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近くの扉



身支度を整え終わると、彼はふと自分の正面に向かい合っている白い壁に異様な関心を覚えた。

「白い壁だ」彼はそう思った。そう思って彼は満足し、机の上にある鍵を手に取るために自らの身体をひるがえした。そうして間も無く目に飛び込んできた机の上に、確かに目当ての鍵が乗っかっていることをみとめた。

「鍵だ」そう思って、彼は一歩二歩とそれに近づいていったが、その時、なんとなく目に入った、机の近くに置かれている四つ脚の椅子の、その脚の部分に示されている、木目の模様の一つに、何故か強烈な興味を感じた。彼は立ち止まって、それを凝視してみた。丸みを帯びた筒状の棒に、何重にも折り重なった波紋が浮かんでいるのが見て取れる。そこには確かに何かがあった。ある不可解な、しかし、確固とした意味を持つ深淵があった。何ものかとの類似性、又はその対極、それ自身が命題であり、又、逆説でもあるところの何か…。しかし、それが何なのか彼には全くわからない。

「椅子の脚だ」彼はそう思うことにした。ーそう思うことにした?

机の上にある鍵を手に取ると、彼は再び身体をひるがえし、部屋を出るために玄関へ向かおうとした。すると先程向かい合っていた、この部屋の白い壁が又しても彼の目に飛び込んできた。

「白い壁だ」彼はそう思った。そう思って彼は、その部屋の白い壁には一切構わずに、玄関へと急いだ。一歩二歩と近づいていき、やがて辿り着くと、彼はいつもの靴を足に引っ掛けて、ドアノブへと手を伸ばした。ほどなくして、冷たい鉄の感触が手の平へと伝わってくる。そこでふと、彼は何かを感じた。ー何かを?

伸ばしていた手を引っ込めて、急いで振り返ると、そこにはいつもの部屋の風景が広がっていた。ーいつもの部屋の風景?ーそれは確かに、いつもの部屋の風景に過ぎなかった。ーそれは確かに、いつもの部屋の風景に過ぎないはずだった。或いは、いつもの部屋の風景に違いないはずであった。ー

彼は足に引っ掛けていた靴を乱雑に脱ぎ捨てると、先程向かい合っていた白い壁の前に、急いで、駆け足で舞い戻った。ほんの少しだけ息を切らせながら、彼は立ち止まって、それを凝視する。そこには確かに、いつもの部屋の、いつもの白い壁が、いつもと変わらずに存在し続けていた。或いは、存在し続けているはずだった。

「白い壁だ」彼はそう思った。しかし、そう思った彼の心は酷く乱れていた。彼は急いで、血眼になって、それをさらに深く、強く凝視せんとする。それは確かに白い壁だった。白い壁だったが、しかし、彼が今の今まで単調な白い壁だと思い込んでいたそれは、近づいて改めて仔細に眺めてみると、実は、それ自体が複雑な模様を成しているものであることが容易に確認された。各場所における色の疎らさや、そこに付いた僅かな傷、壁の張り紙そのものの微妙な質感…。そこには確かに何かがあった。ある不可解な、しかし、確固とした意味を持つ深淵があった。何ものかとの類似性、又はその対極、それ自身が命題であり、又、逆説でもあるところの何か…。しかし、それが何なのか彼には全くわからない。

「白い壁だ」彼はそう思った。しかし、そう思っただけでは到底、納得することができない。各場所における色の疎らさや、そこに付いた僅かな傷、壁の張り紙そのものの微妙な質感…。それ等について彼は深く、強く考察しようと努めた。何ものかとの類似性、又はその対極、それ自身が命題であり、又、逆説でもあるところの何か…。しかし、それが何なのか彼には全くわからない。それどころか彼の頭は、それ等を深く考えようとすることを拒んでしまう。そこに確かに示されている意味を、真理を、宇宙を、イデアを必死に掴み取ろうと努めるが、何故か、ぎりぎりのところで自ら進んで身をかわしてしまう。自分の目の前にある壁には、確かな深淵があるはずだった。しかし、それがどうしてもわからない。生存の目的や動物としての欲望から著しく外れた事柄を、彼の脳は深く、強く探究することができない。ー


「白い壁だ」彼はそう思った。再度身体をひるがえし、彼は玄関へと向かった。一歩二歩と近づいていき、やがて辿り着くと、乱雑に脱ぎ捨てられた、いつもの靴を足に引っ掛け直して、彼は再びドアノブへと手を伸ばした。ほどなくして、先程と同じく冷たい鉄の感触が手の平へと伝わってくる。

「ドアノブだ」彼はそう思った。そう思って彼は一瞬立ち止まったが、しかし、すぐさま、そそくさと、その扉を押して、明るい日差しの下、振り返ることなく、履きかけの靴を引きずりながら、それでも足早に部屋の外へと出かけて行った。ー


ばたりと一つ音が鳴り、扉が閉まる。彼がアパートの階段を下っていく振動が伝わらなくなると、部屋にはただ静寂だけが取り残され、後にはただ、いつもと変わらない部屋の風景が広がるばかりであった。白い壁は白い壁のまま、四つ脚の椅子は、四つ脚の椅子のまま、冷たいドアノブは、ただの冷たいドアノブのまま。ー

彼は玄関の扉の鍵を締めるのを忘れてしまっていた。再び急ぎ足で階段を駆け上がってくる振動が部屋に伝わると、ほどなくして、その扉が彼の手によって勢いよく開け放たれた。ー開け放たれた?

ばたんと一つ音が鳴り、彼が玄関に駆け込むと、そこにはいつもと変わらない部屋の風景が確かに広がっていた。白い壁は白い壁のまま、四つ脚の椅子は、四つ脚の椅子のまま、冷たいドアノブは、ただの冷たいドアノブのまま、確かにそこに広がっていた。ー確かにそこに広がっていた?

彼は靴を履いたまま血眼になって、そこに在る全てを凝視せんと満身の力を込め、ただひたすらに深く、強くそれ等を考察しようと努める。ーそこにはいつもと変わらない、部屋の風景が確かに広がっていた。白い壁は白い壁のまま、四つ脚の椅子は、四つ脚の椅子のまま、冷たいドアノブは、ただの冷たいドアノブのまま、確かにそこに存在していた。ー確かにそこに存在していた?

或いは、確かにそこに存在しているはずだった。

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