夜の明ける前に
やはり、最悪というものを知らなければならぬ。それはひとえに最良というものを知るためだけには留まらず、普通というものが尊いものであることを悟るためにも必要であるだろう。
しかし、この「最悪」というものが一体何処にあるのか、これが極めて深刻な問題である。
古典的作品の中に過酷を極めた現実を題材にしたものは数多く見受けられる。しかし古典的作品は、その作品の秀逸さ故に、古典的であるというモチーフが強烈に読者を圧倒してしまう。これは作品が秀逸であれば秀逸であるほど、その力が強くなっていく感がある。
別の言い方をするならば、古典的作品は、それが古典的であるが故に、作品としての強度が強すぎる。だから読者は、その作品を確かに強烈なリアリティーを感じながら鑑賞するけれども、その鑑賞は最後の最後のギリギリのところで、やはり、その作品の強度故に、ただ作品としてしか、読者はそれを見ることが出来ない。
これは意外な程、明らかな事柄であるように思う。私の或る友人のごとくは、旅先にて私と共に購入した「ニーチェの言葉」なる名言集を読み耽り、その感動を後日、私に熱っぽく演説した(私はと言えば、彼と共に立ち読みをした段階では、その感動を共有していたものの、いざ本を家に持ち帰ってみると、あまり気が進まず、未だに積ん読の状態のままとなっている)。後日、私は何とは無しに、彼のその感動の様子を思い出し、自らもその著書の読破に踏み出す為に、改めて彼の演説を聴いてみようと彼に会いに行った。しかし、当の彼本人はと言えば、ただ一言、冷めた様子で「ああ、あれからそんなに進んでないよ」と言うだけであった。私はその様子に違和感を覚え、あの前回の感動からして、何故、今こうも冷めてしまったのか、と理由を問うてみた。すると、彼の答はこうであった。「名言はオナニーと一緒なんだってよ。ネットに書いてあった」
…これはどうしたものだろうか。私は確かに呆気にとられたが「まあ、そんなものだろうか」とただちに思い直し、その場では特に、それについて深く考えたりすることはしなかった。
しかし今思えば、これはやはり、ある程度不可解な出来事であると言わなければならぬ。何故なら仮にその著書が超訳(?)であるにもせよ、彼は確かに「ニーチェ」の言葉に感動したはずである。しかし、ニーチェの言葉に感動したはずであるにも関わらず、彼はその偉人の言葉よりも、後から現れた名も知らぬ「ネット上の人物」の吐いた言葉に、最終的には重きを置くという決断を下したのである。
…これはどうしたものだろうか。彼が例外的な人間であると考えることは容易いであろうが、しかし、案外そうではないように私には思われる(知人であることから、私が個人的に彼の人間性を考慮して、そう言うのではない)。
唐突な結論ではあるが、結局のところ最大のリアリティーというものは、精神病院の壁の殴り書きなのであろう。どんな偉人の言葉にせよ、どんな古典的作品にせよ、この精神病院の壁の殴り書きによって記された言葉のリアリティーに、おそらくは、その一面に於いては敵わないのである。してみると、今述べた私の友人のケースでは、ニーチェの言葉よりも、彼にとっては、ネット上に匿名で記された言葉の方が、より精神病院の壁の殴り書きに近かったのである。
そして、これと類似したケースは、案外にして多いのである。感動というものは、特別に意識しなければ、意外な程、脆く崩れ去りやすい性質をしており、時に粗探しの一言に、時に隣人の軽薄な皮肉に、時に凡庸な人々の無理解に、儚くも無残に切り裂かれてしまうことも少なくはない。そして、それらの浅はかなる言葉の数々は、大概にしてろくな考えも有しておらず、往々にして直感的に口を突いて出てくるが故に、妙に精神病院の壁の殴り書きに近いリアリティーを、人に感じさせるのである。
これが事の真相であるように、私には思われる。
かなり話が逸れてしまったが、ここでの主題は「最悪」を知らねばならぬ、ということである。それでは我々は、そうするにあたり、今、上に述べたようなリアリティーの強度に従って、古典よりも是非とも精神病院の壁の殴り書きに親しむべきであろうか、というと、散々好き勝手言った手前、非常に申し上げにくいのであるが、必ずしも、私はそう思う訳ではない。そもそもこの「精神病院の壁の殴り書き」というのも、一つのメタファーなのであって、要するに、精神病院の壁の殴り書き的なもののリアリティー、つまりは先程述べたネット上の書き込みや、粗探しの一言、隣人の軽薄な皮肉などがそれである。しかし、当然これ等がそのまま最悪という概念を知る手がかりには成り得ない。具体的に何が言いたいのかと言えば、それはこの「精神病院の壁の殴り書き」的な作品にこそ、最悪を知る手がかりがあるのではないか、ということである。
今述べてきたリアリティーの考察から一歩進めて、そのような性質を維持した、いわば古典的完成とは遠い位置にあるような作品にこそ本当のリアリティーを見いだすことがあるのである。「古典的作品」というものの価値を最早疑いようもないことは、今更、私が言うまでもあるまい。しかし、古典的作品以外の作品、そのような作品に於ける価値も私はここに記しておきたいのである。妙に精神病院の壁の殴り書きじみた、それでいて確かに作品として成立されている悲惨…
ここでの主題は「最悪」を知らねばならぬ、ということである。つまりは、古典的作品以外の中に、時に本当にリアルな凄惨さを見ることもある、ということを私はここで言いたかったのである。




