現像された写真は、ハンナの知識と質のいい現像液のおかげで鮮明に写っている。その加減を何度も確認して、ハンナが指摘する。
「これ普通に逮捕モノじゃない?」
「普通に汚物掃除法違反です」
彼らは法の番人ではなく法の下の奴隷であるが、それ故に反故にしてはならない。国の番人ともあろう組織が斯様な小狡いやり方で税金を誤魔化すものかと、ハンナは溜息をひとつ吐く。
「そういえば、何でこんなの見つけたの?」
そして憲兵のものと思われる不正は一度伏せておく事にした。
「あの辺りは地下道や下水道を伝えば憲兵管区の激戦地に出る」
「何………それ?」
よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、待っていましたとばかりに三上は下水道局の図を広げる。縦横無尽に広がった下水道や調査の際に発見された地下坑道が記されている。
「何これ?」
「下水道局のご厚意で拝借出来ました」
彼が今に至るまで警察の帽子を外さない理由が垣間見えたところで、ハンナも図に目を落とす。
「警察がマークしてるんです。度々新聞社辺りに情報を出してる。あの辺は浅草辺りが終点になっていて、そこは学生運動やプロレタリア運動の温床です」
「日本の憲兵は軍隊警察と司法警察を兼ねてるらしいわね」
「ええ。だから正直邪魔なんですけど。これは下町で何かあったんですかね」
「何かって何?」
「演習じゃない何かが」
頭の片隅に留めておくだけで良いかと思っていたが、数を見ればそれだけで済むものか。問題は数にある。
それを憲兵の不法投棄と言うにはあまりに少なく、しかし数名の仲間内が規則を破っただけにしては多過ぎる。あの辺りに通じる道には拳銃実包を大量に使用する組織あるいは施設もなく、工廠のような製造工場も存在しない。
「………警戒はしましょう。つまり近所に、拳銃を大量にぶっ放す輩がいるって事ね?」
「ええ。しかも軍人あるいは法執行機関です」
「それはまた厄介ね。いや、どうしてわかるの?」
基本的に、十四年式拳銃実包やそれを使用する火器は、欧米の銃や弾と比べると少数とはいえ民間にも流れている。
「部隊運用出来るくらいの十四年式拳銃なんて金の無駄ですよ。拳銃の話ですが、自分なら欧米の銃を持つ。命を預けるんですから」
「あら、性能が悪いの?」
「いや、可もなく不可もなしと言ったとこでしょうか。同じ予算なら外国のが高性能です」
結局その程度止まりというのなら、誰だって質を求める。欧米製の拳銃は平時であれば自慢の材料に、有事であれば共に死線を潜る信頼出来るパートナーとなる。
「国産拳銃を自国で使うような連中は、絞られるわね」
それでもそうしないのは、台頭する国家の国民としての誇りがそうさせるのか、つまりそういう事か。
「それがプライドなんでしょうな。とにかくざっくり小隊規模くらいでしょう」
「じゃあ………突き止める?」
「え?」
「いや、敵が誰なのか」
「………え?」
ちょっとその辺の茶店にでも行こうか、くらいの軽く、寧ろ弾んでいるくらいの声でハンナは言う。それを反芻するまでにかなりの時間を要したが、その後も出た言葉は言葉にならなかったようだ。
「気になるなら調べましょう。一番の強敵ならば輪郭を捉えるだけじゃ不十分よ。とにかく目下の課題だから楢崎を殺した犯人を探すより先にやらなくちゃ」
「いやそりゃそうですけど、ハンナさん、準備のほどは?」
「必要ないわ」
「調べるってもどこを………」
「貴方に心当たりは?」
さて、どうしたものか。泣き言や抗議は万策尽きてからではあるものの、突然あるいは唐突というのも、道理がいくら通っていてもまた小さな理不尽である。それでも答えを絞り出す。
「………一件あります。誘拐事件の再捜査。6ヶ月前に突然決定して、少なくない人員が投入されました」
「それは、楢崎殺しに関係ある事?それとも私達の敵に関係ある事?」
「あぁ〜………捜査書類がありゃ1発なんですが………」
「確かに、詳細が記されている資料が欲しいわね。その事件、詳しい事はどこが?」
「分署………は、外れる可能性が。確実なのは、うーん………」
思わず口籠る。確実かそうでないかのみを焦点とすると、どうしようもなくそれだけで無茶苦茶になってしまうのは、これが唯一無二である以上避けがたいジレンマなのである。果たして情報を取るか、保身を取るか。
「どこにあるの?」
「京橋警察署です」
言葉の衝撃のほどはというと、ハンナが道路という公衆の面前で立ち止まり、でわかりやすく頭を抱える辺りにある。歩みが止まったとなると、最早事の困難さは歩くという日常行為すらおざなりになるほどの頭痛の種となる。
「三上さん、今の所属は?」
「朝鮮総督府警務局警務課です」
「この後どこ所属になる?」
「西日本のどっかです」
「……………ふぅ」
大きく、溜め息をひとつ。さて、この時点で彼の警察官という肩書きが枷になってしまったのである。警察署に行くどころか、本来ここを彷徨いてはいけない所轄。大多数の、所謂外れていない者達からは同業者と思われているが、果たして安息もいつまで続くものか。
「戻って作戦会議」
「いや、物証を回収されると更に面倒になります。リスクはありますが取られる前に取らないと」
「それ本気?本気で言ってる?」
「時間は有限なんですから」
「……………そうね」
こうして悩んでいる時間さえも無駄なのだと、そう言われてしまえばぐうの音も出ないし、当たり外れを吟味してもゼロからイチは大きな進歩になる。それにハンナは、別に三上と喧嘩したいわけではない。
「警察の封鎖はどうやって突破する?」
「突破しません。というか大人数の目から証拠を独自に持ち出すのは不可能です」
「じゃあ………どうするの?」
「証拠の収集は刑事部の科学捜査からです。現場は建造物群なので、科捜のいない場所を探すしかありませんね」
「でも6ヶ月も経ってるんでしょう?」
「その辺りは現場に行ってから。それに検索は繰り返すのが基本ですよ」
疑問をその場から持ち越し、ハンナは三上の後に続いた。
銀座一等地の住宅街。めくるめく東京の情勢を嘲笑うかのように、一般邸宅の2倍はあろうかという豪邸が鎮座するばかりである。その一角は、閑散としているを通り越して、人の気配が感じられなかった。
「ここが?」
「やっぱり、ここには警官もいませんか」
「何で?家主が警官嫌いとか?」
「不動産屋が憲兵寄りなんだそうです」
「へぇ………それはまた、幸運というか何というか」
家の周りを彷徨く不審者として、通報でもされない限りは手錠をかけられるという事態はこれで避けられたという事である。しかし、懸念事項がひとつ。というより不安なのは、警察とその代替である。
「それにしても軍はいいけど警察は嫌だなんて、相当気合が入った右派ですね」
「うん………?じゃあ出張った憲兵がいるんじゃないの?」
結局、待ち受けている組織が変わっているだけで、誰かがそこにいるという事実を曲げられないという事ではないか?
「いくら陸軍だからって一般人の部屋を家探しするには手続きが必要です」
「警察内部で再捜査の話が持ち上がったのは半年前なんでしょ?憲兵がほぼ同時期にやったとして、もうそんな手続き、終わってるんじゃないの?」
「実は………自分にもよくわかりません」
「は?」
「こればっかりは独自調査ではわかりませんでした。何故ここに近寄らないのか。警察どころか憲兵まで。その謎も解けるやもしれませんね」
彼に理解出来ていたのは、ここに国家権力がたむろしないというある結果だけで、その仕組みのほどは理解出来なかった。そのカラクリのほどを紐解く意図も込めてこの場を当たるべきと判断した。
「はいこれ」
「あ、ありがとうございます」
「それから、靴の土も落とした方がいいわよ」
「………ハンナさん、前職は何だったんです?空き巣ですか?」
「実業家のボンボンよ。調べるなら急ぎましょう」
ハンナの生い立ちに少し引っかかりつつも、手袋をはめてドアに手をかける。
「鍵が………」
言葉の全てを紡ぐその前に、爆ぜる。白塗りのドアは木片を散らして穴を穿つ。何度も、何度も、何度も。完全に意識の外からの不意打ち。足元が覚束なくなり転ぶように射線から退避し、ドアのすぐ脇に身を潜めた。
「三上!」
「来ちゃダメです!射線が通ってる!」
ドア越しからの射撃。景気のいい乾いた銃声にほぼノータイムで、反射的に身を低くしドアの脇に身を隠す事が出来たのは、訓練と経験の賜物と言えるだろう。
「クッソ誰だ、不法侵入に銃火器法違反だぞ!」
「撤退しましょう。危険過ぎるわ!」
「そうも言っていられません。時にはこういう住宅地でも銃を使わないと」
安全装置を解除し、弾が装填されている事を確認する。中庭を挟んで門に身を隠しているハンナの猛烈な嫌な予感を知ってか知らずか、三上は突撃するやる気を隠そうともしない。
「三上、待って!無茶はなしよ!」
「無茶をするために警官がいるんです」
負けじと三上も撃ち返す。屋外と屋内での銃撃戦が始まる。三八式歩兵銃が火を吹きドアを突き破って進入していくと、その報復のように相手からも弾が飛来する。ハンナが隠れる門の石柱が削れていく。
何の変哲もないドアが銃撃戦の板挟みに耐えきれずただの木片へと形を変えた時、屋内にいるであろう招かれざる客の銃撃がピタリと止む。
「三上!待って!」
駆け出した三上を追い、懐から取り出した32口径の自動拳銃の安全装置に手間取りながらもその後を追う。いくら何でも無鉄砲が過ぎる。
「待てコラ!」
彼は走った。それで誤ったのは、小銃を構えなかった事にある。
頭に鈍い衝撃が走る。平衡感覚の一切が吹き飛び、堪らず膝をついてブラックアウト寸前まで追い詰められた意識を呼び戻す。
「っ………」
それを許さないとばかりに、背後から蛇のように、腕が三上の首に巻き付く。
三上は確かに誤った。故に頭に1発許した上に拘束された。しかし、この襲撃者もヘマをした。もがいているうちに膝立ちの姿勢から、完全に立ち上がる事に成功する。
「ふん!」
三上の肘鉄が、背後を取っていた襲撃者の脇腹に直撃する。首の拘束が緩んだ瞬間を逃さず、踵で敵の足指を踏み付け、振り返りざまに渾身の右ストレートを顔面にお見舞い。およそ頭部に傷を負った人間とは思えない立ち技に、その全てが襲撃者を捉えた。
「三上!」
「ハンナさんは来ちゃダメだ!」
「そいつ銃を持ってるわよ!」
「んなこたぁわかってる!」
抵抗を押さえつけ、三上は相手の拳銃を拳銃嚢ごと奪取する。そして、その現物を瞼に焼き付けてやっとハンナの言葉の意味を理解する。
「ソビエト………」
銃把に刻まれた星は、ソ連の赤星そのもの。そしてそれは、まっとうな日本人が持つ事すらない拳銃である。
「貴様、憲兵ではないな?」
ソ連製の自動拳銃の弾倉を抜き、薬室の弾を排出して銃本体を投げ捨てる。三上が数発喰らわせたその襲撃者は、格好こそ日本陸軍の憲兵だが、しかし、その装備はそれと相対する位置にいるものだ。
「憲兵がこんなもんぶら下げてていいのかよ。いや………」
三上の経験という名の戦歴を脳内で丁寧に省みると、夥しいほどに出てくる。そう、現地の陸軍と警察の小競り合いの火種のキッカケとなった彼らと特徴が一致するのだと、その予想のほどを確かめるために、口に出す。
「そういう紛らわしいコソ泥の親玉を知ってる。貴様、特務機関の人間だな」