4話 ヒント
京橋区、銀座。
帝都モダンの心臓たる巨大都市は、今日もまとわりつく不況という悪夢を振り払うように目まぐるしく活動する。富裕層、労働者、低所得者。真にここは、人の波であった。
「賑わってるわね。平日の昼間なのに」
「東京には色んな人が集まりますからね」
「それで………何から手をつける?」
「自分が決めるんですか?」
「私捜査とかよくわからないし」
「そうですか………」
降り立ってから僅かな時間、選択肢が広過ぎてどこから手をつけていいかわからない、調査迷子状態に陥ってしまった2人であった。
「聞き込みをするわけにはいかないかしら。上手くぼかして」
「そうですね………しかしどの辺りを隠すか………」
「女性によく声かけてる奴………は駄目か。多過ぎるわ」
都心の繁華街ともなれば、商売女に声をかける男など星の数だけある。それだけは結果如何とはならず、結果のために前提を固めなければならない。
楢崎京香を殺した人間を探している奴がいる、と警察に漏らされたらたまったものではないが、曖昧な問いでは曖昧な答えしか返ってこないだろうと。
「聞き込み調査です。自分から離れないで」
「あら、外人は目立つから待っててもいいのよ?」
「1人になった瞬間手錠はめられても知りませんよ」
「冗談キツイわ」
「はっは。では行きましょうか」
適当な人物を捕まえるとは簡単に言うものの、選ばないわけではない。情報を持ちそう、という観点においては所得の差も職業の尊卑貴賎なく可能性はある。
「申し訳ございません、警視庁の者ですが、少々お時間よろしいでしょうか」
「はい、何でございましょうか?」
行灯袴に和装の若い女性。時間帯からして昼休業の女学生。この当世においては、物を聞くのは女性、それも若い学生に話しかけるのが最も堅実な選択肢である。
何故かはわかる、時代がそうだから。
「ここら辺りで若い女性が拐される時間が多発しているでしょう、それについてです」
「あぁ………最近物騒ですわよね」
「その通りで。どうでしょう、ご学友が最近怪しい人物に声をかけられたとか、学校辺りを彷徨く不審者を見たとかございませんか
「うーん………そういった事は何も………」
「そうですか………」
「お役に立てず、申し訳ありません」
「いえいえ。事件がないのは喜ばしい事です。では、失礼します」
当然といえば当然。引きの強さどうこうという問題ではなく、最初の一手で狙い通りの情報を獲得出来る可能性は、明確な数字は出ていないものの実際かなり低い。肩を落とすまでもない事だ。
「ちょっと、ハンナさん」
「うん?どうしたの?」
「やっぱハンナさんも探して。日本語かなりお上手ですし、日本慣れしているのでは?」
たったの一件ではあるが、早々に長期戦の様相を察知した三上は作戦変更。やはり多少のリスクを付き物とし、手分けをする案を出した。
「いいけど………私ものすっごく弱いわよ?何かあったら1人でどうにも出来ないけど」
「別にこの辺は治安が特別悪いってわけじゃありませんよ。それに………」
「それに?」
「ベルギー製は高性能ですから。自分も使った事あります」
「………確かに、そうね」
気付かないとでも?とばかりに三上は不敵に笑った。嘲る、とまではならずとも。この感情は理不尽かもしれないがしかし、見透かされるというのは決して気分のいいものではない。ハンナは少しむくれる。
「良いですか、ハンナさん。貴女がどんな人なのかわかりませんが、最近は賊も頭を使ってる。金づるを生かしておくのです。そこが付け目だ」
「そこを撃つの?」
「女性が男性に対する防衛は、かなりの確率で正当防衛が認められます。狙って頭に撃ち込まない限りは。小口径の拳銃なら尚良い」
「わかった。非常事態になったらやってみるわ」
「警官に何か言われたら自分の提案だと答えてください。そうすれば目はこちらに向きますが、奴ら同業者を逮捕なんてスキャンダルは起こさない。憲兵への弱みになるからです」
「………わかったわ」
「よろしくお願いします」
それから三上は、何度も念押しした。変にはぐらかそうとするな、逃げの姿勢を見せるな、一から百まで嘘を貫き通す自信がないのなら自分の身分は偽らず、目的だけ偽れと。
「三上さん、私は貴方を捨て石にする為に手を組んだんじゃないわ」
「信じてください。これならお互い無事でいられる。自分だって切り捨てられる為にこんな事言ったんじゃない」
そう残して、三上は走って行った。
「……………」
彼の言う事は尤もだ。一理あるどころか真理しかないまである。労力を惜しむのならば、肩代わりしてもらえばいい。彼は陸軍憲兵への弱みを見せたくないという警察の感情を利用し、2つの組織を欺こうとしている。
急造では最善と呼べるだろう。しかしその最善は螺子が僅かに緩むだけで、共闘という危険を孕む事となる。
「やっぱ信用されないかぁ………」
嘆きは、鬱陶しいくらい照る太陽に吸い込まれたようだ。しかしそれもまた、当然。頼る、という行いは少なくとも彼にとってはあまり褒められた事でないよう。相手が女性ともなれば、彼にもプライドがあるのだろう。
だがそれでも、たとえ普通でない手の組み方であったとしても、歪みに歪んだ一蓮托生だとしても、それがどうしても信頼の喪失に映ってしまう。
………出会ってからまだ数時間。それで信頼だ信用だと言う自分自身が甘いのだろうか。
ハンナは自らに問うた。
(そんなの、1人で考えてもどうしようもないでしょうに)
閑話ならば休題しなければならない。己の不安を丸ごと忘却の彼方に消す為、ハンナもすべきをしようと話しかけた。
警察官に。
「失礼、少しよろしいかしら」
「はい………どうなさいました?可愛い外人さん」
「この辺で女性に話しかける不審者の噂を聞いたの。具体的にここが危ないとか、良ければ教えてくださらない?」
「あぁ………そうでしたか。物騒になっていますからね、最近の東京は。手控え等お渡ししましょうか?」
「いいえ、これでも日本には詳しいつもりだから。地名だけで結構よ」
「そうですねぇ、一番最近ですと銀座西一丁目の外れでした。その前までは結構まばらなようです。有楽町から新橋まで」
「やっぱり裏路地みたいな場所は避けるべきかしら」
「そうですねぇ。浮浪者、犯罪者の溜まり場ですから」
「………そう。ありがとう」
「いえ、良い一日を」
さてな、色々追求されるような事を彼女はしでかしたのは彼女も自覚するところだが。
だがしかし、彼女は考えた
(警官もまさか、相手がこんな馬鹿みたいな事をするとは考えないのでは?)
博打は趣味ではない。しかしこの世に完璧だけを求め続けたらそれだけで終わりがない。ある程度の妥協と、行動力。そして裏付けるべき根拠。そしてそれにもまた、多少の妥協は必要となる。
尻拭いまで自分で効くのなら、このやり方は決して悪手ではないのではないか。いや、そもそも東京の警察官が1人残らず関わっているとは考えられない。彼もまた、追ってきた男達は外れ者の可能性が高いと話していた。
(大丈夫、結構観光客っぽかった)
自信はある。例えば極端な話、スパイは命を賭して情報を狙うが、観光客はそうしない。緊迫感を孕ませて情報を得ようとする一般人など極度の緊張しいくらいだろう。気張るというのはこの場において、怪しまれるのである。
(予想はしちゃいたけど、やっぱり殺人でヒットアンドランするには東京都心は狭過ぎるのかしら)
人を殺し、逃げ、また殺し、また逃げ………それをこの狭い東京都心でやり続ければ首都全土に拡大するのも当然。
そして掴むべき情報を掴んだはいいが、問題はそれより後。手に入れたこれを用いてどうやって顔の見えない殺人犯と駆け引きをするのかだが。
「………もうちょっと当たってみましょうか」
彼も無策で手分けをしようと言ったわけじゃない。リスクと対価の利益と、そのリスクの少なさをよく吟味しているのだ。働かなくては手を組んだ意味がないのは、どちらの働きに対しても言える。
(男性は避けるべき………と)
別に男性の皆が皆過激なまでに男尊女卑主義者とはならないまでも、やはり女性がいるならそちらが安定だろう。優先順位としては、ハンナも同姓のがやりやすいというのもあるが。
「ごめんなさい、そこの方。少しよろしくて?」
「はい、どうなさいました?」
三上が声をかけたあの若い女性と同じ格好、おそらく女学生と思われる女性に声をかけた。女だからという理由で聞き込みを拒否されるのも馬鹿らしいし、損得勘定が詰め込まれているフラッパーなど論外であった。
「何、この辺で女性に頻繁に声をかける不審者の事を聞いたから、用心にと思って。何かご存知ないかしら」
「あぁ、その事でしたら私の友人が声をかけられたと」
「本当?もし差し支えなければ本人と話せないかしら?」
「問題ないと思いますが………あ、学校がすぐ側ですので、そちらに移りませんか?」
「お願いするわ」
背に腹はかえられぬ………とは違うかもしれないが、しかし、やはり単独行動の限度というのは考えてしまうもので、核心に触れるのならば三上も読んだ方が良いのでは?という思いはとめどなく溢れるのである。
(とにかく情報を得ないと………)
あるいは既に、取り憑かれているかもしれないハンナは、急いでいた。
「私、部外者だけど入って大丈夫なの?」
「客人のようなものですので」
「あ、そう………」
懐に隠し持っている拳銃を提出しようかとも悩んだが、職務質問をする警察官を相手取ったわけでもなし。言わぬが花。余計な誤解が余計な言葉から生まれるのならひた隠しにした方が賢明だろう。
「さて………お話というのは?」
「その前に、声かけられた人というのは?」
「私です」
「……………あぁ、そう。やっぱり声を大にとはいかないわよね」
「ご理解いただき感謝です」
犯罪被害者の多くは、加害者が存在する限りその残滓に怯えるらしいが、彼女もそれと似た物を抱えてしまっているのだろうか。
「それより外人さん。もしやと思いますが………お連れの方は警察官では?」
「どうしてそれを?」
猛烈な嫌な予感という名の悪寒が、背筋を通り抜ける感覚がする。そう、例えばゴールとまではならずとも、東京で最も早く辿り着いた中継地点を他の誰かが見つけない保証などどこにもなかった。きっと相手も、従順そうでまだ社会を知りたての純真さを持つ情報源をカモにしたい筈だ。
「不審者について聞いた警察官の方が、外国人の女性と朝鮮駐留警官の2人組を見なかったかと、私にそう問うてきました」