日本男子、接触する
俺は今、危機的状況を迎えていた。
ガーゴイヌの大きく開かれた口が!
牙が!
蹴り上げたばかりの無防備な俺の脚に!
まだ誰にも揉ませたことのない色白な脚が蹂躙されようと!いや、取り乱した!将来的にも誰かに脚を揉ませる予定は入ってない。
そんな愚にもつかない考えができるほどに俺の主観時間はゆっくり流れていた。全てがスローモーションに見える。
その景色の中を、ガーゴイヌが酷く緩慢に、まるで恐怖を助長するように、焦らすように、しかし着実に近づいてくる。
この体勢から有効打が出せないからと言って、何の抵抗もせず攻撃を受けるなんてできるか!どこまでも足掻いてやる!
決心した俺は、蹴り上げて片足となった姿勢のまま飛び上がり、上げた脚を引き戻す反動で逆の足を蹴り上げる。二起脚という技になるんだろうか。
尤も型の練習なんてしたことがないので、技の形がおかしい。
石の塊であるガーゴイヌの頭を、粉砕するには、圧倒的に、勢いが、足りない!
それでも、意味はある!
大事な事はただ1つ、この体に噛みつかせない事だ!
その口の中に、最大の防御力を持つ、安全靴を突っ込む!
飛び掛かった為に、軌道を変える事ができない、ガーゴイヌの口に、安全靴の爪先を、狙い通り突っ込む!
正直、間に合わないと自分でも思ってたんだがなんとか間に合った。極限状態の集中力とかそういうことだろうか。
世界を代表する先進国日本の誇る圧倒的な品質の工業製品には、ガーゴイヌも文字通り歯が立たない様だ。
しかし攻防はこれで終わりでは無い。
肉食動物はしばし獲物に食らいついた後、自らの体ごと捻る事で肉を抉り取る。警戒は必至!
鉄芯と分厚いゴムソールを持つ安全靴が千切られる事は無いかもしれない。
だが、材質の違いから同じ大きさの動物よりも重たいガーゴイヌが、噛んだまま体を捻じれば俺の脚は電球みたいにくるくると回されて胴体から取り外されてしまうかもしれない。
脚を捩じ切られる前に、ガーゴイヌに止めを刺す必要がある!
マチェットを逆手に持ち替えて両手でしっかり持ち、そのまま全体重を載せてガーゴイヌ目掛けて全力で振り下ろす!
ガーゴイヌは俺の爪先を咥えているのでその切っ先が狙いを外れる事は無い。ただ真っ直ぐ自分の足元に向かって振り下ろせば当たるのだ!
俺は二起脚もどきで空中に飛び上がっているので後は落ちるだけだ。
マチェットの切れ味を!
成人男性の体重全てを!
比類なき自重を!
自身の体で味わうがいい!
着地すると同時にゴスっと重たい感触が手に伝わる。
マチェットの切っ先を体の奥深くまで突き立てられた衝撃で、ガーゴイヌは全身に亀裂が走りそのままバラバラに砕けた。
この威力!
まぁ成人男性1人の重さが分散もせずに、切っ先から真っ直ぐピンポイントに伝わったのだ。マチェットより柔らかい素材でできたガーゴイヌではどうしようもなかっただろう。
こうして神誉さんは初陣で勝利を収めて、ガーゴイヌを文字通り全滅させたのだった。
なんか終わってから振り返ってみれば敵は尽く一撃で文字通りに粉砕できたし、怪我一つ負ってないし、楽勝だったかもしれない。
まぁ、もし敵の攻撃が先に届くような事があったなら、俺は一矢報いることもなく噛み殺されていたと思うから楽勝ということもないか。
人間、謙虚な姿勢が大事なのだ。勝って兜の緒を締めよともいうし。
さて脅威が去ったなら後始末だ。
俺は無傷だったけど、勇敢に戦った村の男達には負傷者も居るのだ。
「治療のため負傷者を下げる。それ以外の者は付近を刈り残しがいないか警戒して欲しい」
男達に指示を出して場を仕切る。
戦闘を含むあらゆるコミュニケーションは、先手を打つ事こそ肝要なのだ。主導権を握れるから。
場合によっては論理的な根拠の無い理不尽・暴論であろうと通る事もある。理知的な人間なら誰でも道理のわからぬイノシシに正道を説く真似はしないからだ。そういうものに出くわすと、ただ刺激しないよう遠巻きにするものだろう。
閉口するような傍若無人な人がいるのはそういう理由だと俺は勝手に思ってる。
尤もそういう種類の人間は集団から爪弾きにされて、やがて自滅するとも思ってるので自分だけはすまいとも思ってもいる。
まぁ少なくとも今回の指示内容は妥当な内容のつもりだ。
「あ、あの、貴方は一体?」
と、男達の1人から尋ねられた。
おぉそうか。指示が妥当でもその場にいるのが相応しくない人間からだと戸惑いもあるか。
「犬に襲われているのを見て助けに来た」
なんかこの遣り取りもついさっきやった気がするなぁ。お花ちゃんはちゃんと安静にしてるかな?
「自己紹介は状況が終了してからにしたい」
と、俺の正体よりも犬の全滅を確認する方が大事だよとそれとなく誘導。
っていうか俺、この世界からしたら正体不明の存在じゃん。どういう方向で説明しよう?
ちなみに神誉さんは若者言葉とかそういう「日本語の乱れ」に関しては寛容だ。言葉は変化するのは当然だからだ。日本語と国語は別だと思ってる。
ただ「的を得る」とか「二の足を踊る」とかの誤用に対する指摘は厳しい。
特に「汚名挽回はおかしい」とか「全然には肯定形を繋げるのはおかしい」とかの、誤った日本語を指摘してるつもりで指摘が誤ってるパターンは大嫌いだ。
内心で色んな事に考えを巡らせつつも、表面上は何食わぬ顔で怪我人を連れ立って、お花ちゃんの居た大きな建物に戻る事にした。
大きな建物の中では、ご婦人や子供達がお湯を沸騰させ終わったところだった。
沸騰した直後のお湯なんて傷口にかけたら大変な事になってしまう。ちょっと冷ますまでまだ時間がかかる。
そこで周りを見渡してみると、お花ちゃんが俺の安静にする様にという指示を守って、隅っこで鎮座ましまししてるのが見える。自分も働きたいのに我慢して、ちょこんと座って目だけは人の動きを追ってウズウズしているのが可愛らしい。多分普段は働き者ないい子なんだろう。
お花ちゃんにほっこりしつつ、俺も治療の準備を始める。
と言っても、背嚢から取り出した救急箱を広げるぐらい。手袋を外して消毒液のスプレーで手洗いをしておけばもう準備は終わり。
どうせまともな医療知識のない俺にできる事は多くないのだ。
ちょっとお暇な神誉さん。せっかくなのでお花ちゃんと接触しようと思う。
今負傷者に対してできる事は無いし、お湯を沸かしてもらってた人達も今は新たにお湯が人肌程度まで冷めるのを見守る、という重大任務に従事してもらっているので忙しい。
そんなわけでお花ちゃんは暇潰しの相手にぴったりなのだ。長い睫毛のパッチリお目々が可愛いし、見てる限りいい子っぽいし。でも今は、そんな事はどうでもいいんだ。重要なことじゃない。落ち着け、冷静になれ。俺は可愛いからお花ちゃんと話すんじゃない…偶々話す相手が居ないから、お花ちゃんしか話す相手がいないから話すんだ!くっ…!落ち着け!あんな可愛い容姿に流されるな!うおおおおおっ!
ちょっと興奮した思考の鎮圧を手慣れた感じでしつつ、背嚢から携帯食料と水筒を取り出してお花ちゃんの元へ向かおう。
お花ちゃんは近付いて来る俺に気付いて、姿勢を正して緊張した表情になってる。俺ってばそんなに威圧的かな?
「楽にしてくれ。怪我は痛むか?」
とりあえず話題としてお花ちゃんの怪我について聞いてみる。
「はい!もう血は止まりました!」
お花ちゃんがハキハキと答えながら上目遣いにニッコリ笑う。お花ちゃん可愛い。毛先が跳ね気味の明るい髪色に小麦色の褐色肌。長い睫毛のパッチリお目々に、ちょっとぷっくりと膨らんだ唇。見た目は一昔前のギャルっぽいが、中身は天使系らしい。
っていうかもう血止まったのか。結構深く切られてた所もあったと思うんだけど………?
確かに、包帯の上から見てる限りは、俺が治療したとき以上には血は広がってない。不思議。
もしかしたら、犬型の動く石像がいるぐらいなんだし、この世界には回復魔法とかもあるんだろうか。
だとしたら、俺の治療行為を彼女達が不安気な顔で見ていたのも仕方ないかもしれない。それならきっと彼女達には俺が、根拠の無い民間療法を盲信する得体の知れない奴にでも見えた事だろう。
「血が止まったなら良かった。しばらくすれば傷も癒えるだろう」
しかし今でこそ血は止まったが結構な量の血を失っていた。造血剤でもあればいいのかもしれないが、そういうのは処方薬でなければあまり効果はないとか聞いた気がする。まぁ持ってないので選べない選択肢だ。
そこで手にした携帯食料に目をやる。
もそもそしてて喉が渇くけど、フルーツ味で食べやすいので、おやつ代わりにどうだろうと思い持ってきたのだ。
科学的な治療法が確立するまで怪我や病気は、栄養価の高いものを食べて安静にする事で治してたらしい。生命力を高めて自然治癒させるのだ。
携帯食料も栄養たっぷりなのでいけるかもしれない。
「これを食べるといい。怪我の治りが早くなるから」
「はい、ありがとうございます!」
携帯食料を差し出すと、嬉しそうに目を輝かせて両手を伸ばすお花ちゃん。超可愛い。
だけどここでお花ちゃんの顔が曇る。携帯食料の包装の開け方がわからなかったのだ!お花ちゃん可愛い。
一度手渡した携帯食料を受け取って、目の前で開けてからお花ちゃんの手に戻す。
その時に気付いたがお花ちゃんの手は、小さいのに皮膚の一部が硬くなっている。多分なんらかの道具を使い続けた事で、手の皮が破けて修復を繰り返す内に角質化していったのだろう。
有り体に言えばタコというやつだ。俺はタコに明るくないのでお花ちゃんの手だけを見てどんな道具の使い手なのかはわからない。けどお花ちゃんは何かに打ち込んだ立派な手をしてるのだ。お花ちゃん偉い。
俺からひたすらヨイショされているとは夢にも思わないお花ちゃんは、片手にすっぽり収まる小さな携帯食料を大事そうに両手で持ってマジマジと見つめてる。やがて意を決したように小さく口を開けてその先端にパクリとかじりつく。
なんでフランクフルトを日本から持ってこなかったんだ!!
俺は心の中で激しく自分を叱責した!
かなり課金したネトゲがサービス終了した時よりも激しく責め立てた!
考えても仕方ない事は考えないをモットーとする神誉さんといえど、流石にこの失敗を悔やまずにいる事はできなかった!
俺がそんな馬鹿な事を考えているとは露知らず、お花ちゃんは童女の様にあどけない無垢な笑顔を浮かべていた。
「すごく甘い…」
陶酔した様な表情でフルーツ味の携帯食料を噛み締めている。漫画的に言うと背景に効果線と点描になってて、描き文字で「パァー」ってなってる感じ。
俺の予想だけど、お花ちゃんの村で食べれる甘いものって果物ぐらいなんじゃないだろうか?
そう言えば聞いた事がある。果物が甘いというのは日本独特の事らしいと。俺が思い浮かべる様な林檎は日本人が品種改良した結果甘くなっただけで、外国産のは酸っぱいとか聞いた。
ということはお花ちゃん、今まで甘いものなんて食べる機会がなかったのかもしれない。だとすれば携帯食料の甘みは暴力的ですらあったことだろう。
「喉が渇くと思うからこれを飲むといい」
水筒を中身が飲める状態にして手渡す。
ダージリンは紅茶の中では飲みやすい方だと思うけど、お花ちゃんは大丈夫だろうか?紅茶は受け付けない人はホント受け付けないし。
「はい、いただきます!」
お花ちゃんは水筒を受け取って一口味を確かめた。
「これ、香りがすごくよくて………美味しいです!」
そういうとほっそりした喉をゴクゴクと紅茶を飲み始めた。
勢い良く水筒を傾けて飲んだせいで、唇の端から紅茶が滴って、なだらかな顎を越えて、首に筋を作りながら、鎖骨まで流れ落ちた。………なんでこれだけの事なのに思わず見入っちゃうんだろ?俺って鎖骨フェチだったんだろうか?
「気に入ったのならまだあるから、たんとおあがりなさい」
持ってきた残りの携帯食料を手渡す。
「ありがとうございます」
お花ちゃんが正に花が咲いたような笑顔で笑うのを見て俺は目を細めた。
ささくれだった神誉さんの心の中に優しい気持ちが芽生え、孫を甘やかす好々爺の様な慈愛溢れる目付きでお花ちゃんを見つめていた。
急造おじいちゃん気分を霧散させて冷静に考える。
しかし、よく考えたらあの水筒どうなってるんだろう?
おかしい。なんせこの水筒、容量はわずか500ミリリットルの筈なんだ。
俺がこの世界に来た時点で1回飲んでるし、お花ちゃんの治療行為にも使ったし、今現在進行形でガブガブ飲まれている。
もうとっくに無くなっていてもいいんじゃないだろうか?
勢い良く飲んでる様に見えても案外お花ちゃんが気遣って、美味しく飲んでる振りをしてくれているだけで実際は碌に飲んでないのだろうか?あのグビグビ動く喉が演技なら主演女優賞ものの演技だと絶賛しよう。なんせ普段飲んでる筈の俺が思わず紅茶飲みてぇって思うぐらい美味しそうだったし。
不思議不思議。
16/06/25 投稿