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刃物の国

作者: 鷺野由紀

 面倒な仕事をあらかた片付けて、ようやく帰宅の途に着けたのはなんと夜10時を回っていた。ドアを乱暴に開けたらさっさと服を脱ぎ捨てて、シャワーを浴びてすぐに寝てしまいたかった。飯を食う気力もない。

 だというのに、家の前に人影を見かけて、そいつがこちらに向かって手を挙げて挨拶してきたときは、心の底からうんざりした。


「なんだってんだ、ジョン。こんな夜中にひとの家のドアの前で」

「そう嫌な顔しないでくれよ、マリオ。僕と君の仲じゃないか」

 疲れてるのに仲もクソもあるかと悪態を吐きたかったが、未だ付き合いのある唯一の幼馴染だし、そういうわけにもいかなかった。金も借りてるし。

 しばらくジョンは俺の手元と胸元を交互に見ていた。挙動不審なのは昔からだが、今日は一段と不安そうにしている。気持ち悪いくらいだ。

「なんだ、用があるんじゃないのか」

「いや、そのね……ううん、実はねマリオ。君にちょっと、相談というか、聞いてほしいことがあって……」

「相談だって?」

 驚いて言うと、君に相談なんてはじめてするものな、と自嘲するように彼は笑った。


 ジョンは――これも昔からそうだが――人に自分の問題をまったく言わないやつだ。よく言えば人を巻き込まない、悪く言えば自分一人で抱え込む。そういうタチの男なのだ。


「それで、なんだそれは。君がそんな風に言うなら、それなりのおおごとなんだろ?」

「おおごとか……そうだな、おおごとに違いないのだ。それなのに、ああ、マリオ。誰も気にもとめないが、由々しきことだと、僕は思うんだよ」

「だから、何が」

 苛立ちが若干言葉に滲んでしまう。短気なのは良くないと、解ってはいるのだがどうも昔からこういうタチでいけない。その度にジョンはビクビクと萎縮して意味もなく謝っていたものだが、今日の彼は違った。


「この街――いや、ひいてはこの国のことだ」

「国の……?」

 予想した以上にスケールが大きく、かつ予想斜め上の話題に、俺は困惑した。何をそんなに切羽詰まることがあると言うのだろう。確かに最近首相が変わって世が騒然としてはいるが、ジョンはそんなことを気にする男だったろうか。政治に関する話など、彼の口から一度も聞いたことが無かった。

「何かそんなに大変なことがあったのかい。俺の記憶にはないけど」

 しかし、彼は首を横に振って応えた。

「最近にはじまったことじゃないんだ。マリオ、この国はおかしいよ」

 壮絶な声が意を決したように言う。何のことだか、俺にはまだサッパリだった。

「何がそんなにおかしいって言うんだ」

「ああ、マリオ。君、刃物を持っているかい」

「刃物?」

 突拍子もなく飛び出た単語に困惑を深める俺に、ジョンは神妙に頷いた。

「そりゃあ……持ってはいるけど、それがどうしたって言うんだ?」

 そんなもの、誰でも当たり前に持っているだろうに。それが、彼にとって深刻なことなのだろうか。

「ああ、ほら。疑問に思ってない。マリオ、じゃあ聞くけど、君は刃物を何のために使う?」

「それは、物を切るためだろう」


「じゃあ、その物を切るための刃物で人の首を切ったらどうなる」


「な……」

 俺は耳を疑った。こいつは本当に何を言っているんだろうか。

「死ぬにきまってるじゃないか、そんなことをしたら! ジョン、君、どうしたって言うんだ」

「聞いてくれ、マリオ。僕は恐ろしいんだよ。そんな、人をいとも簡単に殺せるような道具を、みんなが持っていることが!」

 ほとんど叫びのような大声が深夜の住宅街に響いた。反響する自分の声に驚いたのか、ジョンは一瞬強張って、すぐに「すまない」と呟いた。

「この国のひとは、みんな刃物を持ってるじゃないか。それはつまり、みんながいつでも人を殺せるってことだ。そんな危ない世の中なのに、誰もそのことを問題視しない。当たり前になってる」

「落ち着け、人に刃物を向けるやつがどこにいる。……いや、いるかもしれないが、それは殺人犯と異常者だけだ。ふつうの人間は、そんなことをしない」

「ふつうの人はしないだろう。しかし、マリオ。人はどんな些細なきっかけでおかしくなってしまうかもわからない。君は精神病が専門なんだから、そういうことはよくわかってると思うがね」

「そりゃあそうだが……」

「そんな危険がありながら、ひとはみな刃物を持つ。自分はまともだから、自分の近くにいる人はまともだから大丈夫という得体の知れない確信を根拠に、禍々しい刃を持ち続けてきたんだ」

 君だってそうだろ。ジョンは俺の胸元を指して言う。

「その胸ポケットに入れてるそれは、なんだいマリオ。そんなものを持つ必要がどこにあるっていうんだ。携帯する必要が、どれほどあるっていうんだ!」

 胸ポケットに入れてるもの――言われて俺はハッとした。そう言えば常に持ち歩いていたな。スルリとそれを取り出すと、長年愛用しているそれはガス灯の灯りに鈍く輝き、目の前の幼馴染をたじろがせた。

「ほら、君だって持ってるんだ、やっぱり誰もかれも、刃物を携帯している……それを誰もおかしいと思わないんだぞ? おかしいじゃないか。それとも、おかしいのは僕なのかい? ……そんなはずはない、人を殺める可能性のあるものを、誰もかれもが持ち歩く国なんて……まともじゃない、狂っている。君は、そうは思わないか、マリオ」

 すがるように俺に同意を求めるジョンに、俺は納得した。

「なるほどね。よくわかったよ、たしかにおかしいな」

「そうだろう!」

 ジョンはあからさまに喜び跳ね上がった。こんなに喜んでみせるのも、はじめてかもしれない。

「だけど、ジョン。君もわかってると思うが、誰もおかしいと思っていないことを一人がおかしいと気付いたって、変えることはほとんど不可能だぞ。世界は変えられない、しかし君はこの世界が嫌だ……ならどうするっていうんだ」

「それなんだが」

 ジョンは自分の考えが認められたのに満足したのか、満面の笑顔で自分のこれからを話し始めた。

 話によると、どうやら彼は隣の国に引っ越すことに決めたらしい。このおかしい国にいるわけにはいかないから当然だろうと言っていた。引っ越すまでに誰に刺されるか分かったものではないが、それでもここにいつまでも居座るよりはずっとましだと考えたらしい。

「君のおかげで決心がついた。ありがとうマリオ。明日にも引越しの手続きを始めることにするよ」

「そうか……この街に幼馴染がいなくなっちまうのは寂しいが、仕方ないな。達者でやれよ、ジョン」

「ああ、マリオ」

 ジョンは思い出したように寂しそうな目をして頷いた。

「僕もそれだけが残念でならない。君には家族もあるし、一緒に行こうなんて言えないからね。今までいろいろ世話になったね、ありがとう」

「ああ、こっちこそな。がんばれよ」

「ああ。じゃあこれで失礼するよ。夜遅くにすまなかったね。おやすみ、マリオ」

「ああ、おやすみジョン」


 笑顔で手を振ると、寂しそうな笑顔のままジョンは自分の家の方へと、ガス灯の下、消えて行った。

 その姿がすっかり見えなくなった頃、ようやく俺は大きくため息をついて、取り出したままになっていた愛用の万年筆をポケットに戻してドアを開けた。


 まったく、月もないってのにとんだ夜だ。寝る前に酒でも飲もうと、心に決めた。

 




 翌日のことになるが、なんとジョンは死んだらしい。

 なんでもすっ転んだ拍子にグラスが割れて、それが運悪く喉元に突き刺さり、そのまま致命傷となったらしいが。

 刃物を恐れていた割にこんなお粗末な最期では、呆れるほかない。


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[良い点] 突き放したような落ちがよかったです。面白い。
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