2話
5月2日。
学校が終わり、教室に置きっ放しにしてあった荷物をまとめて家に帰る。せっかく半日で学校が終わったので、本当は友達と寄り道とかしたかったのだけれど、この荷物を持ったままじゃ無理だと思い一度帰宅することにする。
家には今、兄がいるはずだ。昔は頼りになって大好きなお兄ちゃんだったけど、今じゃ見る影もない。例え勉強ができなくても、例え運動ができなくても、お兄ちゃんはお兄ちゃんなのに。いつの頃からか、口も聞いてくれなくなってしまった。話しかけようとしても、お兄ちゃんが私の方を見て嫌な顔をするのでそのうち私も目を合わせないようになってしまった。
どうにかしたいと思っても、どうにもできなかった。私が近づこうとすればするほど、お兄ちゃんは離れていってしまうのだから。
そんなことを考えながら、大量の教科書や辞書を持って帰路を歩く。陽射しが刺すように眩しく、あまりの暑さにふらつきながら歩いていると、後ろからなにか音がが聞こえてくる。
そこから先は怒涛の展開だった。
どうやら私は車に轢かれて死んでしまったらしく、それはなにやら神様とやらの手違いだったらしい。まるでお兄ちゃんの影響で読んでいたネット小説のような展開だった。
生き返らせることはできるけれど、その代わりに異世界とやらを救ってほしいだなんてまさにテンプレのようなことを言い始めたので、私は思わず「そっちの落ち度なのに私がそんな大変なことをしなきゃいけないんですか」なんて嫌味を言ってやった。
すると、神様とやらは「異世界を救ったらなんでも願いを叶えてやる」と言うので、「ん? 今なんでもって」なんてお馴染みのやり取りをしつつ、無理難題を吹っかけることに成功した。
それからは異世界で魔王を倒したり、現代知識チートをしたり(手元にあった辞書が役に立った)、大変だけど充実した日々だった。
何年か経ったある日。ようやく神が私の前に現れ、「この世界は救われた」などとのたまうのだ。
ゴールが曖昧で見えないまま走り続けて、それがようやく報われた瞬間だった。
そうして異世界から去り、元の世界、車に轢かれて死んで幾分も経ってないような場所に私は戻された。
私は荷物が重たいのも忘れて走って家へと帰る。私にとっては数年ぶりの家で、数年ぶりに家族に会えるのだった。それが嬉しくて、私はとにかく急いで帰った。
玄関のドアを開けると、タイミングが良かったのかお兄ちゃんがいた。私は数年ぶりにお兄ちゃんに会ったせいか感極まって荷物を投げ捨てお兄ちゃんに抱きつく。
「お兄ちゃん! ただいま!」
抱きつき、思わず目に涙が浮かんでしまう。目の前に本物のお兄ちゃんがいる。それが、私にとってどれだけ安心できることか。
けれど、お兄ちゃんがとった行動は私が期待するものとは全然違っていた。
お兄ちゃんは私を振りほどき突き放すと、急いで自室に戻ってしまった。
……そうだった。私にとっては数年ぶりの再会でも、お兄ちゃんにとっては、確か朝に顔を合わせたばかりだったはずだったのだ。
その後は久しぶりのお母さんのご飯に泣きそうになってしまったり、ふかふかのベッドに横になったりと日常のなんでもないようなことで泣きそうになったりしてしまった。
お風呂上がりにベッドに横になり、天井を見上げてぼーっと考える。
神に貰った、なんでも願いを叶えてもらえる権利。実はこれをまだ行使していない。
「……プリケイル、いる?」
ポツリと、そんなことをひとりごちる。すると、枕元に放り投げたスマホの画面が変わり声が聞こえてくる。
『マスター、プリケイル、ここにおります』
「……いたんだ……」
『はっ、マスターのスキルは消えてはいないため、マスターのスキルの一部である私も消えてはいないのです』
「なるほど」
プリケイルというのは異世界で私が手に入れた特別な能力のことだ。プリケイル自体が能力というわけではなく、彼は能力を管理するサポートAIみたいなものだ。本来は脳内アナウンスしかできなかったが、とある能力を手に入れた際にスマホに姿を映し、声を出せるようになった。怪しい仮面を被った執事のような男なので、あまり出てきてほしくはないが。
その彼がいるということは、きっとあれができる。
「じゃあプリケイル。『お兄ちゃんが更生する方法』を割り出して」
『はっ、しばしお待ちを』
これは私が魔王……だったかな、邪神だった気もする。ともかく、そういった類のものを倒した時に手に入れた特殊演算能力だ。アカシックレコードにアクセスし、未来、過去、現在、並行世界、その全てから情報を得て最適な解答を導き出す。そんな力だ。その力の一端を利用して作ったのが、私の能力や演算を補助するAI、プリケイルだった。
……しかし、何時もだったらすぐに答えを出すプリケイルがなかなか答えを出さない。まだかと少し落ち着かなくいると、プリケイルから返事が出た。
『すみませんお待たせしました。演算終了。マスターの兄、風見瑞樹の更生プログラム構築の結果、オールエラー、全て不可能と結果が出ました』
「どういうことよそれは!」
思わず声が大きくなってしまう。
それもそうだろう。お兄ちゃんは今引きこもっているけれど、それをどうにかする方法は異世界で得た、現代の技術を凌駕する力を使っても不可能だという。こんなことは、あんまりだ。
『……マスター、一応1つだけ、ほんの僅かに1つだけ方法があります』
「……なに?」
プリケイルの声は機械音声の無機質なものなのだが、それが微妙に震えて聞こえる。こんなことは初めてだ。
『天文学的に低い可能性の中に1つだけ、風見瑞樹と同一の存在が引きこもることなく、元気に笑う姿がある未来。マスターの望む未来がある可能性があります』
「それはなに! 教えなさいプリケイル! 天文学的に低い可能性でも、私ならできる! 神の権能を1度だけ使える私なら、その可能性を引き出せるわ!」
神から貰い受けたのは、この世界で1度だけどんなことでも叶う権利。例えば死んだ人を生き返らせたり、この世界を征服して自分のものにしてしまったり。この世から私の情報を一切消してしまって異世界に戻ったり、なんてことも可能だ。大抵のことなら叶ってしまう。
『では言います。……彼、風見瑞樹がマスターの妹、つまりマスターより年下の女の子である世界です。その世界線であれば、彼が引きこもることはありません』
「なによ、それ……」
それはもう『お兄ちゃん』ではない。もう別の何かになってしまう。そんなのが、救いになるはずがない。
『彼がこうなってしまった原因は2つ。それを取り除くことで、彼は救われます』
「なによその2つって……」
『1つは彼が兄であること。兄であるがゆえに、優秀な妹の存在に卑屈になってしまう。これはどうしようもなく事実です。そしてもう1つは彼が男性であること。男性として恵まれなかった容姿、性格。この2つが絡み合い、今の状態になってしまっているのです。どちらか片方を正すのではダメ。両方を正さないと解決しません。それが、私がアカシックレコードの中で得た結論です』
プリケイルの言葉に私は絶句してしまう。それはもう、私がお兄ちゃんのことを苦しめているようなものだ。ようなものというか、そのもだ。であればいっそ……
『マスター。マスターがいなくなっても、彼が男性であの容姿である限り、いつかこうなることは変わりありません。不変の事態です。そして、マスターがいなくなることと、彼の容姿を変えることは両立不可能です』
だとしたら、プリケイルの言う通りにお兄ちゃんを妹に変えるしかないのだろうか。
……いや、だったらお兄ちゃん自身に頑張ってもらうしかない。私があれこれしたところで、最終的にはお兄ちゃん自身が頑張るしかないのだから。そのために私は鬼になろう。
「神の権能を行使。内容はーー」