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灰病み世界の無くし物  作者: 名無しの某
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1話 赤い人

1930年代、満州。


暦の上ではまだ秋だというのに、東北と同じくらいの緯度に位置する奉天は、土が凍てつく寒さであった。突き刺さるように寒気はコートの隙間から入り込み、白い吐息は止まる様子がない。木枯らしが吹き付けると、銃を持つ手が震える。


「止まれ!」


旭日章付きの帽子を被り、警察の制服に身を包んだ男が叫ぶ。武骨な小銃を携えて、好天たる白昼の市街地を疾走する。追われているのは二十代の女性で、まるで男の言葉が届いていないかのように……いや、銃を持った男に追いかけ回されれば止まる気は失せるだろう。


どのような理由で、どのような人間であったとしても。


和装というのは本来走るのに適していないが、男の方も中々鈍足であった。4キロ近くある小銃に、弾薬が満載の弾薬盒、その他諸々。全力疾走どころか小走りにもかなりのわ体力を使う。


女性は再三の制止を振り切り、足がもつれて転びそうになるのを器用に躱しながら走る。男の方も、乾いた空気に喉の水分を奪われる苦しさを抑えつけながらひたすら走った。


暫くすると、赤煉瓦造りの建物に女性が逃げ込んだ。施錠でもされたらたまったものではないと、根気ひとつで乳酸に侵された脚を動かす。扉は鍵があったものの、施錠されていなかった。


建物の割には質素な木造扉を蹴り開けると、直ぐに事由も見ることとなる。


「………」


武装した青年が2人。銃口を既に男に向けており、どの角度から見ても歓迎しているようには見えなかった。

まだ未成年と思われる彼らは、まるで親の仇のように恨めしそうに男を見た。


誘導されたのか、あるいは藁に縋った結果なのか。とにかくここはあの女性を迎え入れ、男を拒んだ。


逡巡。そして………


彼は銃を撃発する。逡巡とは一瞬ばかりであり、しかもそれは慈悲だ無慈悲という選択ではない。

それは、使命か身命かの二択であった。己が命か、仕事の使命か。そこに健気な青年を撃ち抜くか否か。そこに自己犠牲の篤志家のように尊い心は存在しなかった。


そして、使命が勝った結果が、この行動である。


青年達は思い込んでしまった。互いが武装していれば、拮抗する筈だと。障害物が存在せず、向かい合って銃を向けている状態ならば、ましてや数の有利を取っているなら降伏だってさせられると、そう考えたのは唯一にして絶対の間違いであった。


額に穴が開く。血と脳漿が混じった液体が噴水のように噴き出す。鉄が酸化したような臭いが辺りに充満する。


「っ!!」


時すでに遅し。小銃を構えたもう片方の青年が引き金に指をかけるたその時。


ゴン、という鈍い音。ベキン、と何かが折れた音。男は小銃を槍投げが如くぶん投げ、結果銃床は青年の顔面に命中する。反射的に引き金を引くも、銃弾は男の顔を大きく逸れて天井に命中する。


投擲と同時に駆け、帯革(ベルト)の銃剣差しから銃剣を抜く。鼻を押さえていた青年が咄嗟に防御姿勢を取ろうとするが、遅い。


鈍色の刃は青年の喉を貫き、己の使命を全うせんとした健気な青年の命を散らした。


「……………」


肉が固くなる前に銃剣を引き抜くと、血が噴き出す。


………それに関して、特にこれといって感想は浮かばないのだが。


対峙は一瞬だったとはいえ、武装した人間を2人斃すというのは中々大仕事であった。危うくひと段落しそうであったが………


「うぉっ!?」


自分の小銃とは違う。それに比べてやや軽い銃声。拳銃のものだ。振り返ると、彼女がいた。

涙を溜めた目で男を睨みつけ、震える手で自動拳銃を構えている。


敵対の意思である明確。ならば……………


歯を食いしばる。仕方ない、仕方ないのだ。警察官としての使命を、大日本帝国の安寧を、それを犯罪者の命で齎らす事が出来るならば………

自己暗示のように、男の心中は正当化の言葉で溢れていった。


遊底(ボルト)を引き、排莢し、また戻す。


彼女は撃たない。撃たないのだか撃てないのか、何て疑問は最早どうでもいい。


この日、2度目の銃声が響いた。





同年冬。横須賀港。


三上(ミカミ)〜三上さ〜ん、三上義治(ミカミヨシハル)巡査部長〜。いい話があるんだ。乗らないか?」

「ゆっくり休みたいんだ、俺は………」


満州駐留警官の任を解かれた三上は、海軍の輸送艦での長い長いクルーズを終わらせたところ。不運にもいやに喧しい同僚に捕まったところであった。


「そう言うなって。損はしないだろうよ。なんなら聞くだけでもいいから」

「やめてくれ。それって今じゃないと駄目なのか?」

「何だよ、酔ったのか?」

「何でお前はそんなにピンピンしてるんだ………」

「あぁん?あんなの揺れたうちに入らんよ」

「馬鹿かお前は」


大連から出航し、黄海を縦断して東シナ海から太平洋側に出て関東の横須賀港まで、まったく長い道のりであった。


止ん事無いという事で、満州及び朝鮮の警官はある事情から民間船舶ではなく立派な海軍の軍艦に揺られる事と相成ったわけだが、それにしたってやりようを少し疑ってしまう。


………いや、いいだろう。民間の港を使わせてもらえよ。任務の為にプライドくらい捨てろって。


とは勿論言えなかった。冬場の太平洋で遠泳大会をするつもりは、三上には無い。

というのも、満州と朝鮮の独立運動をやや派手に制圧してしまったせいで、今度の運動家の怒りは限界量を遥かに超えてしまった。そのせいで危うく国共内戦が止まりかけ、あまりにも早すぎるタイミングで日中の全面戦争が始まるところであった。


黄海辺りで軍艦に撃沈でもされたら、世論が戦争だなんだと騒ぎ立てる。時期尚早故にそれは出来ず、海軍の輸送艦とその護衛船団を派遣した。


実のところ、選択肢は3つあったらしい。


1.日本海側にある要港部(佐世保、舞鶴)に直行する。

2.いっそその場に留まって関東軍のお力を借りる。

3.大湊か北海道辺りに逃げ込んで、ソ連と互いに牽制し合わさる。


難癖をつけられやすそうな1は却下、火種を炎にしかねない2も勿論却下、3は下手を打ったらソ連が共産党と手を取りかねないので却下。安全に撤退、というやり方に落ち着いたらしい、とは若い海兵の弁である。


とにかく貨物室のような場所で雑魚寝をしていたがために、まだ二十代の三上の体にはガタがきている。恐ろしきかな、一足先に老体の怖さを思い知った気分だ。


「何だよ、もう戻るのか?」

「いや、俺は………辞めようと思うんだ、この仕事」

「はあぁ!?何でっ!?」


三上の言葉に、いくらかオーバーなリアクションで驚く。


「今度はもうちょい楽な仕事がしたいな」

「勿体ねぇ。お前なら上行けるだろうに」

「ハラキリ要員になるつもりはないよ」


どうにも、警察という仕事は彼の性分には合わなかった。それでも続けられたのは、ひとえに彼の真面目さ故だろう。よく満州への転属で心が折れなかったものだ。


「楽な仕事って、何だよ」

「さぁねぇ。新聞社に入ってタイプライターでも………」

「それ女の仕事だろ、ふざけやがって」

「冗談だよ。どっかの田舎で、農場の手伝いでもしようと思ってるよ」

「はぁ〜、お前がねぇ………なぁ三上お前、本土から満州に逃げたアカ共を追ったんだろ?」

「んあ?そうだが、それがどうしたよ」


少し真面目なというか、先ほどまでの底抜けに明るい声はなりを潜め、三上の耳にすっと入る低音で言った。


満州(あっち)じゃ随分怖がられてたじゃないか。返り血のせいで、ある意味共産主義者(アカ)より赤いとか。それホントなの?」

「アカ共が抵抗するくらいならその場でぶっ殺した方がお国のためだ」

「はっはっは、だからお上は引き揚げさせたのか。警察の教範だもんな!」

「ある意味ではな」


肩の小銃が重くのしかかる。文字通りに。というより脚も鉛のように重い。疲労に加えて隣にボリューム調整機能が壊れたラジオを置いている気分なのだから、疲労が加速する。疲労の累乗である。


横須賀の街に出ると、いやに活気付いている事に直ぐ気付く。良いことだが。良いことなのだが、それはいつもと違った。三上は生まれも育ちも横須賀ではないが、風景の違いがよくわかる。


「外人が多いな」

「何だ?観光か?」

「それにしては仰々しくないか?」

「そういえばお前何で一緒に来てんだよ」

「連れない事言うな三上」


人間もボリュームの調節が出来ればな、と今ほど切に願った事はない。発話には気を遣ってほしいものだが、この元気が一体どこから湧いているのかもまた謎である。とてもではないが、今の三上は腹から声を出すことなど出来ない。


「そうだ、最近は色んな場所で外人を見るらしい。横須賀も多いがそれ以上に多いのは呉と舞鶴らへんだとか」

「それは………」

「なーんか陰謀の匂いがしないか?」

「しないな」

「お前なぁ………」

「俺達は警察官だ、軍人じゃない。そういうのに首を突っ込んだら拾った命を落とす事になるぞ」

「夢がないねぇ」

「夢とかそういう問題じゃない」


事実、軍と警察は仲が悪い。特に仲が悪いのは陸軍憲兵と警察なのだが、占領地での活動という点においては海軍の特別警察隊とも険悪であった。憲兵並びに海軍特別警察隊はあくまで、軍の秩序を守る集団の筈だが、それでも所謂縄張り争いというのが絶えなかった。


彼は写実主義者(リアリスト)を気取ったわけではない。心の内は至極単純、ただただ三上の目に映る図々しい軍国至上主義者を視界から外したいだけであった。

まして外国のともなると、頭が割れそうになる。


法の番人は、国の番人ではないのだ。


「そうだ、丁度いいから話してやるよ。いい話」

「頼んでないが」

「今は大不況の時代だろ?何やら軍は外国資本と手を組んでデカい事をするらしい」

「へぇ〜………で?」

「うん?そんだけ。そもそも噂だからな」

「………ちょっとだけ期待した自分が馬鹿だった」


疲れたとは言いつつも、美味しい話かと、淡い期待を寄せた自分はどうやら頭が足りていなかったらしい、と三上は己を戒めた。面白くない。ただ面白くない。


「くだらね………」


資本による支配だの何だの、陰謀論はあまり得意ではないが、それでも遠いところの出来事は遠いところでそのまま決着してくれれば何だって良い。


日本にとっての不都合でなければ、何をしてくれたって構わない。その程度の認識であった。


「じゃあな三上」

「ん?あぁ、さっさと行け」

「あいあい………」


いやにフレンドリーだった名も知らぬ警察官と別れ、港を出た彼は街に繰り出した。雑にあしらったわけではないだろう。胡散臭くて大雑把な話まで聞いてやったのだから。


確かに彼が言っていた通りに、街は外国人が目立っている。横浜港や川崎港等、大きな港湾施設があって比較的外国人は多かったが、それも観光客としてである。


ポケットの膨らみ。一筋縄ではいきそうにないのは確かである。


「お巡りさん、お巡りさん。少しよろしいかしら」

「え、あ、何で——」

「道案内を頼めないかしら」

「……………」

「私の顔に何かついていて?」

「………いえ」


それが日本人の性か、振り向いた時に日本人女性の黒髪や、やや幸薄めな顔が見れないとほんの一瞬だが身構える。

その女性は錦糸のような長い金髪を風にたなびかせ、流暢な日本語を話した。ブラウンのトレンチコートにスカートという装いは、男性的か女性的か判断しかねる部分もあったが。


「ここが横須賀港でしょ?記念館"三笠"はどちら?」

「………あっちに見えるアレですが。マストがちょっと見えるでしょ」

「方角じゃないわ。道案内よ」

「地図がありますが」

「日本語ばかりで読めないの」

「え、貴女かなり流暢に——」

「ねぇ、案内してくれないかしら」


近年は警察官への当たりが強い。表に出す事があるか否かというだけで、一定の権力を持つ人間に対しては無条件で敵意を抱く人間だって少なくない。


難癖をつけられるのも面倒か………


「わかりました。ご案内致します」

「ありがとう。優しいのね」

「自分は警察官ですから」

「貴方の前に声をかけた警官には、外人だから嫌だって言われたわ」

「それはまた、不運ですね。日本にはそういう思想の人間が一定数いるのも事実です」

「貴方が違うようで助かったわ」

「自分も、差別主義者じゃなくてよかったです」


何やらしんみりとした重い空気が漂い始めるが、道案内するだけの関係でそのような空気は最早拷問となる。ので、とにかく話題を変えた。


「三笠には観光ですか?」

「ええ、まぁ。日露戦争は私の国でもそこそこ有名よ」

「それはそれは。帝国臣民としては嬉しい限りです」

「ぶっちゃけドレッドノートの対抗馬候補を偵察に来ただけなんだけどね」

「あっはいそうですか………」


よくもまぁ警察官の前で堂々と偵察に来たなどとのたまえるものだがしかし、あれは記念艦でしかなく、見られて困る機密はない。というかあったら一般開放していない。


「それにしてもイギリスへの対抗馬をお探しとは、もしやドイツの方ですか?」

「惜しいわね」

「そうでしたか。ヨーロッパはチェコスロバキアしか行ったことありませんで」

「あら、ご旅行で?」

「いやぁ、仕事です。旅行で行きたかったな」

「仕事………」


彼女の顔が翳る。原因はわからないがとにかく、言葉のどこかが引っかかってしまったのかと焦る。


「………お巡りさん、貴方、お名前は?」

「え?いやあの………三上義治ですが」

「三上………私、ハンナ・クレッセン。よろしくね」

「よ、よろしくするんですか?」

「事情が変わったわ。ちょっと三上さん、お時間よろしくて?」

「今からですか!?」

「ええ。きっと貴方にとっても損はない話だと思うの」

「いや損とか益とかではなくてですね」

「あぁもう、とにかく来てくれないかしら。こっちにとっても重要なのだけど」

「いやいや自分ら初対面でしょ。何がどう重要なんですか」


ハンナ、と名乗った女性は先ほどの、よく言えば優雅な、悪く言えば緩慢な動作とは人が変わったようだった。ぐいぐいと三上の腕を引っ張る。焦っている、という様子ではないが、やきもきしているというわけでもなさそうだ。言い聞かせられずに苛立っているということころか。


「付いて来たら説明するわ」

「いやそういうわけにもいきませんて。自分ら初対面ですよ?」

「そんな事どうでもいいから」

「どうでもよくない。まず理由を話していただかないと。それとも声を上げ辛い事なのですか?」

「そうよ。こんなん大衆の面前で言えたもんじゃないわ」

「最近、こうして美人のお姉さんが警官を連れ込んで武器を奪う犯罪が多発してましてね!」


その一言で、腕を引く力がなくなった。徐々にではなく何の予備動作もなしに力を抜くというのは見事に静と動を使いこなしているが、あいにくと注目したいのはそこではない。


「私がそうだと、疑っているのかしら?」

「当然」

「わかりました。私もちょっと焦ってたわね。でも本当に、あまり人が多いところでは言えない事なの」

「概要だけ話していただければ」

「………わかったわ。身の安全は保証出来ないけれど、それでもいいかしら?」

「………貴女まさか———」

「違う。貴方が何考えてるのかわかってるから言うけど断じて違う。私は真っ当な人間よ」


警察相手にそこまで向こう見ずではない、とハンナは付け加えた。

身の安全とはつまり、可能性の話であると。起きた場合の可能性ではなく、起きる事さえ可能性の一端でしかないと。


「三上義治さん。共産主義者の天敵だの人民の敵だの、返り血のせいで体が真っ赤になったから赤い男なんて呼ばれたとか。最初から殺しの為に行く事もあったそうね」

「………らしいですね。それが何か?」

「キョウカ・ナラサキを殺害した人物。そいつが持ち去った遺失物を探してる」

「え………」

「興味が湧いたかしら?」


ゆっくりと、肩に掛けている銃を握る。既にこの時点で、三上にとって目の前の女性は敵かあるいはそれに限りなく近い者であり、処理の方法を探るばかりであった。


「何故彼女を………」

「それこそこんなとこじゃ言えないわ。興味、ある?」

「……………」

「警戒するわよね。当然か。私だってこうなるとは思ってなかったもの。それじゃ特別サービス」

「特別サービス?」

「私の両親は朝鮮で殺された。手口、遺留品、現場の指紋からナラサキの件と同一犯で間違いないでしょう。そしてそいつが持ち去った物を探してる」


憐れんで欲しい、というわけではない。つまりそれは、陥れる意図で三上に声を掛けたわけではないという、前提という基盤を固めるためのものであった。何やら手前勝手な話になりやしないかとの不安が、頭をよぎる。


「こっから先は貴方次第。私は強制しないわ。だけど………」

「……………」

「貴方はこれを追って、警官になったのでしょう?」

「……………」


駄目だったから忘れたなんて、許される筈もなかった。しかし、八方塞がり故に離れていったのもまた事実。


「………お話、聞かせていただけませんか」

「えぇ、勿論」


それが、正義と信じるならば、彼女の口車に乗るのも悪くないと、少し思った。

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