2話 トイフェル
寒い。とにかく寒い。それでいて、吹き付ける寒気のせいで体が重い。しかしながら、それを弱みとして見せるわけにはいかない事情がある。
「どこか人目につかない場所はあるかしら。三上さん、ご存知?」
「いや、自分はここらの地理に詳しくないので」
「どうして横須賀に?」
自分の両親を殺害したその男が持ち去った物を探していると話すヨーロッパ系の女性。警戒するなという方が難しいが、核心を突いて振り向きざまに銃撃されても困るので、三上はただ観察し、警戒するという受動的な行為しか出来ない。
「ついさっき奉天から引き揚げたばかりなので」
「奉天?満州から引き揚げたのに神奈川なの?」
「ちょっと色々事情があって」
「あぁ、そう。噂には違わないのね、貴方。どうせ派手に執行したんでしょ?」
「警官1人じゃ、反感は買うでしょうが外交問題にはなりませんよ」
「………あっそう、お友達に恵まれてるのね」
「同好の士ですから」
「どうだか」
虚の突き合いと言うべきか、それとも足の引っ張り合いと言うべきか。出てくる言葉は皮肉と嫌味。少し言が柔らかくなっているだけで、その本質は売り言葉に買い言葉と大差ない。
「もうその辺の裏路地で良いのでは?」
「やーよ。そんな小汚いところ」
「じゃあ盗聴を覚悟でどこかの洋食屋にでも?」
「代金はそっち持ちよ」
「え"?」
「何よ、男でしょう?それくらいの甲斐性見せなさいな」
盗み聞きのリスクを背負う上、食事代まで出される羽目になるのは御免。何とも残念な話ではあるが、彼女を小銃強奪を目論む犯罪者かと思ったが、彼女は息抜きを考えない程度には本気と書いてマジらしい。
「お困りでしたら警察署に」
「駄目!絶対駄目!」
「そ、そうですか………」
外で口に出すのが憚られるというならば、取調室などうってつけのように思えたが、どうやら彼女にとっては下策らしい。横から見た流し目の何とも大人びたものかと鼻の下が伸びかけるも、駄々っ子のように駄目と繰り返した。
人は言葉ひとつでここまで変わるものなのか………
「だったらいいわ、料金私持ちでいいからレストランに行きましょ。日本はカレーが美味しいんでしょ?」
「いや、はい、うん、そうですよ」
「盗み聞き?するならすればいいわ。聞いて誰が来てもでお巡りさんがぶっ放して解決してくれるもの」
「あのそのお巡りさんってまさか………」
「貴方しかいないでしょう。三上さん。頼りにしてるから、私の話を最後まで聞きたかったらちゃんと守ってね?」
「………あい」
三上は女性の使い走りは勘弁願いたかったが、そうもいかなくなってしまった。単なる知的好奇心ではない。他ならない自分自身の問題として、彼女の話を聞かなければならなかった。
「いらっしゃいやしー」
と、気の抜けた接客の店員と目を合わせず通過し、適当な席に腰掛ける。今はクラシカルで和洋折衷なフォルムがナイスですね、などと内装を評価する精神的な余裕は三上にはない。
「概要は話したわね?」
「はい」
「正直あれが核心だったから、これ以上言う事もないのだけれど………」
やはり人目のつく場所で話したいというのは、人気のない場所に誘い込むための嘘八百なのか、との警戒を見透かしたように言葉を紡ぐ。
「私はタフな兵士が欲しい。貴方はナラサキの遺品が欲しい。利害は一致してる。だから手を貸して」
「何故自分が?」
「それは貴方が一番よく知ってる筈」
「……………」
お前に何がわかるんだ、だなんて言える筈もなし。要するにそれは、身の安全ではなく、それをもたらしてくれる存在を抱き込めばいいと。
シンプルながらしかし、戦略としては悪くはない。ただまぁ疑問が残るとすればそれは、
「何故警察官の自分に?強くて人格者は軍にもいますよ」
「そういえばずっと疑問だったのだけれど、貴方、警官なのにどうして小銃を持ってるの?」
「自分は満州の前は朝鮮で働いてました。朝鮮駐留警官は小銃の携帯が許可されてるんです」
「………軍警察?」
「いいえ。警察官です。ちょっと重武装なだけで、普通に警察官です」
「………そう。仕事に誇りを持っておられるのね」
「またドギツイ皮肉を………」
何のために一介の警官が、日本軍制式採用の小銃を持つ事が許されるのか。それを使わなければならない機会が確かにあるからだ。その機会とは何か。サーベルと小口径の拳銃だけでは対処出来ない事である。
ではそれをもたらす者は………?
それを彼女は知っている。
「お互いのために手を組みましょう」
「………私は力を求められている。自分は貴女に何を求めろと?」
「あなたにないものを。ほらこれ」
「………?」
當座預金通帳。それも、彼女のコートのポケットから合計3冊。書かれているのは日本語で、日本製。
「今手元にあるのはこれで全部かしら。残りは家ね」
「何だってこんな犯罪者みたいなこと……」
「うっさいわね。色々隠すのに苦労したのよ、私も」
「これはつまり、そういうことですか?」
「ま、大丈夫よ。公正な取引だから」
三上は訝しげにハンナを一瞥すると、木製のテーブルに投げられた通帳を開く。
「………うっわ」
驚愕するでもなく、驚嘆するでもなく。渦巻く感情はおそらく悩乱であろう。とにかくゼロが並んでいるわけで、正直どう反応するべきか脳が渋滞している。驚けばいいのか?賞賛すればいいのか?判断しかねたので、とにかく声だけはあげておいた。
「凄いでしょ?」
「………凄いというか、凄まじいというか」
「ミクロネシアの島々を買える額よ。本国にはもうちょっとあるんだけどね」
「規格外だなぁ………」
「さて、それで、これは自慢するために見せたわけじゃないの」
「はぁ………ではどうするというのです?」
「はい」
ハンナは通帳のひとつを手に取ると、それを三上に手渡した。何をどう改めたのか、意図が不明な行動に三上が首をかしげながらも、差し出されたものを手に取らないのは非礼であるとそれを受け取ると、彼女の口から衝撃発言が飛び出す。
「退職金よ」
「は?」
「私と組んで。そのためには警察官という職業は邪魔過ぎるわ」
「いや………いやいやいや。え?ちょ、待っ………は?」
慌てて通帳をテーブルに置く。現物を摑まされた上でのそのあまりに突破な物言いは、まず耳を疑う暇さえなかった。
「あら、足りなかったかしら」
「いやそういう問題じゃ………だっ………ちょっ……いやいやだって………?」
「取り乱してるわね」
「当たり前でしょう!」
一冊だけでもその金額は膨大だ。それこそ全額使えば沖縄本島に台湾がついてくる。それを冊子としてポンと渡されれば慌てるもの。いや、慌てるだけで済んでいるだけ三上はいくらか図太いのかもしれないが。
「………人目を気にしていたのはこういう理由ですか?」
「そういうワケね」
「これは、知らなかったとはいえ失礼を」
「いいえ、引っ張ったのはこっちだから。それにしても、初対面の外国人にここまで付き合ってくれる貴方って、優しいのか暇人なのかどっちかしらね」
「きっと後者でしょうな」
「………そう」
「しかし非常に残念ではありますが、これは受け取れません」
「どうして?」
「京香は死んだ。死んだ人間は生き返らない。自分は………それから目を背けたくて警官になった。犯罪者を取り締まってる時は、別人でいられるのです」
楢崎京香。その名を嫌という程呼んだのは、もう10年以上前、三上がまだ年端もいかない少年だった頃。
「ヨシちゃん、こんなに明るいのに本ばっかりじゃつまらないわ。遊びましょ!」
「京香ちゃん、ちょっと待って、無理……」
「しっかりしてよ、男の子でしょっ」
「京香ちゃんが元気すぎるんだってば……」
「あそこの木まで追いかけっこよ!負けた方が次の鬼!」
「そんなぁ………」
何とも懐かしきかな、三上の思い出に映る彼女はとにかく活発で、自由奔放で、我儘で、それ以上に美しきものであった。それも泡沫の夢想と消え、彼の平静と引き換えに失われる寸前であったのだが。
「………嫌なの?」
「逃げたいだけなのかもしれませんが」
「そう………」
急にそんな事を言われても、とは口が裂けても言えなかった。それは違う。楢崎京香の名をハンナから聞いたその次は、逡巡していた。迷妄など愚か者の体現であると知っていながらも、そうなればどれだけ楽だったろうとは嫌というほど考えた。
やはり自分には、彼女の死と真正面から向き合う強さはないようだ。
「自分は………彼女が死んだという事実だけで充分です」
「残念ね」
向き合い、その真実を晒すこと全てが幸せとは限らない。三上は核に触れることを拒絶し、ハンナにも、己の正義とその純益を押し通すつもりは毛頭なかった。惜しいのは事実だが、押し過ぎてしまっては信頼関係構築を開始する前から破綻することにさえ繋がる。言い方を悪くすれば、釣るのが一番であった。
「ナラサキ殺害の事件には、警官も関わってる」
「え………」
「調べがついてるのはここまで。日本の警察はなかなかどうして優秀ね。これ以上掴めなかったわ」
「それは………どういう………」
「関わったのは警視庁所属のどこか、それしかわからなかったわ」
「………東京?」
あえて警察の総本山がある場所を外したのはそういうことかと合点がいった。何を掴ませたのかは大体想像がつくが、楢崎京香の関係者である三上が満州駐留の警察官であること、そして引き揚げること、中国ソ連との軋轢から海軍基地に移送されることをキャッチしていたらしい。
手段はあまり聞きたくないが。
「別れる前に教えて。ナラサキは東京で何をしたの?警察が犯罪者に手を貸すなんて、余程のことがないとあり得ない。ナラサキは何をして煙たがられたの?」
「………それは」
良き友人として、言うの気が咎めた。とつおいつするばかりであり、あるべき正しさを見失ってしまった。そしてそれは、思わぬ火種を燃え上がらせるキッカケとなる。
「24号事件を探ってる奴はどいつだ?」
「あそこの警官さんと外人のねーちゃんですねぇ」