3話 橋頭堡
男女は駆けた。そしてめでたく振り切り、お尋ね者となった。
あの招かれざる来訪者が誰だったのか、事件を起きているとしてそれを探る人間をどうしようというのか、それらを全て置き去りにして、とにかくハンナを連れ出した。
体裁は悪くなるだろう。しかし、ハンナを売ればよかった。当然三上も人間ならば、自己保身に走りかけるのもまた当然。しかしそれは、相手側の一言によってあっけなく瓦解されることとなった。故に、逃げた。彼女の手を引いて。
そして現在。
「ねぇ………」
「……………」
「ねぇってば」
「………あ、はい、なんでしょう」
「どこに向かってるの?これ」
「東京です」
「そう………」
あの後横須賀の市街地を疾走し、あの2人組の男を何とか振り切った。そして完全な逃走のため、電車で神奈川県を脱出する途中のことである。
「………どうして私を売らなかったの?」
「店員さんが言ってたでしょう。事件を探っているのは外人と警官だと」
「そっか………」
そう、問題はあのやる気なさげな店員の言葉にあった。あれではまるで、協力関係を結んでいるようではないか。実際そう見えてしまっているのだろうが。あれでは一緒に引っ張られていくのがオチだろう。
「あの場でハンナさんを売っても、自分がお咎めなしとはならなかったでしょう」
「流石ねお巡りさん。緊張状態だったでしょうに」
「いやぁ、凶悪犯を相手する方がまだ緊張しますよ」
モケットの座席に腰を預け、談笑するくらいには回復した2人であった。
そして、三上もまた腹は決まった様子であった。ハンナにとっては入念な準備でも、三上にとっては成り行きでしかなかったのだが、こうなっては戻るべき後がないのも事実。というのも………
(うっわ………警官相手にガチで逃げちゃった………)
彼らのしつこさをよく知っている同業者の身としては、あれしか咄嗟に出来なかったが、それでも後悔が押し寄せた。
24号事件。それは警察という組織の中で使われる秘匿号なわけだが、あの2人組が警官だと判断した原因はそれだけであった。その判断が遅れたせいで逃げるくらいしか頭に浮かばなかった。
「あの店員、まさか警察のスパイ?」
「それはないでしょう。多分事件ってとこだけに反応したんじゃないですか。自分らも街角で殺しとか言っちゃいましたし」
「やっぱりあそこで話すべきじゃなかったわね。ところで、大丈夫なの?」
「と、言いますと?」
「東京なんて思いきり大都会だけど、横須賀の警察と連携されたら終わりなんじゃないの?」
「木を隠すなら森の中、人を隠すなら人の中ですが………それにあれはおそらく警察のはぐれ者連中でしょう」
「どうして?」
「楢崎京香の事件は既に凍結されたも同然。殆どの警官はより点数が稼げるアカ狩りにご執心です。それに聞き込み以上のことをしたいなら相応の手続きも必要です」
三上とハンナが逃げなかったとして、その後は………?それ以前に、事件を追っているという理由で連れて行かれるというのも何ともおかしな話だ。栄転でもない限りは。普通、事件の捜査をやらないことはあってもやらせないことはないのだから。
「考えたくはありませんが、ハンナさんの仰る通り繋がっているのかと」
「面倒ね………ところで、三上さん」
「はい」
「これは確認なのだけど、こうなってるってことは、私は期待してもいいのかしら?」
「まぁそうなるというかそうせざるを得ないというか………」
勢いと偶然ではあれども、もう三上は自分の道理を通せなくなってしまった。彼らが独断で動いているのはほぼ確定ではあるものの、だからって戻って説得など間違っても出来ない。
………というのは建前。規模がどうあれ、共通の敵が現れてしまっては、ハンナの言う通り1人より2人がベターであった。
「それじゃ、何か変な感じになっちゃったけど、これからよろしくね。三上さん」
「はい、よろしくお願いします。ハンナさん」
握手をした。それが何の証になるわけでなし、欧州では挨拶のようなものだが、どこか特別のように感じられた。まったく状況を読めないかと思えば状況に流されるのかと、己が力不足を嘆いている暇などないようだ。
「私達、これで一蓮托生よ。あの2人が外れ者じゃなかったら2人仲良く指名手配犯かしら」
「外れ者だったら追われるだけなんですよね」
「どっちに転がるかしらねぇ」
「そう言われると嬉しくないですよ。一蓮托生って」
「あら、1人より2人は世の常識でしょ?」
「自分は汚れ仕事担当ですか」
「違うわ。警官が為すのは正義であるはずよ」
「……………」
また手痛い攻撃である。またある思想の警察官の耳に入ったら2、3発撃ち込まれそうな皮肉に胸を痛めながらも、三上は正式にハンナと手を組むことを決めた。
決心した、なんて都合のいい言葉を使いたくはない。しかし、忘れられなくなってしまったのもまた事実。警官としての矜持も、あったのかもしれないが、それ以上に、もう抑え込むのも限界だったのかもしれない。
「で、東京に行って本当に大丈夫なの?」
「神奈川県警との連携なら大丈夫です。今の警察は点数稼ぎと縄張り争いが激しいですから」
「そう………じゃ、信じてみようかしら」
「そう言われるとプレッシャーが………」
「クスクス、気張りなさいな、お巡りさん」
実際、東京都で確保したとして神奈川県で起きた事案を県警が納得する筈がないというのは三上なりの推論である。一枚噛むとして、主導するのはどちらであるか。どう転ぶかは不明だが、一悶着あるのは確実と言っていいだろう。
「鉄道、円タク、それに郵便から電話の設備。都心は調査に便利な物が色々揃ってますしね」
「情報漏れのリスクは?」
「情報交換に電話を使わなければ問題ないかと。それからもうひとつ、問題があるとすれば………」
「……………あるとすれば、何?」
「あ〜………もう少ししたら話します」
それこそ、大衆の前で言えたものではないことだ。恐れ知らずになり得ても、命知らずにはなり得ないためにも三上はぐっと言葉を呑み込んだ。
「東京は広いわよ」
「実は東京って村があるんですよ」
「ゔぇっ!?そうなの!?」
「はい。西の方に」
「じゃあ………身を隠す?」
「いいえ、危険を背負ってでも調査を並行すべきと進言します」
「首都にはあらゆる情報が集まる。同時に警備も他の都市と比較にならないくらい厳重よ」
妙に鼻にかけたような、アクセントの位置がおかしいアナウンスを聞き、三上は意を決したように、反動をつけて勢いよく座席から立ち上がる。
「よし」
「到着かしら?」
「ええ。降りましょうか」
「ここは?」
「目的地ではありません。暫く歩きますが、大丈夫ですか?」
「ええ、構わないわ。歩きましょうか」
ひとつ、伸びをする。小銃を背負いながら走ったせいで、三上の肩には重りをそのまま乗せたような負荷がかかっている。また、運動に慣れていないハンナも脚が乳酸に蝕まれていた。
「自分の調査でわかったことは、楢崎殺しの犯人は物証を分けて保管しているそうです」
「それ———」
「待って、自分も同じ疑問を持っていますので、まずは自分の話を聞いてください」
「………わかったわ。どうぞ続けて」
「殺害した人数は二桁らしいですが、それ以上はわかりません。つまり10人かもしれないし99人かもしれない」
「ある程度数があるとしたら、探す範囲も広げなくちゃね………」
三上が出したのは極端な話ではあるが、それでもあり得ないとは誰も言えない。連続殺人鬼はエンターテイメントと同じ感覚で殺しをする。そこに当然悪意などなく、あるのは狂気だけ。そんな人間が、何人殺していようとも驚くようなものではない。
「問題は、物証を何故保管するのか。そんなの火を付けたマイトを持っているのと同じですが、気狂いの殺人者は常人に理解し難い"拘り"を持っているとの話を聞きます」
殺害の方法、標的の年齢や性別、実行する際の日時、天気、などなど。筆舌に尽くし難いが、歪んでいてもそこには確かに、執念い何かがある。
「そのためにあえて捨てないと?」
「それ以外に考えられないかと。合理性がない時は大体心理的な何かが原因です」
「………捨てられてないのは嬉しい限りね」
手元にあるのか、それとも隠されているのか。どちらにせよ燃されて灰にされていないのは希望であると同時に、また彼らの頭に疑問符が浮かぶきっかけであった。そしてそれから来る怒りにも。
「どこから当たるの?」
「ここ最近、といっても2年くらい前から、東京で若い女性が行方不明になっています。主な現場は浅草上野の東京下町と………」
人々の坩堝。尊いものと卑しきものの同居する、和洋の文明さえ攪拌された帝国日本の巨大都市。常に当世の中心であり続ける先進的な街。
「ここ、京橋区は銀座です」